半屋はしばらく夢と現をさまよっていた。
 目が覚めるにつれ、夢の記憶は薄れてゆく。
 確かだったはずの輪郭もその眼差しもぼやけてゆき、半屋はまた日常に戻っていった。

 半屋の意識がもどるまで待っていたらしい客が、名残惜しげに半屋の髪を触る。
 本物の花魁ではない半屋は、木戸まで客を送ることも、約束の言葉を与えることもしない。
 それを知っているその客は、二言三言言い残し、半屋の部屋を去っていった。

 すでに他の花魁は見送りを済ませ、一時の休みに入っているようで、郭の中は静かだった。
 昨日の汚れを落とし、さっぱりとした服に着替えて煙管をふかしていると、
「相変わらず暇そうだな、半屋」
 と、ぎらついた瞳をした男が、まるで自分の部屋であるかのように入ってきた。
「てめぇほどじゃねぇ」
 幕真という名のその男は、この郭の実質的な持ち主で、普段はどこで何をやっているのかわからないが、時折こうして半屋の前に現れ、半屋を敵娼(あいかた)であるかのように扱った。
「客にはもう少し愛想良くしなきゃな」
「てめぇは客じゃねえよ」
 顔も上げずにそう言った半屋を幕真は側にひきよせ、からかうように躯をまさぐりだした。
「やめろ」
 幕真は半屋が初めて肌を重ねた人間で、その後も数え切れぬほど肌を重ねた。しかしどうしても慣れることができない。ぴりぴりとした嫌悪感と自分の精神を蹂躙されるような苦痛。実際には残忍な性格のわりには普通の抱き方をする男だが、半屋はそれになじむことができなかった。
「知らぬ仲でもあるまいし、つれないこと言うんじゃねぇよ」
 幕真もきっとそれに気づいている。何も言わないが、知っていて楽しんでいる様子が、よけいに半屋を苛立たせた。
「てめぇのことなんざしらねぇし、知りたくもねぇ」
「やっぱりあんたは面白いよ」
 幕真はそう言いながら、半屋の喉元にある彫り物をなでた。
 半屋は喉元には、この郭の紋が彫り込まれている。それは半屋が幕真の物である証とも言えた。
「どうした、半屋。急におとなしくなったじゃねえか」
「するならさっさとしろ」
「吉原の花魁がそんな無粋なことを言ったらいけないぜ」
 いちいち逆らうのも莫迦々々しい。どうせしてることなど花魁と変わらない。
 幕真は楽しげに低く嗤い、半屋の着物を脱がせた。


 半屋の境遇が大きく変わったのは、梧桐がいなくなってしばらくしてのことだった。
 郭に対する嫌がらせの程度が増し、その背後に幕真の影がちらついた。
 一人で幕真を探しだそうとする半屋を、廊主が必死で止める。そんなことが何回も続いたある日、突然、この郭の実質的な権利が幕真に譲り渡された。
 半屋には何があったかわからなかった。その少し前に、郭の一人息子がお歯黒溝にはまって溺死するという事故があり、元々吉原に嫌気がさしていたらしい廊主夫婦は大金を手にして、あっけなく田舎へ越していった。
 それと同時に郭への嫌がらせも止み、幕真の手の者が郭を守るようになった。
 半屋にできることは何もない。密かに守ろうと思っていたものも、すべてなくなってしまった。どこか別の場所にいかなければならないと思っていたとき、幕真に声をかけられた。
「あんたはこの郭に借りがあるんじゃないのかい」
 育ててもらった恩は武芸を極めて返すつもりだった。しかし今やそれもかなわず、返す相手もいない。
「俺はあんたも含めてこの郭を買ったんだ。その意味はわかるかい?」
 半屋は肯いた。しかし女ではない半屋は、ここにいてもただのやっかい者のはずだ。
「見せ物小屋の主があんたを売ってくれと言ってきたがね、それも悪くはないが今ひとつ芸がない。もっといい方法を考えたんだよ」
 この郭にはなんの特徴もなく、呼び出しの一人もいない。名前さえありふれている。しかし、お上の定めで遊郭の外観は決められていて、華美な看板を出すこともできない。幕真はそう言った。
「あんたのこの肌に店の紋を彫るんだよ。それで女と一緒に店に並べる。生きた看板ってやつだな。できるか?」
「なんだと?」
「見せ物になれって言ってるんだよ、半屋。格子に並べる以上、客に言われたらそれなりのことをしてもらわなきゃ困るがね」
 幕真は柔和な顔を崩さぬまま、そう言った。
 半屋には肯くことしかできなかった。


 すぐに彫り物を入れられ、その彫り物が完成するまで幕真に客の取り方を教え込まれた。
 半屋が格子に並ぶことになった日、十字屋では呼び出しや昼三、附廻しなどのお披露目が一挙にされた。それまで比較的目立たぬ郭だった十字屋は、一気に人目を集める郭にのし上がった。
 接待の質も変わった。そして、再び訪れようとする客は、異形の少年が格子にいる店を探すだけで良かった。
 幕真のもくろみは当たり、十字屋は中見世の中で一番のにぎわいを見せるようになった。


 ことが終わっても幕真は半屋の躯を放そうとしなかった。
「将軍が替わったのを知ってるかい?」
「しらねぇ」
 昨日の客が寝物語にそんなことを言っていたような気がするが、幕真にそう言うのも嫌だった。それに、将軍が替わったと聞いて、なにかざわめくものを感じる自分も嫌だ。
「ずいぶんと若いんだとよ。今日城に入るっていう話だから、客は少ないかもな」
 若い将軍。昔、この国を自分のものにすると言っていた子供を思い出す。そんな偶然などあるはずはないのだろうけれど。
「あんたが望むなら、居続けてもいいんだぜ?」
「あぁ?」
「今日は客が少ないからな。居続けて一日中たっぷりかわいがってやってもいいぜ。どうする?」
「冗談じゃねぇ。誰がてめぇなんか」
 幕真は嗤いながら続けた。
「それとも身請けしてやろうか、半屋。あんたを他の男に抱かせるのもいい加減飽きてきたしな」
「くだらねぇ冗談言ってんじゃねぇよ。昼見世の支度があるんだ、早く消えろ」
 幕真は『おっかないな』などとおどけながら部屋を去った。


 半屋は身支度を整えて、格子の中に入った。もともと客の少ないこの時間は、他の花魁たちも思い思いに時間をつぶしている。
 半屋は籬に寄りかかり、煙管をふかしていた。
 いつも昼見世は客がまばらだが、今日は特に人が少ない。そんな外の様子を見るとはなしに見つめながら、半屋はまたあの夢を思い出しかけていた。
「半屋」
 聞き覚えのない声が自分を呼んでいる。声変わりした、聞き覚えのない声。
 なのに半屋にはそれが誰なのかすぐにわかった。
「半屋、こんなところでなにをしてる」
 半屋はその声を無視した。

つづく



閑話休題

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