本の紹介 文明の衝突と21世紀の日本



サミュエル・ハンチントン著
Samuel P. Huntington

鈴木主税訳

集英社新書

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  目 次

1. 本との出会い
2. 本の概要
3. 本の目次
4. 著者・翻訳者紹介
5. はしがき
6. 解 題
7. 読後感

1. 本との出会い
 パソコン懇談会の鬼怒川旅行で中沢君と同席者との間で話題として採り上げられ、中沢君がメールで発信しました。私はかねてから関心は持っていましたが、未だ読んでいませんでした。これを機会に、まず図書館で借りて読み、改めて購入しました。

2.本の概要
 93年に発表された「文明の衝突」理論は、その後のコソボ紛争、さらに東ティモール紛争でその予見性の確かさを証明した。アメリカ合衆国の「21世紀外交政策の本音」を示して世界的ベストセラーとなった「原著」の後継版として、本書は理論の真髄を豊富なCG図版、概念図で表現し、難解だったハンチントン理論の本質が、一目のもとに理解できる構成とした。その後99年に発表された二論文を収録、特に日本版読者向けに加えた「21世紀日本の選択」は、単行本「文明の衝突」読者必読の論文である。

3. 本の目次
はしがき…………………………………………………………………3

21世紀における日本の選択
 − 世界政治の再編成………………………………………………19
 冷戦後の世界
 パワーの構造
 文化および文明的観点から見た孤立国家・日本の特徴

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孤独な超大国 − パワーの新たな展開……………………………55
 パワーをめぐる国際関係
 アメリカは慈悲深い覇権国ではない
 無法者の超大国
 柔軟な対応
 孤独な保安官

文明の衝突 − 多極・多文明的な世界 ……………………………91
 多極化・多文明化する世界
 文明の性質
 現代の主要な文明
 文明の構造
 中核国家と文明の断層線での紛争
 冷戦後の国際関係
 アジアとアメリカの冷戦
 転機となる戦争、アフガン戦争と湾岸戦争
 西欧の再生はなるか?
 文明の共通した特性

解題 中西輝政 ………………………………………………………190
 「ハンチントン理論」の衝撃
 「日本の選択」と「ハンチントン理論」

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4. 著者・翻訳者紹介
サミュエル・ハンチントン
1927年ニューヨーク生まれ。
ハーバード大学政治学教授。
同大学ジョン・オリン戦略研究所ディレクター兼務。1977〜78年国家安全保障会議、安全保障政策担当コーディネーターを務める。アメリカを代表する戦略論の専門家。本著に先立つ『文明の衝突』は世界的ベストセラー。他に『変革期社会の政治秩序』『軍人と国家』『第三の波‥20世紀後半の民主化』など

鈴木主税(すずきちから)
1934年東京生まれ。翻訳家。
W・マンチェスター『栄光と夢』で翻訳出版文化賞を受賞。
訳書にJ・トレガー『世界史大年表』、ビル・エモット『日はまた沈む』、ポール・ケネディ『大国の興亡』著書に『私の翻訳談義』など

