ぞうきんを片手に



 橋本治の文章は、あちこちで読んでいるので、多少はその生い立ちを知っている。『ひろい世界のかたすみで』で、自分との共通点をあらたに発見した。

 ワンテーマで1冊の本を書いてしまう作家だけど、種々雑多なテーマがつまった本書は、がらくた箱をひっくり返したような楽しさがある。まるで宝探し。

 山田風太郎評の「不戦青年からむにゃむにゃ老人へ」は名文だし、「底が抜けていく日本」という時代感覚には同感だし、「女って何だ?」の女帝の話はおもしろい。
「日本の歴史の中にはこんなにもやな女がいた」ってことは、女のあり方を考える上で朗報でしょうね。(中略)
女も活躍する‐だから、やな女にもなりうる。これって、とても重要なことでしょ。そして「やな女になってしまった女を制止する方法を、男は持たない」(p155)
 橋本は、ここで寸止めにせずに、もう一歩踏み込む。「ブス」という容貌に対する攻撃よりも、「やな女」という「あり方に対するいびつさ」への悪口の方がずっと由々しい。それが理解されないことが、じつは大問題なのではないかと。このテーマでまた1冊書けそうだ。

 「『ブラザーサン・シスタームーン』という映画を観てしまったので」は、映画を観てから再読したい。「古典の方がより本質的に現代的だ」と考える橋本は、この作品を分かってしまう自分に困っている。私は、特異なヘアー・スタイルと音楽しか記憶に残ってないのだが。

 そして「『とめてくれるなおっ母さん』を描いた男の極私的な1968年」。彼ほど勉強はできなかったし、絵も描けなかった。「映画の友」に投稿もしなかった。それでもどこか似ている。もし私が同じ時代に生きたなら、やはり「社会の不合理と戦う人間の姿勢が理解出来ないただのバカ」と呼ばれたかもしれない。

 その後、勤め人となった自分とわけのわからない作家をやっている橋本との違いは、やはり才能の違いとしか言いようがない。そして思い出したように、また彼の本を読むのである。 (2006-10-02)