私の百名山 鳥海山 (2240米)
1962年3月21〜24日
文および写真:横田 和雄

ちっとも巧くならないゲレンデスキーに飽きて、もともと雪の山へ登る道具としてのスキーだと云い、山スキーと称して大斜面さがしに熱をあげ、谷川岳芝倉沢、熊穴沢、シッケイ沢、至仏山、安達太良山、八方尾根、根子岳と滑っているうちに、ある日、山岳部の集会で土光さんから鳥海山へ行った話があった。
“すげー大斜面だぜ”という話しに発奮した高橋君が企画して、スキーを始めたばかりで、そのころ売り出された竹の合板スキーを持った深井君と三人で出かけた。

目が覚めると、列車は鉛色のどんより曇った冬の日本海に沿って走っており、寝不足でぼんやりと荒れる海を眺めていた。
吹浦の駅のホームのすぐ裏は浜辺で、松が並び渚であった。一応海抜ゼロ米からと云うことで、海に触って歩き出す。
デカキスにスキーを担いで、本にあるとおりこの山の主と云う、畠中善哉氏のお宅で山のことを伺うと、氏は丁度今年初めて自分の山小屋を見て来たいからあとから行くと云う。
長い道を歩き、駒止めの営林署の小屋で一休み。立派な檜作りの小屋で50万円で買わないかと云われたがご遠慮した。一生の内、何回来られるかわからない。
五合目の大平の平原の雪に埋もれた小屋も、天気が良いので見つかり、一晩泊まる。土光さんの話しでは、ガスのなか小屋捜しに苦労したとき、高度計が威力を発揮したという。

翌日は快晴。畠中さんと地元のスキーヤーと一緒に、シールを効かせて快適に登る。外輪山の一角に到達、火口に下る為トラバースにかかった途端、先頭の畠中さんがスリップし、10米位で傾斜も緩くなり、ピッケルで止まる。続いてアイゼンを効かせて渡ろうとすると、下から畠中さんが“やめろ!やめろ!”と叫んでいる。さればと2〜3歩引き返したところで、突然登る意欲が急激に萎んでしまった。

畠中さんが戻るのを待ち、シールをはずし滑降に移る。大斜面をとばしてもスピード感がない。ターンするとき、はじめて相当のスピードを感じて愕然とする。
十分に堪能して小屋に戻り、再びデカキスを担いで、一気に駒止めまで下る。雪山は帰りが楽で、登りの苦労を十分に償ってくれる。
時々、海に近い方の斜面に突っ込むと、湿った雪がスキーに付きブレーキが掛りよろめく。

吹浦からタクシーで湯の田温泉へ行き、温泉につかりビールで乾杯!!庄内米の旨いところだ。あとは暖房の効いた部屋で前後不覚。しあわせな眠りであった。
翌日、暖かい春の日和のなか、余目,新庄と乗り継ぎ、のんびり帰京した。
シールを付けてさあ出発 光輝く日本海 雪に埋もれた大平小屋
頂上は遠い 大雪原を往く 最高峰“新山”目前で退却
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