レッド・ホット・アルファ −前編−
「あっ…」
夜だというのに一向に涼しくならず、むしろ昼間より暑く感じる八月のある日。藤崎加奈子は道端に大きな犬が寝そべっているのをみつけて、小さく声を出した。
街灯のすぐ下で、ぐったりと寝ている犬は少しも動かずにじっとそこに座っている。
加奈子は自転車を停め、しばらくその犬を見ていた。確かこの近くの住人が連れてよく散歩しているのをみかけた。夜は散歩させたことはなかったはずだ。それとも今日は特別外に連れ出したのだろうか。加奈子はそう思ったが、だとしても自分には関係のないことだと考え、小さく溜め息をついた。
少しも動かない犬を横目に加奈子はまた自転車を漕ぎはじめた。ここに住む人も、動物も全部作りもの。私だけが生きている。そうつぶやきながら人気のない道を走った。
加奈子の住む街はバブル経済で浮かれていた時開発が始まった横浜のはずれのニュータウンの一角。今では開発が進まなくなり、コンビニやスーパー、レストランすらも見当たらない。ただ広い道路が縦横に広がり、無機質で高層のマンションが立ち並び、人工的すぎる緑の木が生い茂る公園があるだけであった。
まるでテレビの陳腐な恋愛ドラマに出てくるような町並。皆はこぞって来たがるが、住んでいる加奈子は静かなだけのこの街が嫌いだった。夜は静寂だけがあり、車の音すら聞こえない。マンションの窓から見える風景もいやに明るい明りがぽつぽつと見えるだけで自分がまるでコンピューターグラフィックの街にいるような錯覚を覚えるほど無機質であった。
十階建ての高級マンションの八階に加奈子の住む部屋がある。父はコンピューターソフトの開発部長。母親はいない。もう五年も前に離婚した。父の仕事は忙しく、会社に泊まることもザラであった。帰ってきたとしても夜中の一時近く。だから離婚の時加奈子は父を選んだ。全ては自由と退屈をほしかったから。
ベランダに出ると加奈子はアルミで出来たシガレットケースから一本メンソールの煙草を取ると火をつけた。静寂。
「退屈」
そうつぶやいて煙をふっとはいた。煙は夜にさあっと溶けて消えた。下を見るとマンション前にある広場。人工的な池と木々の植えられた赤レンガの広場。
カキン。
「・・・?」
夜風に流れる煙を見ているとどこからかか細い金属音が聞こえてきた。
カキン。
また聞こえる。加奈子はどこから聞こえるのか注意深く耳をすませた。
カキン。
加奈子は下の広場に視線を落とした。広場には人影が見当たらない。加奈子は首をかしげてベンチのあたりに目をこらした。
カキン。
また音がなったと同時にベンチの所に小さいオレンジ色の明かりが灯った。その明かりに人の顔が微かに見えた。
煙草の先の小さい明かりは蛍のように明滅している。加奈子は短くなった煙草をベンチのほうに向かってほうり投げた。煙草はベンチの近くに落下したが人影は微動だにしなかった。そっと部屋に戻り、時計を見た。壁掛け時計は十一時を指していた。こんな時間にあの広場に誰かがいるという事は加奈子が越してきて半年、一度もなかった。妙に気になって加奈子は下に降りて確認しようと部屋を出た。
エレベーターで下に降り、広場の方へ向かうとさっきから聞こえていた金属音はライターの蓋を開閉する音だとわかった。カキン、カキンとその音は断続的に聞こえる。広場に出てわざと遠回りしてベンチにいる人影を覗いた。
微かに見えた顔は若い男であった。俯いて、掌で弄んでいるライターを見ている。とりたてて危ない雰囲気がない男で、どちらかというと化学の教師のような野暮ったさが伺える。加奈子はそっとベンチに近づいた。
「ちょっとあなた、何をしてるの?」
脅かしてやろうと加奈子はふいにそう声をかけた。
男は無反応であった。
「あなたここの住人? ここはマンションの住人の広場よ」
「ああ、そうなんだ」
男の声はすこし涸れている。まだ顔は上げない。
「それにここは禁煙なのよ」
いつまでたっても顔を上げない男に加奈子はイラだち、きつい口調でそういった。
「煙草の投げ捨ても良くないな」
男はそう言って下に落ちている煙草の吸い殻を一つ拾い上げるとそう言った。そして男は初めて顔を上げて加奈子を見た。
少しこけた頬。無造作な髪。水銀灯のせいか幾分青く、精気のない顔。だが目の光だけは鋭く、加奈子の方が言葉を詰まらせてしまった。
「その吸い殻があたしのだっていいたいの?」
「これ、さっき上から落としたの君だろう? 危ないぜ。火をちゃんと消しとかないと」
加奈子はふんと鼻を鳴らして髪をかきあげた。そして男の横に座って煙草をくわえた。
「あなたここで何してるの?」
火をつけてふかすと加奈子は前を向いたまま聞いた。
「思い出している」
「は…?」
「思い出しているんだ」
男はそう繰り返すと煙草に火をつけた。加奈子は横を向いて男をもう一度ゆっくりと見る。目の光はさっきとは違い柔らかい。
「カノジョの事?」
「いや、そんなツマラナイことじゃないさ」
ふうと煙を吐くと男は屈託なく笑った。その横顔は幾分幼く見えた。
