JH5ZWZ 
村上循環器科病院院長 村 上  博
いづみ 2002.1より
1995年1月17日‥・、生涯忘れ得ぬ人も多いと思うし、一方いささか記憶が風化しかかった人もいるだろう。この日、6,400余の命が奪われ、16万戸の家屋が失われた。力強く復興する阪神淡路の人々に心からエールを送りたい。

 災害というのは、その当事者でない場合、単なるニュースとして、やがて「過去の出来事」のようになっていくものであるが、都市型災害の場合には、予想だにでさない人的物的被害の甚大さのためエポックとして語り継がれるだけでなく、各方面からの検証・考察がなされ、沢山の教訓を残してくれることが多い。私たちは、阪神淡路大震災によって、多くの常識が覆されたことを認識しないといけない。

まず大地震といえば「東海地区、東海沖」であり、関西は大丈夫という錯覚があった。この風説は、既に多くの地震学者が否定していたにもかかわらず、なんとなくそういう思いが根強くある。次の誤解は地震の大小を示すマグニチュードの数字が頭の中で優先されてしまい、強い地震も軽い地震もユサユサと横に揺れるものだと勘違いすることにより、「直下型地震」というのが視野の中になかったことである。

さらに局地的な被害には対応できるよう準備はできていたとしても、被害が広範囲に及び、当該地域でライフラインのみでなくあらゆるネットワークの機能が寸断された時、最初に何をすべさか、次にどのように行動すべきか、情報の集約がいかに困難か思い知らされたし、統括的に判断・指揮できる人材を育成しておかないと折角の装備も無駄になる。「危機管理」という言葉のみが独り歩きし、まるで「危機管理対策本部」に電話を沢山設置すれば万能であるかの如く錯覚することは危険である。

 筆者は、同年、当時神戸市立中央市民病院循環器科部長であった吉川純一先生(硯大阪市立大学医学部教授)から当時の状況を拝聴する機会に恵まれた。屋上貯水槽が破壊され水浸しになった病棟をみて、貯水槽の補強は必須と知った。手術器具が滅菌できなければ被災直後の外傷の処置すら困るが水の復旧に5週間、ガスの復旧に6週間かっている。プロパンガスを使用する方法もあるが、それが二次災害を招く原因にもなり得る。

自家発電装置がなければ人工呼吸器も使用できないことは容易に想像できるが、自家発電装置の燃料の備蓄が重要で、新たな燃料の供給は期待できない。また水冷式の場合、冷却用の水がなければ自家発電もお手上げである。電気がなければ地上の受水槽の水を屋上にあげるポンプも動かないので人海戦術で水を運ばなければならない。

ところが病院の職員自身も被災者であり、また病院に集合する交通も奪われているのである。最も有効な交通手段は自転車あったが、被災後に自転車屋であわてて購入しようとしても無理である。神戸市立西市民病院では、一挙に5階部分が潰れてなくなってしまった。自院内で一瞬にして多数の死傷者が発生したと思われる。大変な混乱があったのだと思う。被災した医療機関は機能しなくなると考えるべきで、大切なことは重症患者をいかに速やかに、安全に、適切な医療機関に転送するかである。このためには、情報の伝達や集約の確保が必須である。神戸市立中央市民病院ではインターネットを繋ぎ放しにして対応したという。しかし、猛烈な交通渋滞と道路の寸断で救急車が本来の機能を発揮できず大変だったらしい。

 その後、名古屋でも大きな水害が発生した。水没した警察署では、パトカーも電話も使えなくなり、最後まで生き残った通信手段は「無線」だった。当時、民間が防災用に無線のネットを構築することは珍しかった(猪狩りですら無線を駆使しているのにである)。そこで松山市医師会でも災害時の通信手段と情報集約の切り札として無線の利用を考えた現在既に28名がアマチュア無線免許を取得し、無線機器を所持している。それらが各エリアの情報を集約し交信することで被災状況の確認、応援の必要性の有無、重症患者の転送先の確保にあたることで、ネットワークを構築することになっていた。

