ことばの仕事



 中俣暁生『〈ことば〉の仕事』は、ことばにかかわる仕事をしている人へのインタビューをまとめた本である。著者も含め10人とも、60年代前半に生まれている。

 まっさきに読んだのが、豊崎由美だ。競馬が好きな豊崎は編集者をやりながら、アルバイトで雑誌の原稿を書いていた。やがてフリーになり、しだいに書評に力を入れていく。「プロのライターを名乗る資格のある書き手なんて、現状は50人程度しかいない」そうだ。
最近の書評を見てて思うのは、作家とか翻訳家の方がずっと上手くて、しかも、書評家がそのことをニヤニヤしながら認めていたりする。むかしの『週刊朝日』みたいに、書評がすごくいい時期だってあったのに、いまは雑誌がこれだけ増えているわりに、書評の力自体は弱まっている気がする。(p192)
 豊崎は、ライターの仕事に誇りをもち、書評をもっとうまく書きたいと言う。私はそう思わない。うまく書こうとすることで、うそ臭くなることの方がこわい。

 山形裕生は謎である。本を読めば、たいてい場合著者のイメージがつかめるものだ。それなのに、本書を読んでも山形像がいまだに明確にならない。とにかく優秀であることだけは理解できた。

 著者紹介をまともに読まないので、水越伸は理系出身の人かと思っていた。文化人類学から、消費社会論、インダストリアル・デザインへと転回していった。彼がメディアでこれから取り組んでいくことは、ウィリアム・モリスにはじまるアーツ・アンド・クラフツ運動や柳宗悦らの民芸運動の延長上にある。

 恩田陸は、萩尾望都の愛読者だった。
告白しよう。私がこれまで書いてきた小説のうち、根っこの部分で萩尾望都作品を下敷きにしているものがたくさんある。私が書く小説は、先行作品に対するオマージュであるものが多い。私の本を読んでくれる読者には、できれば私の小説を入口にして優れた先行作品も読んでもらいたい…(p209)
 自作のジャンルを「萩尾望都系」だと明言する森博嗣といい、SF界隈には望都ファンが多いのだろうか。
私は今、日本が乱歩を持ち得たことに深い安堵を覚えるのである。 乱歩の凄さは、日本の推理小説の父であることだけではない。子供から大人まで、自らの奥底に潜む昏き欲望に気付かせ、その存在を認めさせ、しかもそれを楽しんでしまうことを肯定させたことなのだ。(p216)
 「アメリカの不幸は、乱歩を持たないことであった」からイギリスの「異常さまで楽しんでしまえる老獪さ」に、恩田は惹かれる。

 自分のことを、旧弊な語学を楽しみながら学ぶことのできた最後の世代、と規定する堀江敏幸は、マッキントッシュSE30で文章を書いている。私も旧弊な語学が好きで、9インチ画面を愛用していた時期がある。かなりのストレスだったけど。 堀江は、大学でフランス語を教える教師であり、作家でもある。
素材が現実の出来事であったとしても、いったん言葉にしてしまったら、それらはすべて、凄くリアリティのある〈嘘〉の世界に入ってくる、ということなんです。学術論文でも、新聞記事でも、その意味ではみなフィクションだと思うんですね。論文であれば、膨大な資料をどうあつかい、なにを切り取って、なにを付け足すかによって、書く人、引用する人の個性が出てくるわけですから。(p236)
 つづけて、
文章を書いたり編集したりすることは、曲解や誤解などもふくめて、いったん中に入れたものをまた出すことで、基本的には翻訳者の仕事と同じだと思うんです。書評でさえ、翻訳の一種だと考えているくらいですから。つまり、言葉を発する仕事で、翻訳じゃないものは一つもない。書き物をするときは、自分自身をつねに翻訳していかなくてはならないし、それを怠ると、一つの場所に居直ってしまいますから。(p245)
 仲俣はフィクションと翻訳という2つのキーワードを提示しているが、言いたいことはわかる。私なりの表現をすれば「自分というフィルタを通した編集という作業が書くこと」かな。今のところ。

 その他のインタビュイーは、小熊英二、斎藤かぐみ、佐々木敦、小林弘人。 (2006-06-19)