「じゃあ何よ」
「君、お節介なんだな」
男はそう言って加奈子を見た。そう言われて加奈子は視線をそらし、髪をかきあげた。
「みず知らずの男に声かけて色々聞こうとするなんて」
「どうだっていいじゃない。ただのヒマつぶしよ」
「家族心配するぞ。夜遅いし」
「バカじゃないの? 今時娘を心配する親なんていないわ」
ふいに男は立ち上がった。加奈子は煙草を捨てると男を見上げた。
「あなた、この近くに住んでるの?」
「いや、こんな高い所に住めるほど金は稼いでないよ」
男はベンチから立ち上がり、邪魔したね、もう来ないよと言ってスタスタと加奈子に目も向けずに歩いていった。ただ加奈子はその後ろ姿を見ているだけであった。
朝早く目が覚めると加奈子は父の存在を確認しに行く。帰ってきていない事を確認するとそのままバスルームに行ってシャワーを浴びた。
「休んじゃおっかな」
シャワーを浴びた後、下着姿のまま加奈子はソファに深く座るとテレビを見ながらつぶやいた。学校なんてつまらない。皆髪を茶色に染めたり流行っているからといってルーズソックスなんていう靴下の出来損ないみたいなものを嬉しそうに履き、似合いもしない口紅を塗りたくる、個性とは程遠い格好をした集団のいる学校に行くことは加奈子にとって苦痛以外の何物でもなかった。
「加奈子、学校はどうしたんだ?」
ふいに父の声がして加奈子はビクッと肩をすくめた。テレビのボリュームが大きいせいか父が帰ってきたのがわからなかった。
「ちょっと、部屋に入ってくる時はノックぐらいしてよ」
「何いってるんだ。ここはお前の部屋じゃないだろう。なんて格好してるんだ。はしたない」
父は顔をしかめてそう言うと台所に向かった。加奈子はシャツを着るとまた会社に戻るの? と聞いた。
「いや、今日は休む。ちょっと具合が悪くてな」
冷蔵庫の中の麦茶をコップに注ぎながらそういうと大きいクシャミをした。父が家にいるなら学校に行くしかないな。そう加奈子は考え、小さく溜め息をついて自分の部屋に向かった。
「ちゃんと薬飲んで寝てなさいよ」
制服を着て玄関に向かう途中、加奈子は父の部屋に向かってそう言った。部屋からは返事はなく、加奈子もそれには気にもとめず外に出た。
外は眩むほどの陽光が体全身に降りかかった。すぐに淀んだ熱気が加奈子の体にまとわりついた。
自転車置き場から赤い自転車を出し、学校に向かって走り出したがふいに止まり、今日はやっぱり休もうと思った。近くの公衆電話に入ると加奈子は学校に電話し、父の具合が悪くて病院に連れていかないといけないと深刻そうな声でいうと担任はわかった、今日は一日看病していなさいと言って電話を切った。
「嘘つくなんてカンタンよね」
熱気のこもった電話ボックスから出て、そうつぶやくと加奈子は自転車に跨がった。そのとき視界の片隅にチラと昨夜見た犬が入ってきた。
「あの犬、まだあそこで寝てる」
加奈子は自転車から降りて犬に近付いた。飼い主が心配してるんじゃないかと思い、寝そべっている犬の近くにいった。
「あっ」
顔を覗き込むと加奈子は小さく声をあげた。
だらし無く空いた犬の口には血が滲んでいて、それは乾いて黒くなっていた。
犬は死んでいた。車にはねられたのかそれとも病気でそうなったのかは判別がつかなった。
「参ったな」
加奈子はそうつぶやいて立ち上がった。あたりを見回したが人影はなく、そこには犬の死骸と加奈子しかいなかった。少し思案したあと、加奈子はその場から立ち去ることに決めた。子犬であればどこかに動かすことも出来るがその犬は大きすぎてとても運べそうにない。それになによりも面倒臭いという思いと飼い主がそのうち見つけて運ぶだろうという思いがあった。
加奈子は自転車に乗ってマンションに向かった。漕ぎ出した時、チラっと後ろを振り返ったが犬は寝そべったままであった。
マンションに戻り、耳をそばだてる。幸い父はぐっすりと眠っているらしく、気づかなかった。部屋で着替えると加奈子はそっと部屋を出て、広場へと向かった。
日差しはきつく、容赦なく加奈子の体に突き刺さってきた。木陰に入り、だらだらと歩いているとふと立ち止まった。昨日男が座っていたベンチだ。腰掛け、煙草ケースから煙草を取り出すと火をつけてゆっくりとふかす。そして吸い殻を拾うと手で弄んだ。吸い殻をよく見た。そこには英語でホープと書いてあった。
煙草まで野暮ったい。加奈子は灰を落とすとそうつぶやいた。今時の高校生はこんな煙草吸わないし、いつもいくクラブに溜まっている連中だってこんな煙草は吸わない。
加奈子は持っていた吸い殻を捨てた。そして自分の煙草も消して捨てた。どこに行くわけでもない、退屈な時間を加奈子は何をするか思案したが考えがつかず、とりあえずここから離れようとベンチを立った。
まだ、昼前。陽は加奈子の体に突き刺さる。
耳の奥にまで入り込んで来る音を皆飽きもせず聞き、体でリズムをとったり、口ずさみながら酒を飲んでいる。加奈子は暗い店内にたむろう表情のない男女の影をただぼうっと眺めて座るだけであった。何人かの知り合いに声をかけられたが適当に返事をしてカウンターに座ったまま。
