・・・意識はまだ朦朧としてはいたが、音がだんだん聞こえるようになってくる。
女の子の、泣き声。
そして、皮膚感覚が戻ってくる。
左耳の後ろがこそばゆい。
でも、気持ちいい。
僕はどうやら右の頬を下にして、地面に俯せになっているらしかった。
女の子の泣く声がする。
大丈夫だったかい? それとも、おにーちゃんは失敗しちゃったのかなぁ・・・。だから、どこか痛くて泣いてるのかな?
突然、電気が走ったように記憶が戻る。
無事かっ?!
「っひっ?」
がばっと起きあがった僕にびっくりしたのか、女の子は僕を引きつった表情で見上げている。
「ケガは無いかっ?!」
噛みつくような勢いで訊ねる。しかし、・・・僕は女の子の顔を見て瞬時に冷静さを取り戻した。ビビらせてどうする。
しかし女の子は健気にも返事をする。
「うん、・・・おにーちゃんのおかげでどこにもケガしてないよ。」
「ふぅーっ。」
僕は少々大げさに溜息をついて見せた。しかし、よくよく見ると女の子の口の周りがうっすらと紅い。
僕は、彼女が口の中でも切ったのかと思ってもう一度訊ねる。
「口のはじっこに血が付いてるよ。どこか切っちゃったんじゃないの?」
すると女の子は、
「これ、おにーちゃんのだよ。」
と言ってペロッと舌を出す。・・・え?
「ほら、ここ。」
女の子は、地べたに座り込んだ僕の左側に回り、左耳の後ろをちょんとつっつく。
「ぐっ?」
多少痺れていたせいもあって気づかなかったのだが、確かにそこからは鈍痛がする。思わず手をやってみたが、・・・しかし思っていたほどの出血ではなかった。
そしてさっきの記憶を辿ってみる。・・・あれ?
「ひょっとして。」
僕は、この目の前にいる小さなナイチンゲールを、今度はまじまじと見て言った。
「キミが舐めてくれたの?」
「うん。おとうさんがね、ちがでたらツバをつけるといいって。でもね、キズのところにゴミがあるときはベロでなめてゴミをとるともっといいんだよっておしえてくれたの。」
「ありがとう。」
僕は単純に頭を下げて感謝の意を表した。大の大人だって、目の前で出血している他人には動転してしまって動けなくなることの方が多いだろうに。彼女は(単にそこまで頭が回らなかっただけ、とも考えられるが)僕を懸命に気遣い、そしてキズ口を見つけると今度は助けたいという一心で僕の介護をしてくれていたのだ。
「えへへ〜。」
彼女はテレたのか、真っ赤になりながら両手を握りしめてモジモジと身を捩っている。
「でも、ごめんなさい。」
今度は真顔になって言い始める。
「え、何が?」
僕はその真意を測りかねて思わず返す。
「だって、・・・あたしがもっとはやくおにーちゃんにむかってジャンプしていたら、・・・えだもおれなかったし、おにーちゃんもケガしなかったでしょ?
だから、ごめんなさい。」
「気にしないでいいよ。」
僕は女の子の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「そのあと、のびちゃったおにーちゃんの面倒、ちゃんと見ててくれたじゃない。そっちの方がずっと偉いし、嬉しいよ。」
「おこってないの?!」
ぱっと花が咲くような笑みが広がる。
「うん、だからありがとうって言ったんだよ。わかった?」
「うんっ、じゃあこれで『おあいこ』だね。」
「そうだね。」
ちょっと違うような気もするが、ここはこれでいいんだ。僕はニッコリと笑うと、優しく続けた。
「じゃあ、キミもちゃんと口を漱いできなよ。あそこに水飲み場があるからキレイにしてね。」
「うんっ。」
女の子はたったかと駆け出し、・・・そして数歩行ったところで立ち止まってこう叫んだ。
「おにーちゃん、ありがとう、だいすきっ。」
僕はどんな顔をしていただろうか。
マヌケ面だったか、・・・それとも赤かったのか・・・。
取り敢えず聞こえなかったフリをし、改めて自分を襲った枝を見てみる。
・・・・・・・・・・・・・・太い。
さっきは上にあったので判らなかったのだが、こうして見ると随分と立派な大きさだ。多分、落下する時に他の枝に何回かぶつかったので威力が激減したのだろう。
そこまで見て、僕はおやっと首を傾げた。
この枝って、ひょっとすると白樺・・・なのか? なんでそんなもんがこんな都心の児童公園なんかに・・・。
思わず振り仰ぐと、僕の視界にあるのは銀杏の木だけだった。
狐につままれたような気分のまま水飲み場に何気なく視線をやった僕は、今度こそ完全に固まった。
ジャージャーと流れる水が陽光にキラキラと反射している。
しかし、・・・そこにあの女の子の姿は無かった。
蝉の声が、今までとは打って変わって激しさを増した。