Speak about Speech: Shuno の方言千夜一夜




第545夜

メディアは頼れるか



「地方」についてはいろいろとにぎやかである。
 合併しかり、交付金しかり、権限委譲しかり。税制をいじる、とかいう話も出てきている。
 全国的に注目を浴びるイベントも各地で行われている。
 旅やグルメのバラエティ番組も多い。
 映画やドラマで、各地のフィルム コミッションの名前を頻繁に見るようにもなってきた。
 残念ながら、事故や災害も多い。
 ということで、方言は、頻繁にメディアに載る。

 一方で、方言が前よりも使われるようになった、という話は聞かない。
 あれ?

 まず、既存メディアの影響力を疑っておく必要がある。
 たとえばラジオ。「ラジオ深夜便」は大人気でムックも出るほどだし、ローカル FM 局は全県に行き渡った感じだし、なかなか頑張ってるなぁ、と思っている人も多いかもしれない。
 ただ、電通の調査*1では、2004 年の時点で、ラジオに出稿される広告費の総額は、インターネット向けの広告費を下回っているのだそうである。これがイコール聴取者数ではないにしろ (誰がターゲットなのか、ということもある)、メディアとして退潮している、ということは言える。尤も、ネット以前からそうは言われていたが。
 テレビや雑誌もそう。
 ことにテレビは、捏造やら不正支出やらで大騒ぎである。政治がメディアに口を出しやすい状況を用意した、という点でまさしく「人道に対する罪」だと思うのだが、とにかく娯楽供給装置としてしか相手にされていない。
 雑誌が薄くなったと感じてる人もいると思うが、物理的な話だけではなく、内容もしかり。テレビ業界をネタにした記事の多さにはあきれる。週刊文春が、長澤まさみの肌の露出が少ない、というキャンペーンを張ったときにも驚いたが、菊池寛も草葉の陰で泣いているに違いない。

 方言がメディアに載る、というのはどういうことか。
 これは、外に出て行く、ということだ。つまり、秋田在住の俺が鹿児島弁を聞いたり、北海道弁を聞いたりする、ということである。
 このことは、何かを起こすきっかけになるだろうか。ならないような気がする。「へぇぇ」で終わるのがほとんどだろう。
 言葉そのものが一つのメディアであるとすれば、そこに載せるコンテンツがあってこその存在だ、ということになる。メディアにふさわしいコンテンツ、そのコンテンツを載せたいメディア、という関係を考えれば、全くなじみのない方言というものが、エキゾチシズムと知的好奇心の対象以外のものにはなりえない、ということがわかる。
 たとえば、「単に気温が低いのではなく、命に関わりかねない寒さ」を表現する「しばれる」という語を、南国に暮らす人が実感を持って使う事はありえないし、四方が稜線である山国で生まれ育った人には「島唄」の感覚を正しく理解することはできないと思う。
 つまり、方言はその地域にあってこそ本質的な輝きを持つ、という、ちと平凡な結論に達する。
 となれば、方言の復興の基礎は、その地域の人々が使う、にしか存在しない、ということになる。ホームページでの紹介や、映画のロケの誘致もいいが、まず自分達、であろう。

 ただ、いくらホームページが「全世界に向けた発信」だからと言って地元の人が見ていないわけではない。そこは、Workd Radio Japan とは違う。
 山一つ越えるだけで違う表現を知ったり、すっかり忘れていた方言を思い出したり、ということはあるだろう。

 ひょっとしたら、方言がテレビのせいで衰退したのだ、という意識があるからかもしれない。ならば逆にテレビに攻めていってやれ、というような感覚。
 それはまぁ、外れてはいないのかもしれない。ただやっぱり、自分達に向けて送り出すのと、外に向けて送り出すのとでは方法も内容も違うと思う。具体案は出せないけど。
 これにはおそらく、受け止める側の準備も必要なのだと思う。
「テレビで言ってたから本当だろう」というような意識では、テレビに載せることが目的になって、放送された瞬間に終わってしまう。その次をどうするか、というところまで考えなければなるまい。
 それは、ほかの地域の文物を目にしたときも一緒で、「へぇぇ」と思ったときに、自分達に引き寄せて考えることが出来るか、ということであろうと思う。そういう習慣がないと、「テレビに来てもらったから何とかなるだろう」という辺りで止まってしまうのではないか。

 というのは、そのテレビ番組の捏造に関する、視聴者側の騒ぎで、「信頼を裏切られた」みたいなコメントが多かったことがある。「捏造」という単語が使われるようになったのは最近だと思うが、メディアの誤報、嘘、粉飾なんてのは今に始まったことではなく、呆れるしかない。「信じてたのかよ!」と突っ込む気にもなれなかった。
 雑誌が薄くなったのには、紙や印刷のコストだけでなく、読者が長い文章を読めなくなっている、という現実もあるらしい。
 つまり、受信側のリテラシーが低いのは間違いがないわけで、そんな状態では、ジャーナリストではなく商人であるメディアの人々、その背後にいる政治家さんにやられておしまいだぜ、と思っている次第。なんか生臭い文章になってしまったな。





*1
 リンクするな、と書いてあるのでリンクはしない。興味のある人は電通のホームページを探して、[資料室]→[日本の広告費(過去分)]→[2004年 日本の広告費] とたどって見て欲しい。(
)





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