「今日は元気がないじゃない」
バーテンがシェイカーを振りながら話しかけてくる。加奈子は別に、いつもと同じよ。と答えた。バーテンはそれ以上は何も聞かず、ちょっと笑って見せた。
「カナちゃん、元気?」
隣の空いている席に男が座って声をかけてきた。この前家まで送ってもらった男。にっこりと笑った顔はどことなく作り物のように見えた。
「元気よ」
「何、今日は一人?」
「今日も、よ」
加奈子はそう言って煙草を消した。
「ねえ、これからヒマかな?」
「何?」
「いや食事なんてどうかなと思って」
近くにおいしいお店があるんだ、どう? 長い髪を掻き上げ、煙草をくわえた。
「あんまりオナカ空いてないから」
ちょっとトイレ、そう言い加奈子は立ち上がって洗面所に行った。
洗面所は音が遮断され、一息つける空間。別に来る必要もないのに加奈子は何度もここに来て耳に残る音を覚ます。声をかけてきた男は歯科医の息子と言っていた。毎週のように遊びにきて何人かのオンナに声をかけている。気に入ったオンナは必ずすぐ近くにあるというレストランに誘う。加奈子も彼のメガネにかなったオンナ。二つ返事でついて行くオンナと違うのは食事は断ること。じゃあ送らせてよとうるさく行ったから送ってもらった。ただそれだけ。
「馴れ馴れしい」
そうつぶやいて加奈子は鏡を見た。少し濃いめの赤い口紅を塗った唇がまるで自分のものじゃないように思えた。
「ねえ、じゃあ今日も送って行くよ。いいだろう?」
席に戻り、帰ろうとすると男がそう行って来た。まだ八時にもなっていないから電車で帰る、と断っても男は声を鼻にかけ、哀願する子供のような仕草で送らせてよとおどけて言った。それを見てバーテンが苦い顔を加奈子に向けた。
「じゃあ、送ってくれる?」
加奈子はバーテンをちらりと見たあとそう言った。じゃあ、ここはオゴるよ。男はそう言って会計をさっさと済ませ、加奈子と店を出た。
地下の駐車場には色とりどりの外車や国産車がびっちりと並んでいる。男はシルバーのベンツに向かうと助手席のドアを開けて加奈子を乗せた。加奈子が座るのを確かめると男はそっとドアを閉め、反対側に周りこむ。
「似合わないクルマ」
男が乗る前に加奈子はそうつぶやく。
「ヨコハマだよね」
「そう。ヨコハマのはずれ」
加奈子がそう言うと男は了解、了解と言ってエンジンをかけた。クルマは低いうなり声を上げて目を覚ます。目の前は色鮮やかな明かりが灯る。車内にはエンジンの音も外の音も入ってこない。聞こえるのはステレオから流れるスローバラードだけであった。
国道二四六に出ても外の喧噪は微かに入ってくるだけ。揺れも穏やか。冷房も適度に効いている。その空間は快適なのに加奈子には神経にさわる静けさであった。父親のクルマもこの男のクルマ、他の男たちのクルマも全部同じ。イライラするような静けさ。そしてそれを紛らすように窓を少し開け、煙草をくわえる。外からは熱気と喧噪。
男の口は止まることなく動き、自分がどんな人間であるかをさかんにアピールしていた。加奈子は外を眺めながら適当に相槌を打ち、つまらない冗談に愛想笑いをした。
「ここでいいわ」
加奈子のマンションより少し手前のマンションの前で加奈子はそう言った。男は話をやめてクルマを止めた。
「何階だったっけ」
「十階」
加奈子はそう言ってクルマを降りた。男もクルマを降り、クルマに寄りかかった。
「な、送っただけだろう?」
「そうね」
「こうみえても紳士なんだ」
加奈子は愛想笑いを浮かべ、じゃあと言った。
「何もしないで送った御褒美が欲しいなあ」
男はそう言ってニヤけた顔をした。加奈子はちょっと間をおいて、
「どうしてほしいの?」
「お別れのキスがいいな」
頬でいいんだけどと言って男は右頬を出した。加奈子はそれでいいの? と言って媚びるような目を向けた。男の眼に鈍い光が見えた。
加奈子は男に近づいて唇にキスをした。そしてそっと胸に手をあて、今度また食事に誘って。次は行くからとささやいた。
男は煙草をくわえ、じゃあまた今度ねと言ってクルマに乗った。加奈子は小さく手を降ってマンションに入った。入口の影でクルマが走り去るのを確認するとマンションから出た。
「バカなヤツ」
加奈子はそう言ってバッグからティッシュを出すと唇を拭いた。ああいう男は単純だ。ちょっと媚びた表情を見せてキスをしてやればいい。そうするだけである程度の望みは叶う。もう少し何かを望むのならば、カラダを許せば良い。カンタンな事。加奈子はくるりと踵を返すと無気質で、冷たい建物の間を歩き始めた。
父の具合は幾分良くはなっていたが、顔には精気がなかった。それでも職場からの電話で父はしぶしぶと布団から出て職場に向かった。多分帰って来ないな。そう加奈子は考え、テレビをつけてただぼうっと見ていた。
