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つい1、2年前までは、国際関係のキーワードはグローバル化だった。世界の現状や将来は、すべてグローバリゼーションとの関連で語られる傾向にあった。ところが最近では、アメリカ帝国という概念が急速に普及してきた。この1年間だけでも、アメリカン・エンパイアという文字がタイトルに入った著作が米国でも数冊刊行されてきたし、雑誌・新聞記事の類でも、それをテーマとしたものが非常に多い。いつのまにかグローバリゼーションは、色あせてしまったことばであるかのような感じさえする。
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興味深いことに、帝国という概念は、現在の米国において、政治的思想的に左から右にかけて、広く使われているようにみえる。1960年代から70年代にかけての、ヴェトナム戦争当時、反戦の立場にあった人たちのあいだでは、米国帝国主義論がはやっていた。すなわち反体制側の思想であり、マルクス主義を根底とした米国論であった。その後帝国主義論は80年代から90年代を通じて下火になったが、21世紀になってふたたび影響力を持つようになってきた。しかも今の米国では、主として思想的に右寄りの論者のあいだでもてはやされているようである。
もっとも帝国主義(インペリアリズム)ということばはあまり使われず、帝国(エンパイア)としての米国、という見方が一般的であり、さすがに自国を帝国主義国家と規定することにはためらいがある。しかしながら、アメリカの知識人の多くが抵抗なしに自国を帝国ととらえ、中にはそれを肯定的に考えているものもあるのは、興味ある現象である。世界唯一の超大国、覇権国家としての米国、というイメージがその背景にあるが、ただ超大国あるいは覇権国家というだけではなく、アメリカン・エンパイアという名称を使って、帝国としての米国を積極的に評価しようとする。
もちろん中道派ないしリベラル派のなかには、米国は覇権国(ヘゲモン)だとしても帝国ではない、少なくともなるべきではない、と主張する人たちもある。保守派の間でも、「現実主義者」の多くは、世界各地を支配するような帝国的戦略には消極的である。が、一昔前までは、帝国などというものはアメリカの歴史や信条と相反するものだ、としていた識者のあいだですら、最近では米国は帝国となった、あるいはなりかけているという見方をとるものが少なくないようである。
なぜ米国帝国論がはやるのか。それはとりもなおさず、現代の国際情勢を理解するうえで、帝国という概念が役立つと思われているからにほかならない。国際刑事裁判所や京都議定書などの取り決めに束縛されない、といった単独行動主義や、アフガニスタン戦争、イラク戦争などに見られる軍事行動などを理解するには、エンパイアとしての米国という見方はそれなりの説得力を持つ。圧倒的な軍事力、経済力を背景に国際社会に君臨する、少なくとも君臨しようとしている米国は、帝国の名称に値するかもしれない。ブッシュ政権の外交政策を支持する人々の間で、米国帝国論がもてはやされているのも、理解できることである。
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それにしても、グローバリゼーションとエンパイアのあいだの関係はどうなっているのだろうか。2、3年前までグローバル化を賛美していた論者で、今は帝国肯定主義者になっているものが少なくないのは何故なのか。
イギリスの歴史家ニール・ファーグソンが最近出版した『エンパイア』は、この点について明快な解釈を提供している。彼によれは、経済的な現象としてのグローバル化には、政治的な枠組みないし裏づけが必要で、それを提供するのが帝国国家なのである。国際経済がグローバル化するためには、国際政治秩序(インターナショナル・ガヴァメント)が整っていなけれはならず、そのような秩序を形成、保護したのが19世紀のイギリス帝国である。21世紀の米国帝国も同じような役割を果たそうとしている、少なくとも果たさなければならない、と論じている。この見地からすれば、アフガニスタンやイラクで米国がおこなっているのも、世界のグローバル化を支えるための政治行動にほかならない。
果たしてそうだろうか。むしろ帝国としての米国は、グローバリゼーションに逆行する行為をしているのではないか。本当に米国がグローバル化された国際社会を推進しようとするのであれは、軍事よりは政治、経済、文化などの面で、もっと各国と協力していくべきなのではなかろうか。
根本的には、グローバル化とは何か、という問題に帰着するが、19世紀後半から明白になったこの現象の中心に、国際社会の相互依存性ないし相互浸透性といったものがあることに注目すべきである。20世紀を通して、米国はそのような意味でのグローバル化を推進した。その場合、自国の軍事力を盾とした単独行為によってではなく、主として経済や文化の面で、より開かれ、より豊かな世界を築くことを目指した。その過程で、いうまでもなく各国との協力はきわめて重要だったし、世界中の多くの人々も米国の理念や理想を共有しながら、自分たちの社会の向上を図ろうとしたといえる。もちろん2度の世界戦争、冷戦、あるいは数多い局地戦争のように、グローバル化と相反する動きもあったが、現代史を理解するうえで、相互依存的な国際社会の発展と、それに対する米国の貢献を軽視することはできない。
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そのような流れが20世紀末期の世界を形成し、また相互依存的な国際秩序の発展へとつながっていくのだとしたら、これからもグローバリゼーションの役割は重要である。しかしグローバル化は、根本的には米国の帝国化とは相いれないものだといえるのではなかろうか。グローバル化した世界には数多くのネットワークが出来上がっているはずであるのに対し、帝国体制は軍事優先の支配体制をもたらし、トランスナショナルよりはヒエラルヒー的な国際秩序を志向するものだからである。日本としても、これからもいっそうグローバル化を推進する勢力に加担し、国際社会におけるネットワークづくりに貢献すべきであるが、それはあくまでも米国帝国の協力者となることとは別個のものである。
(出典 朝日新聞 2003.12.2 夕刊 思潮21)
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[Last updated 12/31/2003]