Side-A:3


 ・・・さきほどから埒があかない。

 最初は僕自身が木に登ってゆけば事足りると楽観視していた。
 しかしよくよく見ればこの木だけでなくこの園内の木は、人の手の届く範囲の下枝が全て切り払われていた。これはもちろん児童公園に植えてあるのだから当然と言えば当然だろう。ヘタに落ちてケガをされるよりは最初から登らせなければいい・・・。

 そこまで考えて僕は唖然とする。
 一体、どうやってこの木に登ったんだ、あの子?

 でも待てよ。そもそも体格だけは大人になってしまった僕には不可能だが、子供の柔軟な思考と体なら可能な、なにか別の方法で登ったということもあり得る。例えば・・・。
 思考が別方向に向かいそうになる。

 あー、待て待て。今はあの子を助けるのが先決だ。登った方法なら後でいくらでも聞ける。

それに仮に僕が木に登るとっかかりを見つけたとしても、あの子の乗っている枝は非常に細いうえにあの子自身が随分と先の方まで進んでしまっている。とてもじゃないがそこまで僕の腕は長くない。・・・せめてあの子が僕の腕の届く範囲にまで降りて来られたらいいのだけども。いや、それが出来るのならばとっくにやっている。女の子は先ほどから口は達者なのだが手足はちっとも言うことを効かないらしい。

 時間ばかりがどんどん過ぎていく中、・・・「それ」は突然に起こった。




ミシッ。




 反射的に両腕を前に突き出して受け止める体制を整えながら、僕は女の子の掴まっている枝を端から端まで目で追う。取り敢えず柿の木じゃないことにホッとしながら、僕はこれでもう何度目かになる虚しい呼びかけをやめ、危機感を煽るように話し始めた。

「今の音、聞こえたよね?」

 女の子は状況を把握したらしい。首をコクコクと振って、こちらを今にも泣き出しそうな瞳で見つめ返す。

「で、どうしようか? もうあんまり時間も無さそうだし、・・・どうだい、おにーちゃんを信じてジャンプしてみようか。」

 すると女の子は、今度は首をブンブンと横に振る。やっぱりコワイだろうな。ましてや飛び込むべき相手と言うのが今さっき知り合ったばかりの名前も知らない高校生じゃあ信頼もへったくれもありゃしない。
 いっそ、怒らせるか? そうすれば、少なくとも怒りに任せて踏ん切りだけは良くなるハズだ。何にせよ、早くしないと・・・。




ミシッ。




 ・・・「肝を冷やす」と言うが、今のこの状況があってこそ、この音は僕の肝を絶対零度にまで冷やしてくれそうな気がする。早くしないと。
 僕は少々いらだってきたが、それでも枝の上にいる子猫に呼びかけるようにゆっくりと辛抱強く語りかける。

「ね、そのまま枝と一緒に落ちるかい? 枝と一緒だと、きっとすごーく痛いと思うよ? その点ホラ、おにーちゃんの腕は柔らかいから、君だけがここに来てくれれば痛いことはちっとも無いと思うけどなぁ。」

 女の子は自分の乗っている枝と僕の差し出した腕とを交互に見比べている。よし、あともう一押し。

「ほら、勇気を出して。おにーちゃんは君のことをぜーんぶ受け止めてあげるよ。だからおにーちゃんを信じて、思い切って飛び込んでごらん。『落ちる』んじゃなくて、『よし、あそこなら大丈夫だぞ』って気持ちで。」

 ・・・『落ちる』という言葉が『堕ちる』だったりしたら、僕はアブナイ結婚詐欺師の烙印を押されるだろうな、などという馬鹿げた思考が一瞬よぎる。すると。

「ちゃんとつかまえてねっ!!」

という声が降ってくる。女の子は意を決したようだ。よし、あと一息!!

「大丈夫、ここで待ってるから!!」
「うん、わかった、・・・えいっ!!」

 しかし、その凛とした覚悟はちょっとばかり遅かったようだ。

メキメキメキッ!!