さっき帰りにゴハンを食べてくればよかったな。空腹を感じ、テレビに飽きてきた加奈子はそう思った。近くには食事をするところもない。自転車で十分ほど走ればコンビニがあるが面倒臭い。出前も一人じゃ頼みにくい。あれこれ考えながら時計を見ると九時二十分。しょうがないからコンビニにでも行くかな。そう思い、ベランダに出て煙草をくわえる。
遠くの方で車の音が聞こえる。低音の勇ましい二重奏。普段は聞こえない車の音が夜風を切り裂くように聞こえ、いつしか加奈子は耳をそばだてていた。乾いた低いその音は、今まで聞いたクルマの音よりも上質でいて、しかも荒々しかった。音は次第に近付いてきて、やがて獣の雄叫びのようになり、何重にも音が重なって響いてきた。そしてふいにウォンと吠えたと思うと音が途絶えた。
静寂。
もうクルマの音は聞こえない。加奈子は尚も耳を傾けていたが音は聞こえてこない。
かきん。
鈍い金属の音。
あの音。
加奈子は煙草を消し、下の広場を見る。そこには人影。
あいつ、もう来ないと言ったクセに来てやがる。加奈子は人影を見るとそうつぶやいた。
マンションの八階にいるのに金属音は建物に共鳴して聞こえてきた。
加奈子は人影が昨日の男であるのを確認するとサイフを持って外に出た。
「もう来ないんじゃなかったの?」
加奈子は男の前に立つと呆れた口調でそう切り出した。
「ああ、そんな事いったっけ?」
男は顔を上げ、不思議そうな顔をしてそう言った。禁煙でしょココは。加奈子はそう言って男の横に腰掛けた。
「キミ、暇なんだ」
「なんでよ」
「見ず知らずの男に話しかけてきてさ」
「そ、ヒマなの」
加奈子はそう言うと煙草をくわえた。男は禁煙なんだろう? と言って小さく笑った。
「キミ高校生だろう?」
男はそう言って加奈子を見た。男の顔は昨日よりも精気があり、表情も明るかった。加奈子はそれがどうしたの? と逆に聞き返した。
「今時煙草吸わない高校生なんていないわよ」
「キレイな顔してんのに煙草ねえ」
「だから何よ」
「タバコ、格好いいと思って吸ってるんならやめなよ。似合わないよ、キミには」
「余計なお世話よ」
火をつける。
そしてゆっくりと煙を吐く。
「ふかすだけだろう? 余計みっともない」
うるさいわね。加奈子はなんだこんな男かと思い、ふんと鼻で笑った。
「煙草が野暮なら服装も野暮。おまけに話す言葉も野暮ったいわね」
「そうかな?」
男は首をかしげ、自分の服を見た。
「本当はアナタみたいな人、相手にしないのよ」
「ああ、そう」
男は灰を落としてくわえ煙草で頷いた。
「じゃあ何で相手してくれてるのかな」
「さっきも言ったでしょ。ヒマ潰しよ」
「なるほどね」
肩をすくめて男はおどけてみせた。そして煙草を靴底で消すと吸い殻は持ったまま立ち上がった。
「それじゃあ俺はこれで。楽しかったよ、イマドキの女子高生と話せて。ヒマ潰しになった」
小さく笑うと男は手を上げ、加奈子に向かって手を振り、歩きはじめた。
「ちょっと、待って」
加奈子は男の態度にカッと来て、強い口調で呼び止めた。
「何?」
「何じゃないでしょう? 人バカにして」
はて? バカにしたかな? 男は首をかしげてそうつぶやいた。
「そういう態度よ。ムカツク」
男はヤレヤレと言って首を左右に軽く振り、加奈子に近づいた。口元には笑みがあったが目は笑っていなかった。
「バカにしてるのはどっちだって?」
男の態度に気圧され、加奈子は言葉が中々出なかった。
「だから、どうしたっていうのよ」
加奈子はそう言ってきっと睨んだ。男の瞳がぎゅっと小さくなる。
沈黙。
「ま、それだけ言えりゃ大したモンだよ」
ふっと空気が緩み、男はそう言って笑った。
「じゃあね」
男はくるりと背を向け、歩きだした。
「ねえ、ちょっと」
「なんだい? もう話は済んだろ」
「アナタここにクルマで来てるんでしょう?」
ああそうだよ。男は頷いてみせた。そして口をへの字に曲げ、それで? と聞いた。
「ゴハン買いに行きたいのよ。近くまで乗っけてってよ」
男は呆れた表情を加奈子に向けた。そして新しい煙草をくわえて火をつけた。
かきん。
「いやだね。ガンコ者は乗せないよ」
煙を吐きながらそう答え、また歩きだした。
「人が困ってるんだから助けなさいよ」
「オレが困っちゃうよ。こんなワガママ娘の相手をしちゃね」
野暮ったくない男に助けを求めておいてくれよ。そう言って男は今度は振り向きもせずに歩いて行ってしまった。
昼下がりの教室で、加奈子は窓の外を眺めていた。誰もいないグラウンドは陽光を浴びて白く、目は痛いくらいだった。教室の中ではクラスメイトたちがナンパしてきた男の品評会やらテレビの話などをして盛り上がっている。
カキン。
ひどい雑音のような会話の中から鈍いあの金属音が加奈子の耳に飛び込んできた。加奈子ははっと振り返って教室を見る。教室の片隅で一人の生徒が自慢げにジッポーのライターを友人に見せていた。
「何どうしたのソレ?」
「これぇ? クラブにいった時、なんかナンパされてぇ、でもダサイ男でさぁ。マジしつこいからライターぎってばっくれちゃった」
