わがままなろーどれーす概論

コースと道路
転倒
予選
NSR250RK
決勝
好き者達
総合力

コースと道路 〜私は筑波生まれのスズカ育ち〜

 道路で曲がるときは、カーブに合わせて減速を済ませ、定常旋回に入ります。アクセルは一定にしておきます。そして、曲がりきってから、加速します。先の見通しが利かない事も多く、何か落ちているかも、何かが飛び出してくるかもしれません。

 コースでは、ほとんどアクセルは全開か全閉のどちらにします。急ブレーキ、急旋回、急加速の組み合わせです。特に、私がレースを始めた筑波サーキットは回り込んだコーナーが多く、アクセルをパーシャルにしておく時間は非常に短いコースです。コーナーに進入してもまだブレーキを続け、ブレーキを離す頃はフルバンクしています。減速終了したらすぐ、"エンジンのツキをだして"、アクセルを一気に開けます。低速でも、高速でもあまり違いはありません。最初のころはこれができず、定常旋回時間を長くとりがちでした。

 やがて、SUGOやスズカに行くようになると今度は回り込んでいない"開いた"コーナーが多くなりました。今度は筑波のくせが邪魔になります。突っ込みすぎがちでした。開いたコーナーは早めにブレーキを解放し旋回開始しながらアクセルを開け始めます。

 筑波は冷静に丁寧に、SUGOは旋回スピードを高め、スズカは大胆アクセルを開けていきたいコースです。筑波は1つのコーナーを除き、コースサイドのすぐそばから観察できます。よく早い人の走りが観察できます。

 スズカは大好きです。男は「健さん」、サーキットは「スズカ」です。


ストレートから望むスズカ第1コーナー
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転倒 〜うまく転ばないと大変〜

 転倒は印象深い出来事です。ロードレースを観ている側にとっては、興味を構成する重要な部分でしょう。4輪と違ってコースアウトは転倒につながります。上手に転倒できないと怪我します。道路でも学生の頃はよく転んだものでした。

 最初の転倒は筑波の旧左高速でした。初めてスリックをはいた日、そのグリップ力に驚き、どこまでやっても転びそうになかったので、ドンドンエスカレーションしてその日の内に派手にやってしまいました。チャンバーが曲がり、タンクとシートとカウルが車体からはずれてしまいました。当時のスリックは特に限界付近の挙動が掴みづらいものでした。筑波で転倒していないコーナーはないと思います。当時はなかなか練習走行が確保できない状況でした。転倒で壊れそうな部品は一式用意して練習にいきました。1日2走行確保できているときなど、1回目で転倒破損しても、2回目も走ってたものです。最大の難点はマシンが壊れることです。転倒修理の部品代はこの上なく、レース財政を圧迫します。やがて、次第に"前向きな転倒"は減っていき、転倒原因はミスやトラブルだけなっていきました。

 ハイスピードな転倒は筑波の最終コーナーで2回、スズカのスプーン一つ目の1回です。筑波の最終は進入時と立ち上がり時1回づつやってます。進入時のほうはスピードがでています。アクセルをもどすと同時にバンキングさせながらシフトダウンしていきます。直線部分でブレーキは掛けません。フロントタイヤ形状の違うタイプを試していて、あっさりフロントから滑りました。クラッシュパッドに突っ込むまでは覚えているのですが、どうやってコースから運び出されたか覚えてません。スズカのスプーン進入の転倒はWETで、縦方向の水の流れにのって、これもフロントからあっさり転び、マシンはコースアウト後、グラベルの上で縦方向に転がり大破しました。うーん、フロントの滑りのコントロールは難しい。スズカのメインストレート終わりでも派手にやったことがありますが(時速200km超)、靱帯損傷で済みました。捻挫や打ち身程度は日常茶飯事です。

