
為政
8.子夏問孝、子曰、色難
「子夏、孝を問う。子曰わく、色難し」の後はまだ続きますが、冒頭だけ。孝についての問答
は、前節にも出てきます。論点は、孝とは形式のことではないという点です。この節では、子夏
という門人が、孔子に孝とはなにかをきいています。
例示だと思いますが、「顔の表情が難しい」と答えています。注によると「親の前でのやわらい
だ顔つき。心の中に本当の愛情があってこそできる。それでむつかしいといった」となっていま
す。顔や目つきは感情がでるので注意しましょうという意味ではなく、感情をともなった行為が
必要だという意味です。
こういった具体例だと当たり前になってしまいますが、具体的事例からはなれて孝という抽象
的な次元において実行できるかどうか。また、具体例から本質部分を抽出して自分のものにで
きるのかどうか。これが論語における問答の醍醐味であろうと思います。
2004/3/1
11.温故而知新、可以為師矣
四字熟語です。温故知新のつづきは「以て師となるべし」とある。古いことを知り、新しいこと
も知りえたら、師になることができるというときの「師」とはどんな人のことでしょうか。師になる
ために必要だという意味だと、ちょっと軽い気がします。そうではなくて、古いことをしり新しいこ
とにも通じたら、師くらいになれるの意味だと、師になることが重要ではないという意味になりま
す。知ることの方が重要であり、師になることは二次的な効果であるにすぎないという方が、論
語らしい気がします。
まあ、元々その意味でしか使われてませんね。文章を長くするのに、ちょっと小理屈をこねま
した。
2004/3/1
13.先行其言、而後従之
「先ず其の言を行い、而して後にこれに従う」とは「まずその言おうとすることを実行してから、
あとでものをいうことだ」の意。たしかに、自分でできもしないことをあれこれいうことは説得力
にかける印象を他人に与えると考えます。しかし、多角的な視点の保持のためには無責任に
あれこれ言う人のことも、部外者なり局外者なりの視点があって参考になると思います。
一見すると、この言葉は、行うことと言うこととどちらを先にするかについてをのべているよう
に見えます。しかし、ここではそういった順序ではなく、行うことと言うことのどちらかがより重要
かをのべるための言葉と考えます。ですので、単純に、言うことよりも行うことのほうが重要で
あるという程度の意味と考えます。
2004/3/11
15.学而不思則罔、思而不学則殆
有名な一節なのでとりあげました。「学んで思わざれば則ち罔(くら)し。思うて学ばざれば則
ち殆(あや)うし。」の「あやうし」はそのままではちょっと意味が通りにくいと考えます。テキスト
では「(独断におちいって)危険である」との訳をつけていますが、どうも違和感があります。独
断が危険なのでしょうか。たしかに、思ったことが正しいことのためには学問が必要であり、こ
れをおろそかにすることは即ち、独断となる。独断が危険なのは、その思いつきが正しくない
点にあると考えられます。よって、「思うて学ばざれば」=危険という図式は、思いつきは必ずし
も正しくないという前提ものとに成立するように思います。単なる思いつきが正しいときときのこ
とが多い場合には、教訓として成立しないように思います。ですので、「思うて学ばざれば則ち
殆(あや)うし。」というためには、独断=危険という図式は説得的ではないと思います。
そこで別の解釈の登場です。テキストの注に、他の学説として、「王引之は殆[まど](疑)うと
読む」とあり、これに心がひかれます。思っただけで学問をしなければ、まどうというのは、つま
り正しい結論に到着できず道にまどうというニュアンスにとれます。また、思いつきが(常に)正
しいかどうかに疑問があるなどという風にも読めます。常に正しい道を歩むには、学んで思い、
かつ思って学ぶという双方向のプロセスが必要であると考えられます。
もちろん、「あやうし」というのを正しくない危険性があるとようによんでもよいので、無理に「ま
どう」などと読む必要性もないといえば、ないのですが。
2004/3/15
17.知之為知之、不知為不知、是知也
「これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らざると為せ。是れ知るなり」とは、ソクラテス
の無知の知と同様の意味です。自分が何を知り、何を知らないかを明確にすることが学問の
基本なのですね。
2004/3/21
18.多聞闕疑、愼言其餘、則寡尤、多見闕殆、愼行其餘、則寡悔
「多く聞きて疑わしきを闕き、慎みて其の余りを言えば、則ち尤(とがめ)寡(すく)なし。多く見
て殆(あや)うきを闕き、慎みて其の余りを行えば、則ち悔い寡(すく)なし。」とは、命令体系で
ある組織において、命令に対する応答時間をはやくしようとしたり、確認を省略することをいさ
める内容です。
これは、俸給を得るためにはどうしたらよいかという弟子の質問に対する孔子の言葉であり
ます。ここで孔子は、高い給与を得るために組織においてどのような行動様式をとればよいか
を答えたわけですが、疑わしいことは言わない、危ないことはしないという理由で、あれもしな
いこれもしないという人間になれといっているわけではないと思います。
一見して危険と思われることでも、安全ルートをみつけて、自信をもって行動できるよう、学問
をしましょうという助言なのだと思います。学問によって、疑わしくないことや危くないことをしっ
かり身に付けるということが必要なわけです。
知れば知るほど分からなくなるとこともありますが、これは前節で述べている通り、知と不知
を峻別することで、学問する以前より「其の余り」の範囲は広くなると考えます。
2004/4/3
24.非其鬼而祭之、諂也、見義不為、無勇也
「其の鬼に非ずしてこれを祭るは、諂(へつら)いなり。義を見てせざるは勇なきなり。」とは、
「わが家の精霊でもないのに祭るは、へつらいである(祭るべきものではないからだ)。」「行う
べきことを前にしながら行わないのは、臆病ものである。」との意。精霊(しょうりょう)とは、死
者の魂のこととの注である。
後半は理解しやすい内容と思います。前半は、後半の対となっています。すべきでないことを
することをいさめているわけですが、どうもしっくりきません。
「祭るべきものではないから」と訳注がついていますが、一般人には「わが家の精霊でもな
い」ものを祭ることは、してはいけないことのように思えません。むしろ死者に対する畏敬は必
要ではないかと想像します。
人の家の精霊を祭ることが、禁止されているなら、それを行うことをへつらいだとはいわない
と考えます。ですので、禁止されているわけではないとみるべきでしょう。人の家の精霊を祭る
ことは、義務ではないし、相応しい場所においては行う必要があると考えます。ここでいう相応
しい場所とは、たとえば親戚の家の法事に呼ばれるとか友人の家にいったときにちょうど法事
であった場合などを考えます。こうした時には、祭祀の順にのっとり礼を行うことは必要でしょ
う。 しかし、自分の家で上司の親の法事を行うなど普通はしません。これは、祭るべき精霊を
それぞれの人が祭ればよいという考えと、精霊にはそれぞれ祭るべき人がいるという考えであ
ると思います。
しかしこれは、単に祭祀のことをいった内容と見ると、「義を見てせざるは勇なきなり」との対
句の関係が成立しがたくなります。これを、社会や組織における行動様式についての見識を述
べたものだと考えて、他にすべき人がいるのにわざわざ自分がしてしまう人は、誰かにへつら
っているからそういうことをするのだと意味に取るわけです。こうすると後半も、すこし言葉を加
えて、自分がしないといけないことがあるのに、わざとしないのは、したことに対する責任をとる
のに臆病だからだ、との意味にとることになります。
2004/4/11

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