そのライターはひどく新しく、つまらない絵柄のものであった。昨日の男が持っていたライターとは同型のものだったが全然違うもののように見えた。
「先生にみつかったらヤバイじゃん」
「大丈夫よ」
そんな会話を聞いて加奈子は席を立ち上がった。
馬鹿らしい。
こんな雑音みたいな会話を聞きに高校にきたんじゃない。
加奈子は教室を出た。
「加奈子!」
廊下を歩いていると、ふいに後ろから声をかけられた。同じクラスの橘京子が後を追いかけてきた。別段仲がいいわけじゃない。たまたま通学路が近いだけのクラスメイト。
「何?」
「ねえ、今日ヒマ?」
これといった用事もないのだが、加奈子は京子と一緒にいるのがひどく億劫で、ちょっと用事があると答えた。そっかあ、新しいお店出来たから一緒にどうかと思ったんだけど。京子は通学路の途中に出来たレストランの名前を挙げた。
「焼き立てのパンが食べれるのよ。おいしいんだ」
「そう。じゃあ今度ね」
加奈子は申し訳なさそうな表情をして京子と別れた。そのまま加奈子は屋上に向かい、寝そべった。教室の喧噪は遠く、静かだった。加奈子は青く澄み切った空を眺めながらふと思った。
それは幼い時から思っていた夢。
私だけが他の子と違う。だから独りぼっち。でもいつか迎えにきてくれる。私と同じ人が。
そんな陳腐な夢をずっと見て来た。そしてそれが叶うようにお祈りをしてきた。
でも変わらない。
何一つ変わりはしない。
転校する前もした後も。私は独りぼっち。
起き上がり、壁に寄りかかって煙草ケースを取り出す。ふと昨日の夜を思い出す。
「アイツ、何様よ」
そう口に出したものの、少しも怒りを感じなかった。クラブにたむろう品定めするような視線や、死にかけた笑顔を見せるオトコたちと違う、屈託なく笑ったあの笑顔を思い出した。
「何を思い出していたのかしら・・・・・・」
そうつぶやき、ふうっと煙を吐く。煙は青空に一瞬ゆらめくと、熱風に煽られてさあっと流れた。それを見たあと、加奈子は一口しか吸わなかった煙草を排水溝に落とした。
学校からの帰り道、あの犬がまだ横たわっているのをみつけると、加奈子は顔をしかめた。この暑さの中、二日も放っておけば腐るのが早い。腐臭もひどくなるに違いない。誰も何もしない。そんな状況にイライラした。
「警察呼ぼうかしら」
良い迷惑だと思いながら、電話ボックスに入ろうとしたが、警察に電話した所で管轄外だといって取り合ってはくれないだろう。ましてや通行に邪魔になる所にいるわけでもないその死骸を、警察は無視するだろう。役所にしたってそうだ。それに役所となれば電話すら億劫だ。
結局加奈子は電話ボックスに入らず、遠回りをしてマンションに向かった。
珍しく父が家にいた。なんでもプログラムの開発が思った以上にはかどり、今日は久しぶりに早く帰宅できたのだ。父はテレビを見ながらそう言った。
「加奈子、今日晩ごはんは外に食事にいかないか?」
準備するのも面倒だし、夜はいくらか涼しくなってきたからどうだろうか。父は体をねじり、台所で麦茶を飲んでいる加奈子に言った。
「今日はトモダチとこれから出掛ける約束しちゃったのよ」
加奈子はそう言って断った。特に行き先を追求するでもなく、父親はそうか、じゃあ一人でどこかに食いにいくか。とつぶやいた。
「あんまり遅くなるなよ」
父親は一言だけ加奈子に注意した。
「いつもそれだけ」
部屋に戻り、制服を脱ぎながらつぶやいた。父親はおまえの事はよくわからないという表情を時折見せる。そしていつも一言だけの干渉。望んでその環境に来たのに、私はウンザリしている。まるで倦怠期の夫婦のよう。そう思うと少しだけ母親を不憫に思った。
「じゃあ、行ってくるから」
リビングでテレビを見ている父親にそう声をかけ、加奈子は外に出た。外は相変わらずの熱気。マンションの影が長くなってきていた。
その日は渋谷に出ず、横浜の元町へ行った。適当に店を冷やかし、ファーストフードで軽い食事をすませ、小さいバーに顔を出した。店内で何人かの男に声をかけられたが、加奈子は適当にあしらい、無害そうなオトコを選んで、昨日と同じように自宅近くまで送らせた。オトコは何もしなかったが、ケイタイの番号をしつこく聞いてきた。持ってもいないケイタイの番号を教え、耳元で甘い言葉を囁くと、オトコは嬉しそうに帰っていった。車が見えなくなると加奈子は静かな通りをゆっくりと歩き始めた。アスファルトは吸い込んだ昼間の熱気をゆっくりと放出していて、その熱気は体を覆って粘膜のようにまとわりついた。
しばらく行くとイヤな匂いが鼻についた。ああこの道だったとつぶやいて、足を止める。もう少し行った緩いカーブの途中に、あの大きな犬の死骸が寝そべっている。この匂いがするということは、まだあそこにあるという事だ。加奈子は引き返して遠回りしようかと考えたが、メンドウ臭いこともあって、そのまま歩き出した。
緩いカーブにさしかかり、街灯が見えて来た時、犬の死骸の横に人がしゃがんでいるのが見えた。この熱いなか、長袖のよれたシャツを着ている男。加奈子は歩調を緩め、それが飼い主かどうかを確かめようとした。