5. はしがき
 この小著は、今後の国際政治を形成していくと考えられるトレンドについて、私の考えの要点をまとめたものであり、いくつかの部分によって構成されている。すなわち、私の前著『文明の衝突』の抜粋と、1998年12月に東京で行なった講演「21世紀における日本の選択−世界政治の再編成」、そして『フォーリン・アフェアーズ』誌1999年3−4月号掲載の論文「孤独な超大国」である。これらの文章で焦点を当てているのは、冷戦時代の世界政治と、出現しつつある世界政治のパターンとのあいだの二つの大きな相違点である。
 第一に、冷戦時代は政治やイデオロギーによって国家間の協力関係や敵対関係が決まり、世界の国々はおおまかに「自由世界」、共産圏、第三世界という三つのグループに分かれていた。だが現在は、文化ないし文明という要素によって国家の行動が決定される傾向が強まり、国家は主に世界の主要な文明ごとにまとまっている。すなわち、西欧文明、イスラム文明、東方正教会文明、中華文明と、それぞれの文明ごとに国家のグループができているのである。
 第二に、冷戦時代におけるグローバルな力(パワー)の構造は、二つの超大国の支配する二極体制だつた。だが、いま出現しつつある世界の力の構造はもっと複雑であり、一極・多極体制とでも呼ぶべきものだ。この体制を構成するのは一つの超大国(アメリカ)と、世界の特定の地域は支配できるが、アメリカほどに世界的な影響力をふるいえない七つか八つの地域大国、各地域でしばしばこれらの大国とリーダーシップを争うナンバー・ツーの地域大国、そして世界政治にあまり大きな役割をはたしていない他のすべての国々である。こうした力の構造は、一方の超大国と他方の地域大国とのあいだの対立をうながす傾向がある。
 現実化しっつあるこうしたトレンドは、東アジアの国際政治にとって重大な意味がある。東アジアの国々の属する文明は六つ(中華・東方正教会・日本・西欧・イスラム・仏教)に分かれており、そのうち四つの文明の主要国である中国、ロシア、日本、そしてアメリカが、東アジアの諸問題に主要な役割をはたしている。
 東アジアでは、数十年間にわたって経済がいちじるしい発展をとげたため、どの国も軍事力を強化することができた。そして東アジアは、ヨーロッパにかわって強国同士の競争が最も激しい地域となった。中国は、150年間にわたって西欧の諸大国と日本に従属するという屈辱を味わってきたが、やはり経済成長をとげたことで、東アジアにおける覇権国としての歴史的な役割を再びになおうとしている。
 このように事態が進展したことによって、日本はさまざまな問題に直面する。日本には固有の独特な文明があり、その日本文明は、他の文明とは異なり、この一つの国に特有のものだ。したがって、日本は他の国々にたいしておのずと文化的な親近感や敵意を抱くことがなく、それゆえに日本が望むならば、自国の力の強化と物質的な繁栄だけを目指して、外交政策を遂行できるのである。
 しかし、パワーということについては、日本は曖昧(あいまい)な立場にある。中国と比較すれば、日本は地域のナンバー・ツーだが、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)や韓国と比較すれば地域大国だ。また、日本は東アジアにおけるアメリカの主要な軍事同盟国でもある。こうした複雑な関係のなかで、さまざまな機会をとらえて難問に対処していくことが、今後の日本の外交政策にとって最大の課題となるだろう。
 この小著は、日本のとりうる選択肢を示すものである。本書をきっかけに、日本の読者がそれらの選択肢を理解し、建設的な政策を推進して将来の繁栄を目指してくれればと願うものである。

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6. 解 題               京都大学教授 中西輝政
「ハンチントン理論」の衝撃

 明晰な分析で見通した「時代の直感」
 サミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」論が、1993年の夏、初めて世界の論壇に登場したときの衝撃は、今でも忘れることはできない。個人的には、私自身が冷戦後の世界秩序のあり方について、似たような方向で考えを進めており、ある出版社からの話もあって、それをともかく一冊の本にまとめようとしていた矢先のことであった点も大きかった。
 しかし何よりも「文明の衝突」が衝撃的であったのは、その内容と議論の鋭角的な輪郭がもつインパクトであった。21世紀の世界は、当時支配的な見方であった「グローバルな国際社会の一体化が進む」という方向ではなく、むしろ数多くの文明の単位に分裂してゆき、それらが相互に対立・衝突する流れが新しい世界秩序の基調となる、という彼の議論を雑誌『フォーリン・アフェアーズ』(93年夏号)で初めて目にしたとき、私は自分がそれまで考えてきた21世紀の世界像を、はるかに明晰かつ強烈に展開している「ハンチントン理論」の衝撃力に、"目まい"に似た感覚すら覚えたものであった。実際、正直いってそれは、「やられた」という気持ちであった。
 まだ80年代の「国際化」とバブル気分の余韻が残っていたこの時期の日本では、「ベルリンの壁」の崩壊と冷戦の終焉は、市場経済と民主主義がのっぺらぼうに世界をおおい文字通り「一つの世界」が現出する時代が来た、という"新株序"イメージを人々が素朴に信じていた時代だった。しかし、現実にあらわれつつあった世界は、民族や宗教の違いに根ざす、かつてのイデオロギー対立よりもはるかに鋭く根深い対立が多くの地域紛争を引き起こしつつある世界であった。しかし実は、この調和と安定を強調する「イメージ」と、他方で目の前に現われつつあった「新しい現実」との狭間ですでに人々は当惑し始めていたのだが、そのことを明確に説明してくれる体系だった議論は、当時世界を見わたしてもほとんどない状況であった。
 本来、学者というものは、一つの理論を提示するとき、何らかのインスピレーションを内に秘めつつも、数多くの事実やデータをつき合わせ長期にわたる自己検証を経て、しかるのちにそれを世に問うものである。また、そのときでさえ、自分が提起しようとする理論が、世の中の一般的な見方、既存の価値観や評価の基準に照らして、果してどう位置づけられるのか、といった「俗事」にとらわれやすい。日本の学者や評論家にはとくにこの後者の傾向が強い。「文明の衝突」論も、駆け出しの、あるいは新進気鋭の学者によって唱えられていたら、その衝撃力も限られたものであったろう。しかし、多くの人々が内心で「もしかしたら、今後の世界はこれまで鳴りもの入りで言われてきたバラ色の"新株序"ではなく、何かもっと深いマグマが噴き上げてくるようなものになるのではないか」と思い始めていた丁度そのときに、アメリカを代表する国際政治学者として、あのキッシンジャーと並び称されてきたハーバードの代表的知性の一人、サミュエル・ハンチントンがまさにズバリとこの間隙を突いたのが、「文明衝突」論であった。93年夏という時点で、人々の何とはなしに感じ始めていたこうした「時代の直感」を、余すところなく、おそらくは120パーセントの明晰さと踏み切りの良さでもって、世界に問うたのが先の『フォーリン・アフェアーズ』論文だったのである。