 女の子の顔が大写しになってくるのを正面に見ながら、完全に折れた枝がゆっくりとこちらに向かって降ってくるのを、僕は視界の隅に感じていた。そして僕の手に最初に触れた柔らかいものを必死で掴むのとほぼ同時に、僕の左側頭部に鈍い衝撃が伝わった。落とすもんか。やっと信じてくれたんだ。落とさないぞ。落とさない・・・・・・。



"And then, there were..."
(#2)


Side-B:3


「山のあなたの空とほく、幸ひ住むと人の言ふ。

ああ、我 人と止めゆきて、涙さしぐみかへり見ぬ。

山のあなたになほ遠く、幸ひ住むと人の言ふ。」

(カール・ブッセ作、上田敏訳 『山のあなたに』)

 ・・・その詩を初めて読んだとき、私は授業中だと言うのにぼろぼろ泣いた。もう、このままあの人のことは忘れなくてはならないのだろうか・・・。、なぜだかこの詩が遠回しに私を諭しているような気がして、・・・私は苦しくなった。あの手紙をしたためてから、既に二月が経とうとしていた。

 そんな私を見て、周りの友達は色々と気遣ってくれた。しかし、その優しさが申し訳なくて私は更に泣きじゃくった。ごめんなさい、もう限界。私が欲しいのはあなた達じゃない。あなた達じゃダメなの。何故だか自分でも理由が見つけられないのだけれど、私には「あの人」じゃなきゃいけないの。

 こんなに純粋に、しかも強烈に「会いたい」などと思うのは一体何故なんだろう。
 たったの数ヶ月、あの人は私の小学校にいただけの「転校生」だったというのに、なぜ私はこれほどまでにあの人に惹かれるのだろう。

 だから、その日たまたま行ってみた近所の公園で声を掛けた人物が、あの人だと判った時は驚いた。
「来てくれた」・・・それだけで、その事実だけで十分だった。そして思った。これは、私のこの想いも含めた二人に関する事象すべてが、抗うことなど最初から不可能な「運命」なのだと。
 懐かしい顔を見て涙が零れそうだったけれど、その気持ちはぐっと飲み込んで、私はまたちょっとだけ手足をパタパタと動かしてみた。仲間内では好評の手製の名刺を手渡し、早速デートに引っ張り回してみる。わがままを言う。突然「もう帰る」と言ってみる。
 お互いが過ごしてきた時間と距離と環境の差はすぐには埋められなかったとは言え、あの人は本質において何も変わっていなかった。戸惑っていたりもしたけれど、でもやっぱり最後まで私に付き合ってくれた。停滞していた私の中の時間がゆっくりとほつれてゆくのを、私は実感していた。

 嬉しい。嬉しい。嬉しい・・・。言葉が足りないほどに。

 そしてありがとう。
 私みたいな子をちゃんと思い出してくれて。



Side-A:4

 ・・・意識はまだ朦朧としてはいたが、音がだんだん聞こえるようになってくる。
 女の子の、泣き声。
 そして、皮膚感覚が戻ってくる。
 左耳の後ろがこそばゆい。
でも、気持ちいい。

 僕はどうやら右の頬を下にして、地面に俯せになっているらしかった。
 女の子の泣く声がする。
 大丈夫だったかい? それとも、おにーちゃんは失敗しちゃったのかなぁ・・・。だから、どこか痛くて泣いてるのかな?

 突然、電気が走ったように記憶が戻る。
 無事かっ?!

「っひっ?」

 がばっと起きあがった僕にびっくりしたのか、女の子は僕を引きつった表情で見上げている。

「ケガは無いかっ?!」

 噛みつくような勢いで訊ねる。しかし、・・・僕は女の子の顔を見て瞬時に冷静さを取り戻した。ビビらせてどうする。
 しかし女の子は健気にも返事をする。

「うん、・・・おにーちゃんのおかげでどこにもケガしてないよ。」
「ふぅーっ。」

 僕は少々大げさに溜息をついて見せた。しかし、よくよく見ると女の子の口の周りがうっすらと紅い。
 僕は、彼女が口の中でも切ったのかと思ってもう一度訊ねる。

「口のはじっこに血が付いてるよ。どこか切っちゃったんじゃないの?」

すると女の子は、

「これ、おにーちゃんのだよ。」

と言ってペロッと舌を出す。・・・え?

「ほら、ここ。」

 女の子は、地べたに座り込んだ僕の左側に回り、左耳の後ろをちょんとつっつく。

「ぐっ?」

 多少痺れていたせいもあって気づかなかったのだが、確かにそこからは鈍痛がする。思わず手をやってみたが、・・・しかし思っていたほどの出血ではなかった。
 そしてさっきの記憶を辿ってみる。・・・あれ?