かきん。
しゃがんでいた男が煙草に火をつけた。あの鈍い金属音。
「何やってるの?」
広場の男だとわかると、加奈子は歩調を早め、近づいて声をかけた。男は眠たげな表情で加奈子を一瞥すると、煙をゆっくりと吐いた。
「この犬、死んでる」
「もう三日くらいそこにいるわ」
「飼い主は?」
「近所の人じゃないの? よくは知らない」
「誰も何もしないんだな」
「大きいし、もう腐ってきてるからでしょう」
加奈子は鼻を押さえてそう言った。男はハエがたかっている犬を見たまま、何かをつぶやいた。
「何?」
「キミも何もしないんだな」
男はそう言って加奈子を軽蔑するように見やった。その目を見て加奈子はカッとなった。
「どうしたら満足なのかしら」
強い語調で言ったが、男は何も答えなかった。そしてまだ二口くらいしか吸っていない煙草を捨てると、おもむろに犬を抱き抱えた。一斉にハエが飛び、加奈子は反射的によけた。
男は周りを飛び回るハエに関心も見せず、腐りかけている犬を大事そうに抱え、歩き始めた。
「どこに行くのよ」
「公園」
男は通りを横切り、反対側の奥にある公園に向かった。加奈子はウンザリする思いで男のあとを追った。
赤レンガで出来た道がぐるりと囲い、隅に小さな砂場と滑り台、ブランコがあり、道に沿って何カ所かベンチがあるだけの緑地公園は、ひっそりとしていて誰もいなかった。男は大きな木を見つけるとその下に行き、犬を寝かした。そして近くの砂場に子供が忘れて行ったスコップを見つけると、それで穴を掘りはじめた。
「そんなので穴を掘るの? 何時間もかかるわ」
加奈子は呆れたようにそう言った。男は返事もせず土を掘った。
「ねえ、聞いてる?」
「うるせえ」
男は背を向けたままそう言った。加奈子は勝手にしろと言うとベンチに座った。そしてバッグからシガレットケースを出し、煙草をくわえた。
犬が入るほどの穴を掘るのに一時間かかった。その間、加奈子は帰るでもなく、ただベンチに座って男の背中を見ていた。男は肩で息をしながら犬を抱え、その穴に移し、丁寧に土をかぶせた。
「満足した?」
作業を終えた男に加奈子はそう言った。男はチラッと加奈子を見ただけで何も言わなかった。
「シャツ、汚れてるよ」
男のシャツは土埃と犬の血で汚れていた。水銀灯の明かりの下、それは生々しい色に見えた。男はシャツを見て、ふんと鼻を鳴らすと水飲み場に向かった。そこでシャツを脱ぎ、洗い出した。
「洗えば血も匂いもキレイになる。ただそれだけの事なんだ」
「?」
「なのになんで誰もしないのかな」
シャツをぎゅっとしぼり、水銀灯に照らす。光の透けたシャツにはもう汚れが見えなかった。男はちょっと鼻に近づけ、匂いを嗅いだ。
「匂いは?」
加奈子は男の仕草を見ながら聞いた。男はバッチリと言ってようやく笑顔を見せた。ベンチにシャツをかけ、煙草に火をつけると、加奈子の横に座った。
「今日はデートだったんだ」
男はそう言って加奈子を見た。なんで? そう聞くと自分の唇に指をあて、「キレイな口紅を塗ってる」と言った。
「違う。ちょっと友達と出掛けてたの」
「ああ、そう」
煙草の灰を落とすと男はつまらなそうに返事をして、頬杖をついた。
「毎日ここらへんにいるわね」
「ああ、だって会社の通り道だからね」
当然だよ。男はそう言って煙草を吸った。煙は流されることなく、ゆるゆると上に昇っていく。加奈子はそれを見ながら黙っていた。
「昨日はゴメンなさいね」
加奈子はそう言ってからしまった、と心で舌打ちした。間が持たなくてつい口走ってしまった。チラッと男を見ると関心がなさそうに煙を見たまま何が? と聞いてきた。加奈子が昨夜の事を話すとああ、気にしてないよ、と答えた。
また、沈黙。
「キミさ、もう帰ったら」
男は煙草を靴底でこすって消した。そして横にあるシャツを取り、乾いているかを確認した。軽い舌打ちをして放り投げると、加奈子を見た。
「オレといてもヒマ潰しにもならないだろう?」
腕時計を見て、もう十二時になるぜ。そう言ってまた煙草をくわえた。加奈子は自分の腕時計をチラっと見ると立ち上がった。
「ねえ、オナカ空いた。どこか連れてってよ」
男は呆れた表情をして加奈子を見た。
「何言ってるんだか」
そうつぶやいて手で加奈子にあっち行けと指示した。
かきん。
火をつける。オレンジ色の炎がゆらゆらと揺れながら煙草の先端に吸い付き、ジジッと微かな音を立てた。
「冗談」
そう言って加奈子は歩き始めた。公園を出るとき後を振り返ったが男はこっちを向かずに煙草を吸っていた。
それから一週間、毎夜ベランダに出たが男の姿はなかった。
期末テストが終わり、もうすぐ夏休み。高校には一月も来なくていい。加奈子はそれでもヒマな時間が増えるだけなのを思うと、ウンザリした。クラスでは海だ、プールだとやいのやいの話しているが、加奈子は聞いているだけだった。
「加奈子、海にでも行かない?」
京子はそのハツラツとした笑顔を向け、話しかけてくる。加奈子は苦笑し、海キライなのと答えた。泳がなくてもいいじゃない、焼くだけでも。