 怪我をしたのはいわゆる中速以下のコーナーでした。筑波の1コーナで、左親指の付け根、SUGOの3コーナーでは右手首、筑波のダンロップ下先で左鎖骨をそれぞれ骨折、鎖骨は開放骨折です。いつも完治しない内に次ぎのレースにでたり、トレーニングしたりしてしまいます。鎖骨は2度付きかけては外れてしまい、経過が悪く完治に3年くらいかかってしまいました。長かったノービスから昇格が決まっていて、翌シーズンは勝負の年でした。比較的年齢の高い私には、あまり時間がありません。少々焦っていました。しかし、これ以降満足な体調を作り損ない、その後、ほとんど成長することなく引退に至りました。


予選 〜数分間に全力投入、ザ集中力〜

 レースは予選でタイム計測をして、その順位で、スタート順位を決めます。

 最初の年は筑波SP250にエントリーしました。4戦くらいしかなかったので、経験を増やそうとそのままの車両でF3にも2回エントリーしました。決勝は32台しか走れませんが、エントリーの多いときは500台を越えたときさえあって、予選通過がなかなかできませんでした。筑波の予選時間は約10分。タイヤ温度があがってからの正味は約7分以下です。スズカに至っては、ひどいときにはタイム計測自体が2周くらいしかないことさえあります(1周が長い)。実際にはコース上に40台以上走っていて、邪魔されない周回なんて1周あるかないかです。ちゃんと走れない人までいるし、オイルがこぼれていたりします。転倒者がでて、イエロー(追い越し禁止状態)がでても時間延長はありません。数分で練習の成果を出し切らなくては成りません。これが最初なかなかできませんでした。練習の自己ベストが予選通過タイム以内になってからも筑波の予選通過はなかなかできません。最初の2シーズンは決勝レースに残れませんでした。

 練習走行ではとにかくコースイン後、なるべく早くベストタイムを出す練習をしていました。

 予選時間が長く、エントリー台数の少ないSUGOは3シーズン目、筑波やスズカはその翌年までかかりました。しかし一度決勝を走ってくると、"予選落ちは"トラブルでも無い限りありませんでした。自己ベストを本番の短時間で出せるようになっていました。一つのきっかけになったのが、タイヤメーカーを変えた時でした。耐久性はないし、絶対グリップ力もあまり高くないが、初期性能が良く、コントロール性能の良いタイヤがでてきました。滑り出しは早いがコントロールしやすい、そのメーカーのレイン用は評判もよい。自分より好条件のマシンを食ってしまえる雨のレースはチャンスです。

 予選落ちは惨めなものです。数百台のエントリーから決勝に残るのは素晴らしく、上位グリッドにマシンをつけられるのは誇らしい出来事です。雨の"スズカ200KM"や最初に"筑波選手権"を予選通過したときは嬉しかったです。


NSR250RK(R) 〜歴代NSR250R〜

 SP250車両は一見簡単に用意出来がちなので、気軽にエントリーする人もいて、危険にみえました。先輩のレース仲間がF3に移ったので、思い切ってF3にする事にしました。F3車両はちょうど公道用バイクと競技専用車の中間的な位置づけでしたが、ベース(外観)は公道バイクに近い存在です。オートバイメーカーも販売に直結するクラスとして、重視しており、多くのコンストラクターがメーカーの支援をえて参加し、スポンサーも多くついたクラスでした。"ヨシムラ""モリワキ"などのF3マシンにあこがれていました。これに乗るライダーも近未来の日本のトップライダーです。レーサー250クラスよりタイムが厳しいレースもありました。この頃のF3ノービスはハイレベルでした。

 このとき思い切って手に入れたのが87年型NSR250RKコンプリート(HRC製)です。これは足周り(サスペンション、ホイールなど)は公道仕様のままで、エンジンは高出力(ピストンなどはレーサーと共通)です。最初の全開走行に入ったとき、その加速感はものすごく、"こんなもの乗れない"と感じたくらいです。足周りがノーマル、エンジンだけロケットの様なバイクで、曲がらない、止まらない。それまでのバイクと比べれば大変曲がりにくいバイクでした。うまく乗れません。基本メンテナンスだけでは無理がある車両でした。

