別に年末の大掃除ってわけでもないのだが、棚を整理してたら、スクラップの束が出てきた。
その大半は既にここで話題にしてしまっているのだが、ちょっとタイミングの問題で残っていた奴を今回、取り上げてみる。
日本ペンクラブのシンポジウムである。
ペンクラブが文筆家の組織であることを知っている人は多いと思うが、「ペン」はただの“pen”ではなく“P.E.N.”つまり、頭字語でもあることはご存知か。“Poet”“Playwrite”、“Essayist”“Editor”、“Novelist”なんだそうだ。
眉村 卓が副会長だとは知らなかった。
そのシンポジウムは、11 月末に奄美大島で開催された。テーマは「言葉の牢獄―方言からの再出発」。前半の趣旨は良くわからん。新聞にも紹介されていない。そもそもペンクラブのホームページにこのシンポジウムのことが載ってないのはどういうことよ。
秋田魁新報の記事に寄れば、まず、下重 暁子氏が、方言には標準語では表現できないニュアンスがあると「持ち上げた」。
次に、吉岡 忍氏が、共通語の世界はつまらない、と指摘した。
とりたてて新味はない。
下重氏の言う「〜では表現できないニュアンス」というのは、何度も書いてきたが、有無ではなくてずれである。
氏は例として新潟の「
じょんのび」を挙げたそうである。これには、「のんびり」に加え「リフレッシュ」という意味合いがあるらしい。「寿命が延びる」が語源だ、というページが多数ある。
つまり「のんびり」という共通語は、「
じょんのび」が持つ意味を伝えられないわけだが、逆に、「リフレッシュする」というニュアンスをもたない「ひたすら楽」という意味を「
じょんのび」は伝えることができない。新潟の人は、これを別の言葉を使って表現しなければならない。もし一単語では表現できず説明的に長くなってしまうとすれば、それは、「方言は共通語のもつニュアンスを表現できない」ということになる。
つまり、よく言われる「方言は標準語では表現できないニュアンスを表現できる」という言い方は一面的なのである。方言ってすばらしい、という前提に立った言葉なのだ。
俺も昔、そんなこと書いてるけどな。
記事は、島歌の歌い手、築地 俊造氏の登場で一変する、と続く。
氏が大阪に出て行ったとき、一度、頭の中で翻訳作業をしてからでないと言葉にならなかった、という体験をもとに、方言禁止令は必要だと感じた、と述べている。
禁止令が必要、というのは表現の問題だろうと思う。共通語は必要なものだ、ということであろう。第二言語の習得は、ある程度の強制力が伴わなければおぼつかない、ということを言ったのだと想像する。
実はこのシンポジウムについては、会場となった奄美大島の新聞、
南海日日新聞にも載っている (
→) のだが、この発言には触れていない。
秋田魁新報の方は、おそらく
共同通信社からの配信だと思われる。こっちの記事は、比較的、方言に対してニュートラルな感じを受けた。
パネリストの西木 正明氏 (秋田出身) が言うように、共通語がなければ、秋田の人間と奄美の人とが会話することはできない。まず第一に、必要なツールなんだ、ということを認めなければなるまい。
さらに、現在、流通している「表現」の大多数が共通語もしくは標準語だということも忘れてなるまい。本屋に行ってみる。あるいはウェブの文章を読んでみる。それはほとんどが共通語だ。そこに「味がない」というのは間違いだろう。パネリストたちの自己否定とすら言ってもいいのではないか。
もっと突っ込むなら、方言の持つ表現力 (繰り返すが、それは共通語とのずれが持つ力である) を強調するのは、方言を表現のためのツールと見ている、ということではないのだろうか。
最後に吉岡氏が言うように、問題なのは無批判な画一化であろう。「方言を使うことは主流的なものにノーと言うことだ」という言い方はいささか大仰な気がしないこともないが、だってみんながやってるもん、となびくのではなく、ちょっと待て、と考えられる能力があるかどうか、ということが問題なのであろう。
今「無批判」という言葉を使ったのは意図があって、本来の意味の「批判」、つまり、検討した結果、それでいいんだよね、という結論を出すこともありうる、という作業がなされるべきだ、ということである。色々考えたけど、方言じゃやってけねーよ、ということも認められなければならない。このとき、方言愛好家が取るべき態度は、「がんばれ」と無責任なことを言うのではなく、方言でやってける社会を作ることではないのか。
そのとき、方言には共通語にない豊かな云々、という偏った見方は、はげましになることはあるかもしれないが、むしろ障害になりはしないか。
吉岡氏のいう、「ぶつかり合いをエネルギーに変え、楽しめるかどうか」、という気持ちが方言愛好家にあるだろうか。