「ベトベトするの、キライなのよ」
ベタベタされるのもキライ。加奈子はそう思いながら京子を見た。京子は残念そうな顔をして、じゃあしょうがないわね、と言った。
何もかもがけだるい。
トモダチ関係、勉強、家。
「やめようか、ガッコウ」
そんな勇気もないクセに。そう思いながらも加奈子はそうつぶやいてみるのだった。
高校を出ると加奈子は家には帰らず、またあの渋谷のクラブへと足を運んだ。駅のトイレで着替え、きつい赤の口紅を塗って。
店は平日というのに客でごった返していた。入り口の近くで立っている加奈子にあのオトコが声をかけて来た。
「こっち空いてるよ。どう?」
イヤな奴にあったな。加奈子はそう思いながらも、オトコの促す席についた。
「ひさしぶり」
「一週間しか経ってない」
加奈子はそういうとスタッフにドリンクを頼んだ。オトコはつれないなぁと、おどけた口調でいい、連れのオトコに笑いかけた。連れも同類のようなオトコで、少し目尻の垂れた目付きがイヤラシく見えた。
「カナコちゃんて高校生なの?」
連れは加奈子の左側に移り、オトコと加奈子を挟むように座った。ジンフィズを一口飲むと加奈子は連れのほうを見、いけない? と聞いた。
「オレ、先生じゃないからかまわないよ」
「じゃあ聞かないで」
おっかないなあ。連れはそういい、オトコに助けを求めるような顔をした。オトコは肩をすくめ、オマエ話がヘタなんだよと言った。
「ねえ、食事連れてってよ」
おなか空いたと加奈子は切り出した。一瞬オトコは呆気にとられていたがチラっと連れを見て笑った。
「いいよ。じゃあ、店予約してくるよ」
そうオトコは言って席を立った。連れは小さく溜め息をついて加奈子を見た。髪をかきあげ、少し困った表情を作りながら、連れは小さい声でささやいた。
気をつけなよ、と。
加奈子は聞こえないフリをして曖昧な笑みを浮かべた。
「席、とれたからさ。行こうか」
オトコは戻ってくると、加奈子の肩を小さく叩いた。加奈子はジンフィズを一口なめると立ち上がった。連れは笑みを絶やさないまま、オトコにもう少しここにいるよと言った。オトコは一緒に行かないかと社交辞令のように言い、連れのコトバを待たずに、じゃあ又なと言った。
駐車場に行くとオトコはこの前と違う、加奈子の知らないシルバーの車に向かった。ソリッドな彫刻のようなボディは、濡れたように輝き、従順なネコのようにうずくまっていた。
「これ、なんていうクルマ?」
オトコは右側に廻り、助手席のドアを開けた。室内はパンと張った革で囲まれ、タン色の牛革は微かに甘い香りを漂わせた。
「マセラッティっていうんだ」
イタリアのクルマだよと付け加えると、加奈子を促した。まるで高級家具のある、リビングのような華やかな空間は、多分甘く酔ったオンナの力を抜かせるに十分なものだろう。加奈子はそう思いながら席に腰をおろした。そっとドアを閉めると男は運転席に廻り、キイをひねった。
食事自体はそれほどおいしいとは思わなかった。ありきたりの、雑誌にのっているようなレストランの味はすごくおいしいというものではなかった。店を出るとき加奈子は愛想笑いを浮かべ、いかにこの店の食べ物がおしかったかを話し、礼を言った。
「カナコちゃんてなんだか猫みたいだね」
オトコは駐車場に向かいながらそう言った。
「すごくなついてくれたと思ったらスグに無愛想になったり、その逆になったりで」
「そうかしら」
変な所にウルサイ奴、誰でも女は従順になると思ってる。加奈子はそう思いながらちょっと間をおいて、
「人前で甘えたりするのニガテだから」とすねた口調でいった。
オトコが瞬間、いやらしい目で笑ったのを見ると、心の中で毒づいた。男はさっきと同じように加奈子をクルマにのせ、エンジンのキイをひねりながらつぶやいた。
「もう少し、いいだろう?」
「ゴメンなさい。今日父親いるから」
そう加奈子が言うと、オトコは小さく溜め息をつき、クルマを走らせた。横顔がなんだか別人のように見え、加奈子はイヤな気分になった。クルマは静かに二四六を走っていたが、信号待ちの時、ふとオトコがつぶやいた。
「あと少しだけ一緒にいてよ」
「少しって?」
「三時間ほどでいいんだ」
「ダメよ、さっきも言ったように・・・・・・」
そういいかけた時、信号が変わり、オトコはクルマを勢いよくスタートさせた。加奈子はなんだかアブナイ状況になってきたと思い、チラっとドアを見た。ロックはかかっている。しかも加奈子は道路側だから飛び出すことが出来ない。かすかに焦りが見え始め、加奈子は平静を保ちながら、危ないとオトコに言った。オトコはもう一度少しだけ一緒にいたいと繰り返し、加奈子の返事を待っていた。道は空いているせいか、クルマはどんどんスピードが上がっていく。それに合わせてエンジン音は唸りはじめ、猫の声は獣の咆哮に変わりはじめる。
その時、もう一つの唸り声が聞こえてきた。
金属の擦れるような音と、低い唸り声の二重奏。あの夜に聞いた、空気を切り裂くような音が後方から聞こえてきた。