 翌シーズン88年型RKに乗り換えます。車体、足周りが改善されストックのマシン全体の完成度が高く、特にモディファイを加えずとも使えました。仙台ハイランドやSUGOで決勝レースを経験できました。また、人脈も広がり、エンジンの特性変更を自分で試したり、コースごとにギアを変更することなど、マシンセットアップを学習。89年型の販売が決まっており、たまたまメーカーにいた友人が開発プロジェクトリーダーに決まったので、細部仕様に多く意見取り入れでもらいました。

 開幕戦にぎりぎりに待望の89RKがやって来ましたが、1つの欠点がありました。クランクシャフトに構造的弱点がありました。この結果、この年はエンジンに多大の出費と時間かかりました。クランクシャフトは交換すると、"慣らし走行"が必要です。練習時間がエンジン調整でつぶれていきます。シーズンの終わりになって、何とか走るようになってきました。

 翌年は新型に乗り換えないことにしました。きっと無理して乗り換えても、第1戦に満足な状態を作れそうにないと予感しました。89RKの2年目は第1戦からタイムものび、筑波でポイント圏内(15位以内)に入ってきました。次のSUGOはWETレースで4位に入り初めて小さなトロフィーをもらうことができました。次の目標はもうコンストラクターチームの速いマシンです。

 クランクの状態さえよければ、本当に良く走ってくれました。次年度は昇格するのでもっと厳しいレースが予想されます。マシンの準備と、走りのレベルアップを始めた矢先、思わぬ怪我で、実質そのシーズンが終わってしまいました。

 91年型はRKはなく、市販車ベースにコンストラクターに制作を依頼しましたが、F3クラス最後の年になったシーズン開幕に実質間に合わず、またとても遅いマシンでした。この年もマシン改良に翻弄され、体調も悪く進歩がありません。翌年からはSS250になるとのことで折角作ったマシンはもう使え無くなります。

 SS250でのNSR250Rの戦闘力は高いではありませんでした。SS移行後2年目になると、他メーカーの車両に凌駕され、ホンダ車は少数派になりました。それでも、どんどんスペシャルにして、対抗しました。

最後のF-3(国内A級):1991年12月の鈴鹿サンデーチャンピオンレース
(91年式ホンダ製NSR250R:ハルクプロ製作改)


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決勝レース 〜成績をだす最終行程〜

 筑波では大抵、決勝はだんご状態。他のクラスの決勝を観ていると、スタートからゴールまで一団のままです。クラッシュシーンは沢山発生します。トップグループ以外の予選通過者のタイムはきわめて接近していました。自分の予選タイムの前後0.5秒づつに計20台ぐらいます。

 スタートは情けないほど下手でした。スタート順位が前の方でも後ろでも、スタート直後の1コーナーは後ろから数えた方が早い。自分より遅いペースの集団に入ってしまうとこれがなかなか抜け出せません。クラッチミートも下手ですが、確かにデリケートな車両でもありました。逆に、自分のポジション以上の位置で1週目をこなせると、周りにひきずられタイムもあがります。相手より遅いマシンで追い抜くのは大変むずかしいが、気持ちいいものです。

 最後の頃のマシンはいろいろスペシャルになってきましたが、普通に作った他メーカーのマシンに付いていけるのは直線後半だけでした。絶対的な中低速回転のパワーが足りません。コーナーの脱出時に少しくらい早めに開けていってもどうにもならないくらい違いがでてきました。対抗手段としては、進入時にあまり減速しすぎず、旋回スピードをあげるか、相手が開けきれないところで、開けて行くしかありません。

