本を捨てられますか



 立花隆の連載「私の読書日記」をまとめた新刊が出た。

 序章では、書評とは何か、について問題提起している。立花は、ヒマ人の編集者がヒマ人の読み手に向けて作った本について、ヒマ人の書評子が書評した「味わいのある」文章がきらいだという。
(私の読書日記は)身辺雑記的なことはおよそゼロ。ひたすら、私がすすめる本の中身についての情報をつめこんである。それもできるだけムダを省き、有効情報だけを圧縮して、濃密に詰めこんである。
 なるほど。ここが原稿料をもらって書いているのと、ホームページとの違いなのかもしれない。私の場合は、自分が読んで楽しめる文章を書いている。なにしろ最大の読者は、自分なのだから。

 本サイトは、読書日記を他の人も読めるように書いたもので、書評だとは思っていない。友だちにこんな本があるよと教えてもらったときに、その人のくせや自分とのマッチング度合いを測りながら、じゃ読んでみるかと決断するわけだ。だから客観的な紹介なんてありえない。その人の見方がもろに出ているほど、はずれが多くても聞く気になれると思う。だから、書評を批評型と紹介型に区分して、自分のは紹介型だといってすませている立花には違和感があるのだ。

 巻末では、ベストセラー本『「捨てる!」技術』を一刀両断している。この本は立ち読みしたけど、批判する気も起こらなかった。立花は、書き手の考え方に危険なにおいを感じたようだ。
この著者のような人が私の親でなくてよかったと思う。もしそうだったら、そしてその親が私が何より大切な宝物として大事にしているものを取り上げて、捨てたり燃やしたり壊したりしたら、私はきっとその親に殺意を抱いたにちがいない。
 新婚生活を機に、夫となる人の宝物を捨てさせてしまう女性が多いように思う。ゴミと結婚するわけじゃないからしかたないけど、そのゴミが彼にとってどういう意味を持つのかくらいは想像してほしい。

 捨てるだなんてめんどうなことをするくらいなら、「買わない」ほうがよっぽどましだ。『「捨てる!」技術』を見ると、もっと食べたくて食べた物を吐き出したローマ人を連想してしまう。でも『買わない生活』なんて本を書いても、だれも読まないだろうな。
(2001-08-03)