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「ピルグリム・ファーザーズ」=アメリカを体現する理論家
 ハンチントン教授が、なぜ世界に先がけてあれほど体系だった形で文明衝突論を唱えることができたのか。それは国際政治学者としての卓越した洞察力とキャリアもさることながら、すでに冷戦終焉にはるかに先立つ時期から、世界秩序の底流に見え始めていた「新しい現実」にいちはやく目を向ける大きな視野の研究に教授が携わってきたことが大きかったように思われる。70年代末から彼は、世界における民主化の趨勢(すうせい)の実態とそれが世界秩序に対してもつ意義について、各地域・各国、あるいは各個人の中に生じている現実の価値観や精神構造の変容を具体的に追う作業に従事していた。
 80年代半ば、いまだベルリンの壁が厳然として存在していた頃、アメリカ留学中だった私は、米国の国際政治学者や思想家の中でも、とくに洞察力に秀れた深い学識をもつ人々は、すでに冷戦を超えて21世紀を見通すような視野をもって、マクロ的な世界秩序の変容の方向を探り始めていることを知り驚かされたものである。実は、日本人の多くのように、「冷戦が終わってから、冷戦後の世界を考え始める」のでは、すでに認識上の"敗者"となることが運命づけられていた。いわんや、「冷戦後の世界は、平和と協調の時代となり、軍事力や国家というものがその意義を失う時代となる」、といった戦後日本的な"ユートピアニズム"が改めて唱えられていたわが国の知的風土ではとても歯が立つわけはなく、この10年余り21世紀の世界像について、くりかえし日本の認識と対応が混乱を重ねてきたのも必然といえた。
 しかし「ハンチントンの衝撃」が世界的にもあれほど大きかったのは、彼が戦後のアメリカを代表するような国際政治学者の一人であると共に、アメリカの知的社会においても「主流中の主流」と見られてきた、いわば"大御所"的な権威を帯びた知識人であったところが大きい。実際、彼は17世紀初頭、東部イングランドからマサチューセッツヘ初めて移民した「ピルグリム・ファーザーズ」と呼ばれる人々の中に直系の先祖をもつ、いわば「アメリカ」を体現するような家系の出身でもある。若くしてハーバードの俊秀として将来を嘱望される学者としてのスタートを切り、朝群戦争・ベトナム戦争を現地で体験し、またケネディ政権とカーター政権においてはホワイトハウスで外交・安全保障の政策立案に携わった経歴をもつ、いわばアメリカの「国家戦略」を生涯のキャリアとしてきた人物でもある。当然、多くの著作を刊行してきたが、若い時期に出した『軍人と国家』(1964年)は、民主主義において政治家が軍部をどう動かしてゆくべきか、いわゆるシビリアン・コントロールについて考えるときの古典的書物の筆頭につねに挙げられてきた。

