プロのもの書きになるのは大変だ



 中野翠は、プロの書き手だ。だてに生意気に生きていない。その生き方通りのタイトルの本『生意気時代』を読んだ。

 中野は中流家庭でぬくぬくと育ち、しかも大学にも行った団塊世代のお嬢さんである。フリーのライターになってからは、マスコミ芸者にならぬようにかなり努力したようだ。その筆力はなかなかのもので、とくに映画の話と人の悪口は、私をひきつけてやまない。

 たとえば荻野アンナについては、「中野殺すにゃ刃物はいらない、オギノの(自称)ギャグがあればいい」と。また酒井法子と小泉今日子、三田佳子とゴールディ・ホーンを対比して、やんわりとけなしている。このあたり私の好みと一致する。もちろんけなされたのは酒井と三田だ。誤解なきように。

 玉三郎とも対談していて、千昌夫と玉三郎と中野が同世代と聞いて驚いた。また日本のインテリは、ファッション、マンガ(とくに少女マンガ)、ロック、お笑いにコンプレックスを持っていると指摘している。あいにくどれも得意ではないが、どれにもコンプレックスを持っていない私は、インテリの仲間には入れそうにもない。

 落語を生で見たことがないが、落語が好きなもの書きをどこか信用してしまうところがある。中野も年を重ねるにしたがい、落語や歌舞伎が好きになってきたようだ。そして中年の域に入った今、彼女は森茉莉(もちろん森鴎外の娘)のあとがまをねらっていると私はにらんでいる。

 「CREA」に書いている中野と、「anan」に書いている北川悦吏子では、書いている中身が大きく違う。年齢が離れているので、同じ土俵で比べてはかわいそうかもしれないが、読むほうにとっては内容のある方が価値がある。

 中野は「私が結婚しない理由」という項で、次のように述べている。
 結婚していれば、そして子供もいれば、もう、トシをとることがこわくなくなるのだ。エロス的対象としての自分というのがなくなっても、その代わりに、妻であり母であるということで自分を説明できる。
 女の人たちの結婚への執着というもののひとつのポイントは、おそらく女でなくなること、若さを失うことに対する不安なんじゃないかと思う。
 先に結婚を設定して、そこに男を当てはめるというのは、けっこう落ち着きの悪いものだった。
 一方、恋愛ドラマばかり書いている北川も、おおむね次のように言い切っている。
 結婚の必須条件として、人間的に信頼できる人、頼れる人、心根のやさしい人をあげる。しかしこれらは恋人の必須条件ではない。
 恋心というものは、青春時代には必要不可欠かもしれないが、波瀾万丈の自分の人生の荒波をかいくぐっていくときには、必要ないのかもしれない。
 この勝負、引き分けというところか。
  • 生意気時代 中野翠 文芸春秋 1992 NDC914.6
     自称800字ライターの著者が、長文に挑戦している。

  • 私の美の世界 森茉莉 新潮社 1984 新潮文庫
     「反ヒューマニズム礼賛」、「ほんものの贅沢」などを所収
(2000-05-05)