「ひょっとして。」

 僕は、この目の前にいる小さなナイチンゲールを、今度はまじまじと見て言った。

「キミが舐めてくれたの?」
「うん。おとうさんがね、ちがでたらツバをつけるといいって。でもね、キズのところにゴミがあるときはベロでなめてゴミをとるともっといいんだよっておしえてくれたの。」
「ありがとう。」

 僕は単純に頭を下げて感謝の意を表した。大の大人だって、目の前で出血している他人には動転してしまって動けなくなることの方が多いだろうに。彼女は(単にそこまで頭が回らなかっただけ、とも考えられるが)僕を懸命に気遣い、そしてキズ口を見つけると今度は助けたいという一心で僕の介護をしてくれていたのだ。

「えへへ〜。」

 彼女はテレたのか、真っ赤になりながら両手を握りしめてモジモジと身を捩っている。

「でも、ごめんなさい。」

今度は真顔になって言い始める。

「え、何が?」
僕はその真意を測りかねて思わず返す。

「だって、・・・あたしがもっとはやくおにーちゃんにむかってジャンプしていたら、・・・えだもおれなかったし、おにーちゃんもケガしなかったでしょ? だから、ごめんなさい。」
「気にしないでいいよ。」

 僕は女の子の頭をくしゃくしゃと撫でた。

「そのあと、のびちゃったおにーちゃんの面倒、ちゃんと見ててくれたじゃない。そっちの方がずっと偉いし、嬉しいよ。」
「おこってないの?!」

ぱっと花が咲くような笑みが広がる。

「うん、だからありがとうって言ったんだよ。わかった?」
「うんっ、じゃあこれで『おあいこ』だね。」
「そうだね。」

 ちょっと違うような気もするが、ここはこれでいいんだ。僕はニッコリと笑うと、優しく続けた。

「じゃあ、キミもちゃんと口を漱いできなよ。あそこに水飲み場があるからキレイにしてね。」
「うんっ。」

 女の子はたったかと駆け出し、・・・そして数歩行ったところで立ち止まってこう叫んだ。

「おにーちゃん、ありがとう、だいすきっ。」

 僕はどんな顔をしていただろうか。
 マヌケ面だったか、・・・それとも赤かったのか・・・。
 取り敢えず聞こえなかったフリをし、改めて自分を襲った枝を見てみる。

 ・・・・・・・・・・・・・・太い。

さっきは上にあったので判らなかったのだが、こうして見ると随分と立派な大きさだ。多分、落下する時に他の枝に何回かぶつかったので威力が激減したのだろう。

 そこまで見て、僕はおやっと首を傾げた。
 この枝って、ひょっとすると白樺・・・なのか? なんでそんなもんがこんな都心の児童公園なんかに・・・。

 思わず振り仰ぐと、僕の視界にあるのは銀杏の木だけだった。
 狐につままれたような気分のまま水飲み場に何気なく視線をやった僕は、今度こそ完全に固まった。

 ジャージャーと流れる水が陽光にキラキラと反射している。
 しかし、・・・そこにあの女の子の姿は無かった。

 蝉の声が、今までとは打って変わって激しさを増した。



Side-B:4

 何度か会ううちに、夏になった。
 私とあの人はあの日、思いつきではあったが泳ぎに行くことになった。

夏、二人の男女、海。

 その単純にして明快な思考が、なんだかほほえましくもあり、そして可笑しかった。

 またワガママをしてみたくなって岩陰に隠れた私は、・・・しかしうっかりウニの針を足に刺してしまった。自業自得。もうしません、ゴメンナサイ・・・。

 あの人もさすがに「困ったような」ではなく、本当に困ってしまったことだろう。私自身もこの時ばかりは、自分のドジとあの人への申し訳なさで本気で泣けてきた。
 痛みと馬鹿馬鹿しさで泣いている私を、・・・しかしあの人はイヤな顔一つせずにおぶってくれた。そう、最後はいつもこうなのだ。許してくれる。笑ってくれる。

 水着で覆われていない部分、素肌と素肌が直に触れ合う。

 ・・・私は、あの人の背中で夢見心地だった。情欲に溺れる女性の気持ちが何となく理解できた。

 一つになりたい。
 感じてみたい、この人の全てを。
 二人の間にあるこの邪魔でしかない肉体など捨てて、二人のカタチが無くなってしまうまで溶けあいたい。
 そして、例えなにがあってもこの今の気持ちだけは守ってゆきたい。

 あの人の背中に揺られながら、私はそんなことを考えていた。

 陽光がたまたま私たち二人の後方から差したその時、・・・私はあの人の左耳の後ろに、かすかな傷痕を見つけた。

その瞬間、私の中で何かが弾けた。

 なんだろう、はっきりとは思い出せない。
 でも、・・・私はこの傷痕を知っている。
 何故?
 ひどく懐かしく、そしてくすぐったいような感覚・・・。
 既視感とも違う、・・・いいえ、これは確信。



 私はおぶってもらっている間、その傷痕からどうしても目が離せなかった。

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“sentimental graffiti”はNECインターチャネル/マーカス/サイベル/コミックスの著作物です。.