 皮肉な結論 − F・フクヤマ理論を超えて
 このような、名実ともにアメリカ国家と社会の"主流中の主流"に属するハンチントン教授が、「21世紀の世界は、民主主義によって一つの世界が生まれるのではなく、数多くの文明間の違いに起因する、分断された世界になろう」という、およそ「非アメリカ的」な世界像を、しかもあれほど突出した形で切り込むように世界に提起したことに、欧米世界では多くの人々が驚いた。
 あの『歴史の終わり』を著わし、ベルリンの壁の崩壊に先立って、冷戦後の世界のあり方をいちはやく世に問うた、同じくアメリカの国際政治学者で思想家のフランシス・フクヤマを知る人々はわが国にも多いだろう。フクヤマは、21世紀の世界は、グローバルに民主主義と市場経済秩序が定着し、もはやイデオロギーなどの大きな歴史的対立がなくなる"歴史の終わり"という時代となろう、と予言したが、この世界ヴィジョンこそ、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」が世界を覆うという、典型的な「アメリカ的世界像」を描くものであった。
 つまり、大変皮肉なことに、日系三世のフクヤマがもっとも「アメリカ的」な世界像を唱え、ピルグリム・ファーザーズ直系のニュー・イングランド人(典型的アメリカ人)のハンチントンがもっとも「非アメリカ的」な世界像をそれぞれ世界に提起したわけである。一体、この「皮肉」は何に由来しているのであろうか。私の見るところ、これは決して個人的な次元に帰し得ない、21世紀のアメリカと世界に関わる本質的な問題を内包するもののように思われる。少なくとも、ハンチントンの「文明の衝突」理論を読み解くもっとも重要なカギの一つが、ここに潜んでいるように思われるのである。

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「文化多元主義」とハンチントンの視点
 本書の最後の部分にある「文明の共通した特性」(邦訳書『文明の衝突』集英社刊では、第5部第12章)の個所に出てくる次の部分は、このことを考える上で大変、示唆的である。

「アメリカには国内で多文化主義(アメリカは西欧文化の国と考えるべきではない、という主張。以下カッコ内は中西注)を奨励する人もいれば、海外での西欧文化の普遍性を説く人もあり、両方を主張する人もいる。国内での多文化主義はアメリカと西欧をおびやかし、海外での普遍主義は西欧と世界をおびやかす。両者とも西欧文化の独特な特性を否定している。世界的な単一文化を唱える人びとは世界をアメリカのようにしたいと思い、国内の多文化主義者はアメリカを世界のようにしたいと思うのだ。(しかし、)多文化的なアメリカはありえない。というのも、非西欧的なアメリカはアメリカではないからだ。(また)世界帝国がありえない以上、世界が多文化からなることは避けられない。
 アメリカと西欧(の覇権)を保持していくには、西欧のアイデンティティを一新する必要がある。世界の安全を守るには世界の多文化性を認めなくてはならない。」

 ここから読み取れることは次の二つである。第一は、アメリカを多文化社会にしてはならない、ということ。第二に、アメリカと西欧は、世界を多文化的な存在(つまり多くの文明から成るということ)として認め、決して単一文化(つまり西欧的文化)に染め上げようとしてはならない。もしそうすれば、今後も保持してゆかねばならない欧米の、あるいはアメリカの世界におけるリーダーシップ(ないしは優越した地位)が、むしろ早期に覆(くつがえ)される危険が生じる、ということである。
 今日、アメリカで言われる「文化多元主義(マルチ・カルチュラリズム)」あるいは「多文化社会」論というのは、アメリカという国の文化は、決して単一の西欧(あるいは白人)文化に限定されてはならず、黒人、ネイティブ・アメリカン、ラテン系アメリカ人、アジア系(あるいはユダヤ系)その他の、非西欧文化もそれぞれ西欧文化と対等の存在としての地位を認められねばならず、言語や歴史、その他社会全般に関わる認識や教育、公共政策の方向もそれを助長させるものでなければならない、という主張である。
 この主張の影響力は日本にいるとわからないが、アメリカでは近年ことのほか強まっており、大学や知識人社会ではもはやそれに疑問をさし挟むことさえ難しいほどの、知的・社会的拘束力をもつものとなっている。
 それゆえ、本来の意味で良心的な学者は、たとえばアメリカの歴史が、学校ではコロンブスのアメリカ発見ではなく、ネイティブ・アメリカンのアメリカ大陸定住から延々と説き起こす形で教えられ、「白人の侵略」といった言葉や、「英語以外にも国語の制定を」といった運動が市民レベルでも大手を振ってまかり通る、という現状に不満と懸念を深めてきたのである。
 なぜなら、それはアメリカの社会を分裂と混乱に向わせ、アイデンティティの一大喪失を招くことが、洞察力のある人なら誰の目にも明らかだからである。この点についてはすでにわが国でも話題となったアラン・ブルームの『アメリカン・マインドの終焉』(みすず書房)や、本書の中でハンチントンも度々引用している、アーサー・シュレジンジャー・Jr.の『アメリカの分裂』(岩波書店)などが、危機感をもって取り上げてきたところである。実際、現代アメリカのどんな事象を観察する際にも、この「文化多元主義」vs.「西欧アイデンティティ論」という対立軸をつねに意識して見てゆく必要がある、といっても過言ではないほど、この「軸」がアメリカ人の意識を強く拘束している。