「松山市医師会無線クラブ」と称し、コールサインはJH5ZWZである。そして自家発電装置を所持しているかどうか、人工透析が可能かどうかなど、全ての医療機関の災害時の医療機能をリストアップしているのである。 2001年3月24日、松山は突然震度5(マグニチュード7に相当する)の地震にみまわれた。福岡や大阪でも揺れたというから、かなり大さな地震である。ただ直下型ではなかったので大災害には至らなかった。それでも松山では家屋の全壊・半壊が多数見られた。筆者の自宅ではピアノが約1m移動していた。

 この日はちょうど松山市医師会の代議員会だった。出かける前に小用に立っていた筆者はトイレの中で一歩も動けなかった。郊外電車が線路上に停止しており、乗客が線路の上を駅の方へと歩き始めていた。しかしこの程度の地震でも通信は麻痺した。地震の直後数分まは電話が可能であったが、その後半日は全く繋がらなくなった。普通の電話も、筆者のPHSも携帯電話も全くダメ、自院の災害時優先電話も全く繋がらなかった。

こういう時、公衆電話が比較的繋がりやすいことは知っていたので街に出てみたが、やっと見つけた電話ボックスには既に数名順番待ちがでさており、様子を伺うと、どうも繋がらないようである。どうやら高度の通信規制をかけているらしい。筆者のインターネットはダイヤルアップ式であり当然繋がらなかったCATVを利用したケーブルインターネットは大丈夫だったそうであるが、災害規模が大きくなり、電柱が倒れたり、親会社が被災したら傾えなくなるだろう。さらに電気が来なくなればそれも全部俺えないことになる。「さあ、無線の出番」と思ったが、医師会の事務局職員は、繋がらないことを何度も確認しているかのように、自分の携帯電話に夢中になっていて、無線機の前には誰もいなかったのである。

この日、ある基幹病院では貯水槽が壊れて階下の病棟が水浸しになっていたし、別の基幹病院で給食が停止し患者は至急外泊ということになっていたことを知ったのは、ずっと夜遅くのTVのニュースであった。今回は大災害ではなかったので無線の出番ではなかったかもしれないが、こういう時こそが、適切に機能するか確認できる大さなチャンスであることに気付かないのは、耽々日本人がすっかり「平時ぼけ」しているからだろう。後口談で聞くところによると、無線設備は揃ったが、まとまった練習の継続はでさていなかったそうである。試しに通信しようとすると全く通じないので電話で確認したところ無線機の電腺が人っていないことに気付かなかった人もいるらしい。災害時は頭脳も混乱する。落ち着いて使用説明書を読む余裕もないので、本能的に機械を扱えるよう日々の練習が欠かせないまた28名では人数が少なすぎてネットワークにならなかった可能性があるので、普及率を高める必要を感じた。さらに役所・警察・消防・自衛隊などと縦横に連結がとりあえる体制にしておかないと災一害時には役に立たないのではないかと危惧した。

 情報を得ないまま、手前味噌な作戦を実行し敗れた大本営、一方戦後すっかり平和ボケして、先般の米国の同時多発テロに関する事前情報を得ていながら外務大臣にすら幸li告しなかった外務官僚の失態。情報の大切さを認識しない日本人の失敗の本質は何も進化していなかったのである。

 実は阪神淡路大震災の後、何かを大さく改善した医療機関は少なかったようである。災害対策の最良のテキストは過去の災害の記録であるはずなのに、私たちは何故か過去の私害を過去のこととして歴史の中に置ささってしまう欠点があり、また世界中でどんな人災害が発生しようとも日本だけは大丈夫だろうと根拠なく危機感を欠如してしまう欠点がある。様々な災害の教訓から学び続け、これまでの災害対策の問題点を検証し、自分たちの能力・知識・経験で、何がでさ、何ができないのか知っておいて、常に練習と備蓄を怠らないことが大切である。

 伝説の消防士と言われる高野甲子雄(1982年、ホテル・ニュージャパンの火災の現場で多くの人命を救助したチ}ムのリーダー)は語っている。「訓練が現場の保険みたいなものでね、毎日少しずつ、基本的なものを繰り返し積み重ねていって、初めて現場で生かされる」そして被は阪神淡路大震災の時も神戸に入り、公園のテントに寝泊りしながら、若者たちに救助の方法を教え続けたそうである。