五日たった。 あいかわらず八樹は部屋の隅に座り、静かにジグソーをいじっている。 半屋が気まぐれに、難しそうなピースをはめようとすると、八樹は激しい瞳で半屋をにらんだ。おとなしそうに見えるこの子供は、意外に激しい気性を隠し持っているようだ。しかしそんなものは簡単に押しつぶされて、搾取の原因になるだけだろう。 半屋は八樹を誰とも会わせていない。きっと何か、この子供のために何かをしたほうがいいのだろうとは思う。 この子どもに何が必要で、何をしたらいいのか。わかるような気はするが、半屋はそれを深く考えようとはしなかった。ただ人には会わせていない。他の子供と遊ばせてもいない。そのせいで八樹はよりおかしくなったかもしれないが、卑屈さは徐々に消え始めている気がした。 しばらくジグソーに熱中していた八樹が、突然、野生の動物のように顔を上げた。 「きた」 八樹が睨み付けている方角から、カツカツと姿勢の良さそうな靴音が聞こえる。 徐々に近づく気配を感じながら待っていなくてはならないのは、苦痛以外のなにものでもない。半屋はその気配を気づかせた八樹に腹立ちを覚える。 半屋がどこに身を置けばいいのかつかめないでいるうちに、靴音が部屋の前で止まり、勢いよくドアが開いた。 「オレは育てろと言ったはずだが?」 梧桐は八樹を一瞥すると、なんの挨拶もなくそう言った。 「アァ?」 梧桐に対し半屋は本能的に身構える。ついさっきまで感じていた身の置き場のなさは跡形もなく吹き飛んでいた。 「育てろと言ったはずだ」 そういえば梧桐は確か『これを育てろ』と言っていたような気がする。梧桐自身で育てるわけにはいかないから、半屋が育てろと、そう言っていなかったか? 「ちょっと待て、オイ」 「なんだ?」 「ふざけてんじゃねーぞ!」 梧桐は半屋を無視し、手にしていた荷物を靴箱の上においた。 「これは特別に手に入れてやったのだ。わからなかったらこれを読め」 梧桐の持ってきた薄っぺらい本には< こくご 一年生 >と書いてある。そして梧桐が自信満々に指し示しているのは―――教師用の指導書だ。細かく見る気にもなれないが、どうも全教科そろっているようだ。 「これには戸籍がないのでな。小学校にあがることができない。貴様が教えろ」 「なにふざけたこといって……」 脳が思考を拒否している。 梧桐はなにかとんでもないことを言っているのではないだろうか。いつも梧桐はとんでもないが、それとは質が違う。 「貴様が育てるのだ。もっと責任を持って育てろ」 それだけ言うと、梧桐は部屋に上がりもせずに、帰ろうとした。 「まて、てめぇ、ふざけてんじゃねーぞ。誰がそんなことするかよ。だいたい、てめぇがダメならてめぇの女が面倒みればいいだろ! オレには関係ねーよ。わけわかんねぇこと言ってねぇで、さっさと連れて帰れ」 半屋は隣の子供を突き出した。子供は簡単に梧桐の前に出される。 梧桐は半屋の剣幕を軽くいなすと、威圧的な目で半屋をにらんだ。 「だから貴様はサルだといっておるのだ」 そう言って梧桐は視線を八樹に流した。八樹は―――半屋はそれが『人間』であることをすっかり忘れていたが―――今のやりとりで自分が誰にも必要とされていないと、そう思いこんだらしかった。あきらめきった、それでいながら自分で自分を際限なく傷つけているように透明な、目をしていた。 八樹から両親についての話を聞いたことはない。 ただ誰もいない。だから今、半屋が八樹を否定しても、彼は怒ることも悲しむこともできないのだろう。自分の感情をあらわにすること。それは誰かとつながっているという確信がないとできないことだと半屋は良く知っている。 「伊織はそういう存在ではない」 帰ろうとしているのだろう梧桐は、苦虫をかみつぶしたような顔で、場にそぐわないことを言った。 梧桐は伊織佳澄に関してだけ、いつどんなときでも、誰に対してでも、誤解をただそうとする。半屋はそんなどうでもいいことを呆然と考えながら八樹を見た。 半屋が八樹の様子に気を取られているうちに、梧桐は持ってきた荷物を置き『一ヶ月後またくる』と言って部屋から出ていってしまった。 そして、部屋には半屋と傷ついたままの八樹が残された。 梧桐は凍てつく冬の道を歩いていた。 革靴の底が規則的に硬い音を立てる。 しばらく歩いてから梧桐は立ち止まり、振り向いた。遠くに半屋の住むアパートが見える。 半屋は変わるだろう。そう望んだのは自分だし、そうであって欲しいとも思う。しかし…… 『君は卑怯だ』 耳の奥に二年前の断罪がよみがえる。 『君は知っていたはずだ。それなのに……』 『始めに言ったはずだが?』 そうだ自分は始めに忠告をした。それを聞かなかったのはあの男の方だ。 『セージ。あなたは間違ってないわ』 伊織はそう言った。あの男には可能性があると思った。それは事実だ。可能性があるから言わなかった。伊織が言うように間違いではないのだろう。しかし。 その可能性がついえ、いつもと同じようになることを自分は望んでいたのだろうか。そんなことはありえない。ありえないはずだ。現に今だって半屋が変わることを望んでいる。 でもそれさえも何か浅ましい感情のすりかえなのかもしれない。 自分を信じていたのだろうあの男の、悲鳴のような断罪が二年経った今も耳を離れない。 梧桐は固い靴音を響かせながら、険しい表情のまま家路を急いだ。 |