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「日本の選択」と「ハンチントン理論」

国家戦略論としての「文明の衝突」理論

このように見てくると、ハンチントンが「文明の衝突」理論を唱えた真の動機が明らかとなる。
 その第一は、アメリカと西ヨーロッパを単一の文明共同体として強調し、それが世界で他の文明と対峙し、衝突の危険さえ潜在していると説くことによって、米国内における「西欧アイデンティティ」論の大切さに目を向けさせ、大きな視野から文化多元主義に対抗する拠点を人々に提供するという狙いである。
 第二に、世界には西欧文明とは根本的に異なる多くの文明が互いに分立・対峙している姿を説くことにより、アメリカ人に対し、世界の中で現在の西欧が依然として保持している相対的な優位と覇権(ないしリーダーシップ)を守るためには、西欧文明を「普遍」と思い込んで世界に押しつけていってはならないと訴えるのである。なぜなら、その場合、「西欧」は世界中を敵に回し、本来ならもっと長続きしたはずの「西欧の優位」を早期に失うことになる、と考えるからである。
 そこでの「西欧」の、世界に対するあるべき対し方は、非西欧世界の中に根深く存在する諸文明間の分裂と対立を視野に入れ、「西欧vs.非西欧」の対立軸を避けつつ、いわば非西欧世界を「分割統治」しうる、という可能性をつねに模索するようアメリカ人に訴えるもの、といってよいかもしれない。このようにして「西欧の優位」という一点において、上述の第一と第二の点が見事に収斂してくるのである。まことに見事な国家戦略論と言う他はない。

 日本人とハンチントン理論の価値
 このように見てくると、もしかすると、非西欧世界の一員でもある我々日本人としての立場からは、一体どのようにハンチントン理論をとらえ、評価したらよいのか、という新たな戸惑いが生じるかもしれない。
 しかし、私自身の立場はきわめて明瞭である。それは、我々はハンチントン理論を、知的業績として高く評価しうるし、全体としてその訴えるところに深く耳を傾けるだけの価値をもつものであると同時に、現代の日本人にとって、きわめて重要な意義を有するもの、という評価である。
 まず何をおいても、本書で、あるいは彼が自らの理論を最も広汎に論じ尽した『文明の衝突と世界秩序の再編』(邦訳『文明の衝突』集英社刊)において取り上げ、論証しているところが大筋において学問的に適格かつ公平であり、同時にしばしば深い知的洞察に溢れたものであるからである。さすがは世界一流の政治学者、文明論者、として頷かされる個所に随所で出会う。
 第二に、これだけの権威が、これほどの素直さで欧米から見た「世界の実相」を語る書物は近年珍しく、とかく日本国内で建前的な議論や非現実的な世界観しか与えられない日本人の読者にとって、「世界の実相」、とくに欧米の主要なリーダーが本音に近い部分で世界をどう見ているかを知る上で、本書は誠に貴重な一作であるといえよう。おそらく上述のように、アメリカ国内に残存する奇妙な理想主義者の陣営に論争を挑み、「アメリカのアイデンティティと大きな国益を守らねば」、というハンチントンの使命感と危機感が、このような例外的に率直な叙述を引き出したのであろう。また、エコノミストの発言力が強い日本の知的社会では、経済人を中心にバランスを失した「グローバリズム」論によって歪んだ世界観に陥っている日本人が多い現状を考えれば、「文明の衝突」論は、きわめて健全なバランス効果をもつはずである。
 第三に、ハンチントンは、トインビー、シュペングラーといった文明史の代表的論者が繰り返し強調してきた、日本文明の独自性に関する議論を踏まえて、日本の文明的アイデンティティがきわめてはっきりとしたものとしてあり、それは中国文明(本書では中華文明)を始めとする他のアジア文明とは全く異質の、それ自体独立した一個の大文明(西欧、イスラム、中華など他の諸文明と並立するという意味で)である、という見方をしている点である。これは一日本人として私自身がこれまで研究してきた結論と一致している。
 戦後の日本人にとっては、「日本独自の文明など、果してあるのだろうか」という疑問が先に立つほど、我々は「日本」についてネガティブな感覚に浸ってきたところがある。また、「戦前の日本で唱えられたような危険な"一人よがり"につながるのでは……」といった非歴史的な決まり文句もつぶやかれるかもしれない。
 しかし、この見方はハンチントンだけでなく、西欧の文明史論者がつねに言ってきたところなのである。「日の丸・君が代」の論争の中でも見られたように、戦前や戦争中に存在したものは全て軍国主義につながるもの、といった極端な自己否定、アイデンティティ否定は、本来、人間性から見てきわめて不自然なものであっただけでなく、知的・学問的に見てもきわめて不正確なものであったと言わなければならない。
 おそらく、戦後世代が作り出した現代日本をめぐる倫理的・精神的混乱や教育の荒廃の根源は、ここにあったのかもしれない。この点をめぐる私自身の見解を具体的に展開するのは、別の機会に譲らねばならないが、今日、新たな歴史資料の発掘から、戦後のアメリカの占領政策に対して、日本の文化的伝統を余りにもドラスティックに破壊し過ぎるとして、これを「不当」とする見方を堅持していたアメリカの知識人が思いのほか多かったことがわかってきた。その意味で、これは「ダグラス・マッカーサーが犯した誤(あやま)ちを、サミュエル・ハンチントンが正している」という見方すらできよう。
 第四に、ハンチントン理論が日本人にとってもつ意義は、21世紀の日本が、アジアと世界において、とるべき重要な指針を我々に示唆している点である。それはひとえに中国をどのように見て、これとどう対すべきか、という点に収斂する。