 不安定路面のコントロールは得意です。一般的に一番走りにくいのは、乾いたところと、濡れた路面の混在したときです。少しWETが多い状態で、しかもレインタイヤの選択状況が結構得意です。前後輪が絶えず少し滑ります。神経集中してないとあっさり転倒しそうに感じます。特にパワーの出ているマシンはアクセル開けにくいハズです。こっちは控えめパワーなのでガンガン開けていけます。低速トルクだって細いので、滑りにくいのです。これが大雨だと、「めがね」が曇ったりしてよく見えないこともあって、あまり好きではありません。しかし、相対的にWETのほうが成績は良かったようです。

 順位が悪いと恥ずかしいし、ポイントもつきませんが、何位争いでも、決勝中の抜きつ抜かれつがやっぱりおもしろい。バトルの最中は必死だし、負けてしまうと大変悔しく、勝つとすごく嬉しい。レースのここが好きです。

 数年必死でやって来たつもりだったが、努力至らず…。実質、ジュニア昇格後の1年目で、私の挑戦は終わっていました。あとは、どうやって締めくくろうか。レースは大好き、続けたいが、趣味にするには手に余ります。どこかで、きっぱり別れなくてはなりません。非日常から日常の暮らしに戻らなくては・・・。


好き者達 〜レースを愛する働き者〜

 コースでマシンを走らせるのは大変、時間とお金がかかります。

 30分の練習走行に10時間かけて整備して、往復15時間かけて移動することもあります。1レースに15万くらい使ってしまいます。さらに、転倒したり、エンジンが壊れると何十万単位の費用と再調整が必要です。スペシャル部品などは壊すと作り直せないこともあります。

 仕事も何日も休まなくてはなりません。サーキットにいない時間は整備してるか、働いているかのどちらかです。レースウイークのほうが睡眠時間が長いくらいでした。従って、普通に若い人たちがやるような娯楽にはすっかり縁遠くなりました。いつも走り方やマシン作りを考えていました。最初から、スポンサーやメカニックが付くことはありません。大抵、みんな"働き者"です。危ないし、お金はかかるし、将来プロになれる可能性なんてほんのわずかしかないのを知っています。それでも好きだからしょうがないのです。サーキットは胸躍る空間です。

 メカニックやヘルパー達、その裏にいる技術屋さん達も同じくレースが大好きです。

 こんな人達だから、強烈な個性の持ち主が多く、"変なやつ達"が集まってレースになります。親しい仲間とのバトルは気合いが入ります。コース上で、目の前にみつけたら、絶対追い抜いてやろうとがんばります。スタッフ達も同じ仲間になっていきます。今日のレースが終わっても、また、次のレースで再会できるのも楽しみです。ジュニア時代は予選落ちすることも少なく、同じ様な顔ぶれのライバル達とのバトルを楽しみました。

総合力 〜ロードレースから学んだこと〜

 レースはひとりではできません。周囲の理解と協力があってこそなのです。何年も継続しなくては、成果はでません。良く考え、研究し、工夫し、失敗を繰り返さず、弱点を克服し、努力し続けなくてはなりません。

 「急がす、慌てず、怠らず」とか「レースは経験だからな」とかいった先輩方がおられました。私はそれに加え、周囲を引きつける「人間的魅力」も大切だと思います。

 それらがわかってくると、コース上にいるとき一人きりでなくなります。ピットでバックアップしてくれている人々のためにも、がんばりたいと願うようになってきます。良い成績が残せ、無事にピットに帰ったときのスタッフ喜びが、とっても、嬉しく感じるようになりました。

 ロードレースは、非常に危険なものです。

 身近な人で亡くなった人もいます。大きな後遺症を残した人もいます。

 ひとには決して奨められませんが…。

 私はわがままを通し続け、大変良い経験をさせていただきましたしました。

 周囲の方々に感謝しています。

tomo-kun@sam.hi-ho.ne.jp

さー、みんなで、スカッシュしよう

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