凡人でも監督になれる?



押井守が『凡人として生きるということ』という本を書いている。おそらく若い人に何か語ってやってくださいと頼まれたのだろう。

「はじめに」で、これまでの禁をやぶり、作品以外で語りはじめた動機について語っている。それは批評の不在にある。「あとがき」では、言葉の有効性と言い直す。押井の望む批評とは、「作者自身をハッと目覚めさせ、作者の無意識を再認識させるような評論」だ。

本文は、押井が語ったことを誰かがまとめたのかもしれない。注釈もついている。小見出しを拾ってみると、「人間は自由であるべきという欺瞞」、「他者を選び取り、受け入れることが人生」、「犬や猫を飼ってから子供を産め」など、まるで私が書いた本かと思えてくる。作品からは想像できないほど、自分と似たことを考えている。

まったく逆なのは、ネットを全否定していることと、友だちなんかいらないと言い切っていることだ。仕事仲間さえいればいいと。仕事をともにした後輩の魂まで心配したことのある私には、うらやましくもある。

宮崎駿との違いについて言及する。
宮さんは青春を謳歌する作品を作り、僕は青春の苦味を描こうとしている。宮さんの映画に出てくる少年少女はどれも健全で、まっすぐで、若者にはこうあってほしいという彼自身の思想が表れている。(p33)
そして作品の作り方も対照的である。宮崎は、スタッフを啓蒙しようとする。ドキュメンタリー番組を見せたり、屋久島へ連れて行ったり。作画についても細かいところまで口を出してしまう。テレビ雑誌の記事で、押井は宮崎を無自覚な天才とたたえつつ、宮崎の若者観や制作方法を批判していた。それを読みつつ、自分が批判されている宮崎に近いところにいると自覚した。

本書はオヤジが若者に向けて語っている本なのだが、もう若くはない人がまだ若い人とどのように接していくか、を考えるための手がかりとなる。

東洋経済のインタビューで、アニメには未来がないと語っていた。細田守や原恵一など、次世代も育ってはいる。しかし業界としては、日本映画が歩んだのと同じ道をたどるのだろう。
  • 凡人として生きるということ 押井守 幻冬舎 2008 幻冬舎新書090

  • 週間東洋経済 08年9月6日号
     なぜか経済誌にインタビュー記事、だれが読むのかなあ
(2009-09-27)