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 「日本の選択」としての「文明の衝突」論の意義
 私自身とハンチントンとは、中・長期的な中国の将来像については大きく見方を異にする。本書においても繰り返されている通り、ハンチントンは全体として中国は今後も安定して経済の急速な成長を続ける、という見方に傾いているが、私は長期的に見て中国という社会は大きな変動に直面し、「21世紀の超大国」の座を現実のものとする可能性はまずないであろうと考えている。この点についてもここで詳細に展開できないのは残念だが、21世紀に入ると時間が経つにつれ「分裂する中国」という文明史的特質が浮上してくるはずである。
 しかしそれまでの間、日本と世界は「膨張志向」が強く残っている現在の中国に対処する必要、という現実的課題に直面しつづけることもたしかである。とりわけ近年の中国が、経済の発展が減速し始める中で突出した軍事増強路線を続けており、共産党の独裁体制が続く限り、どうしても性急なナショナリズムやアジアの覇権に手を伸ばそうとする志向はなくならないことがはっきりしてきた。日本にとっては、同じ"覇権主義"であっても、このような未成熟で「粗野」な「覇権」よりも、アメリカの成熟し経験済みの「覇権」の方が、誰が見ても相対的には好ましいはずである。
 しかし、そのとき、「日本はアジアの友を見捨て、西欧の味方をするのか」という、元来誤ってはいるが、どうしても"直き心"あるいは「実直なる日本人」(司馬遼太郎氏の表現)の心の琴線に触れる問いかけが起るかもしれない。しかしこれに対しても、日本人が自信をもって返答でき、文明のアイデンティティと大きな国益が両立する「日本の選択」のあり方を示唆している点で、ハンチントンの示す道は、21世紀に入っても当面、日本人にとり大きな意義をもつものであることは間違いないであろう。

7. 読後感
 若い頃に読んだアーノルド・トインビーの「歴史の研究」(大著ではなく日本での講演を中心にした啓蒙書)を読んで、歴史を文明の単位で見る考え方を学び、学校で学ぶような「何年に何が起こった」というような暗記物ではない歴史の見方に感銘を受けたましたが、この本では更に冷戦後の世界を「文明の衝突」という見方で解釈し、世界的な紛争や米国の考え方などを知る上で必読の書であると思います。
 冷戦後、超大国は米国のみとなり、京都議定書に対する米国大統領の発言などを見たり、各地で発生する紛争のニュースを聞くと、今後の世界の動向に心配をせざるを得ません。そういう際に、まずこの本にあるような各国の位置づけをし、力関係を認識した上で、自分の考え方をまとめてゆくことが大切だと思います。
 最近、日本の起源や近現代史におけるわが国の在り方を考える機会が多いのですが、たまにはこの書にあるような大きな立場から、わが国のことを考えてみる視点も欠かせないと思います。

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[Last updated 4/30/2002]