花電子立国を支えたハム 吉田正昭花 アイコム社顧問
日経新聞朝刊 2004.2.13 44面
 「CQCQ、こちらJN3VWW、応答願います;∴・・」。ハムと呼ばれるアマ≠エア無線家が減っている。1994年の136局をピークに、2003年には71万局にまで落ち込んだ。パソコンや携帯電話の普及で手軽な通億が可能になったためだ。

 通信機メーカーに勤める私も免許を取得して30年近くになる。「若い世代にアマチュア無線の面白さを伝えたい」と考え、三年前からその歴史を調べ始めた。特にあまり知られていない戦前のハムに焦点をあて、彼らが日本の電子立国への歩みをどう支えたのかを探ろうと思った。
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 全国名簿調べ直接取材 
 調査は東京都豊島区にある日本アマチュア無線連盟に所蔵してある「宮井ブック」を調べることから始まった。戦前、和歌山開局した書店経営者の宮井宗一郎氏が官報の無線開局者名をもとに作成したアマチュア無線家全国名簿だ。これをもとに本人や故人の家族、友人を探し、直接取材した。

 三年前には、戦前に免許を取得した人の交流会「レインボークラブ」の最後の懇親会に参加。同クラブの機関誌や、交信記録を記載したカード、写真など貴重な資料を得た。関連の書籍や雑誌もくまなくあたり、調査はこのほど終了した。
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 免許取得者、技術者に
 日本のアマチュア無線の歴史は欧米に十五年ほど遅れて始まった。大正末に無免許の通信が始まり、逓信省が最初に免許を与えたのは1927年(昭和二年)だ。1940年までに免許を取得したのは552局(法人・学校も含む)に過ぎない。 当時の免許取得者は十代、二十代の若者が中心。

の大半が、東京通信工業(現ソニー)、東京芝浦電気(現東芝)などの電機・通信機メーカーや放送業界に技術者者として就職した。大学の研究者や官僚の道を歩んだ人もいる。

 例えばエンジニアの庄野久男氏(1918−)。1939年、東京帝国大学航空研究所に入り、電波で航空機の高度を測る対地高度計の開発に携わった。短い波形を繰り返すパルス波を使い、高度5500bの航空機の測定に成功。当時の世界最高水準の精度を実現した。

 庄野氏はのちに、アマチェア無線界のリーダーの一人になる。「新しく開局を希望する人に、申請書の書き方や心がまえなどを丁寧に指導していた」と、今も後輩から尊敬を集めている。戦後は雷の研究を通して気象レ−ダーの原型ともいえる「レーダーエコー」を開発した。その後は、体内埋め込み型の補聴器など体の不自由な人のための器具開発に努力する。

 日本抵抗器製作所元社長の木村健吉氏(1915−92)は1943年、東京から疎開してきた日本抵抗器研究所の経営を引き受付、1947年に日本抵抗器製作所を設立する。アマチュア無線の仲間からは、「冷静で論理的な分析をする」との定評があり、その分析力を生かしてラジオ、テレビ、通信機向けに高品質の抵抗器を次々に開発した。

 日本教育テレビ(現テレビ朝日)元常務の森本重武氏(1907−84)は、政府の諮問機関である電波監理委員会で活躍した。1952年の白黒放送の標準方式を巡る議論で、森本氏ば欧州方式の7MHZ案に反対し、米国方式の6MHZ案を提案。最終的に6MHZ案が採用された。

 元郵政省部長の島伊三治氏は「森本氏は大局的な視点で、カラーヘの転換が簡易な6MHZ案を推した。結果として対米輸出が増え、産業の発展につながった」と振り返る。

 ほかにもソニーの創業者、井深大氏らが名を連ねる一方、街の電気屋さんのような人もいた。
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 調査結果ネットで公開
 これら戦前のアマチュア熱線家は、みなハンダごてを片手に自力で通信機機を作った。通信機が市販されるのは昭和三十年代から。それまでは、抵抗器、コイル、検波器といった部品を買い集め、試行錯誤を重ねながら姐み立てていった。お金もなく、部品から自力で振り上げた人も多かった。

電気や通信の仕組みを体でおぽえていったのだ。 「アマチュア無線にとえられたプレイフィールドは、太陽と地球の膨大なシステム空間」と庄野氏は私に話してくれた。

こうしたスケールの大きな視点は、携帯電話のちまちましたボタン操作からは生まれない。

 調査結果は会社のホームページで公開した。戦前のハムの生きざまに共感した若者が、科学に関心を持ってくれればと思う。