直感であの男だと思った。これはあの男のクルマに違いない。そんな意味不明な確信を持ち、ガラス越しに後を見た。
そこには獰猛な唸り声をまきちらしながら、赤黒いボディをわななかせ、ギラついた目を持ったクルマが迫っていた。
「あれ、アルファロメオだ」
オトコはバックミラーを見ながらそうつぶやく。微かに青みがかった、鋭い光を発するライトは、加奈子を睨んでいるように見えた。クルマは唸りを上げて車に追いついてきた。
右ウィンカー。そしてクンっ、と素早く右に動き、横の車線に移動して来た。並走した時、運転手の顔さえ見えれば。加奈子はそう思いながらクルマが横に並ぶのを待った。
「あれ、アルファロメオって言うの?」
加奈子はオトコに聞く。そうだよ、このクルマと同じ、イタリアのクルマなんだと興味なさそうに答えた。前方に信号が見える。上手く行けばそこで並べるかもしれない。加奈子はそう思い、斜め後方を走っているクルマをドアミラー越しに見た。
その瞬間。
クルマは一気に加速し、加奈子のすぐ横に来た。加奈子は窓越しに運転手を見ようとした。
「……!」
あの男だ。運転席が左側で、はっきりと確認できた。その横顔は見間違えない、あの初めてあった時と同じ、あの横顔。その時チラッと男が加奈子を見た。咄嗟に加奈子は困った表情を見せた。そうすれば事態に気づくと思っていたのだ。しかし、男はすぐに前方に向いてしまった。ホント、野暮なヤツ。
男の運転するクルマは更に加速をし、その鉄の彫刻のようなきついエッジを利かしたボディを震わせ、赤い矢のように横を抜けていった。今まで見て来たクルマの中でも、あれほどキツく、鋭いデザインを見たことがない。妙に冷めた感覚で加奈子はそう思いながら、クルマの後ろ姿を見た。
「ねえ、カナコちゃ……」
「あのクルマ、抜いて」
オトコの声を遮るように加奈子は言った。
「え?」
「あのクルマを抜いたら一緒にいる」
加奈子はそう突き放すように言った。オトコはすこし考えた後、アクセルペダルを踏んだ。ぐっとシートに背中が押し付けれる感覚を感じながら、加奈子は祈りに近い思いで、男のクルマを抜けない事を考えた。咄嗟に出たその言葉は直感であった。
オトコの車は加速を続け、前を走るクルマは徐々に近づいてきた。その時、クルマのテールランプがぱっと一際赤く光った。そして一気に減速した。
「抜いた」
オトコは小さくつぶやき、口元に微笑を浮かべた。加奈子は減速して後方に下っていく赤い彫刻を恨めしそうに見た。その時、男がこちらに向かって何かを言っている表情が見えた。しかし、あっという間に後ろに消え、加奈子は振り返った。
「あっ!」
オトコが声を上げた瞬間、悲鳴のような高い音が室内に反響した。がくっと体が前にふられ、加奈子は小さく声を上げた。
一瞬の静寂。加奈子はゆっくりと顔を上げる。フロントガラスの向こうには緩い坂が見えた。
「おい、おい!」
ふいに窓ガラスを叩く音が聞こえた。加奈子は振り返る。そこには男が立っていた。運転席を見る。オトコはうなだれ、気を失っているように見えた。加奈子は助手席のロックをもどかしそうに解除すると、勢いよくドアを開けた。ツンとゴムの焼けた異臭がする。
「おい、大丈夫か?」
男は加奈子を引っ張り、外に出すと運転席のオトコに声をかけた。
「大丈夫よ。息、してるから」
加奈子はそう言って男の腕をぐいと引っ張り、クルマの中から引きずり出した。
「なんだよ」
「今のうちに逃げたいの」
「え? なんでだよ」
「いいから」
加奈子はそう言って男のクルマに向かった。その時、加奈子は振り返り、どうしてああなったのか確認をしたかった。しかし、そこには何もなく、ただまっすぐに道路が続いていて、クルマの往来があるだけであった。
「おい、いいのかよ。連れの人」
男は怪訝そうな顔をして、加奈子に聞いた。
「いいの。私を強姦しようとしたんだから」
クルマの中は不思議にも甘い香りがした。その中に微かに煙草の匂いがある。助手席の前は大きく抉れていて、足が組めるほどであった。男はクルマに乗ってからは終始無言で、クルマを走らせていた。室内には音楽はなく、ただ低く、クルマのエンジン音が聞こえてくるだけであった。
「ねえ、さっきどうなったの? よく状況が見えなかったの」
加奈子はカバンからシガレットケースを出して煙草をくわえた。
男はチラリと見る。灰皿の蓋を開け、窓を少し開けた。湿った夜気と一緒にエンジン音が鮮明に聞こえてきた。
「酔っ払い」
「え?」
「酔っ払いが自転車で横切ろうとしたんだ」
「そんなの、見えなかった」
「だろうね。あすこから100mほど先の、街灯のない場所だったから」
男も煙草をくわえ、胸のポケットからジッポーを出すと火をつけた。
かきん。
その音を聞いた瞬間、加奈子は急に身体の力が抜けるような感じがした。そして男のジッポーを取り、自分の煙草にも火をつけた。
「スピードが出過ぎてた。あのままいけば事故になったよ」
男はそう言ってフンと鼻を鳴らした。
「その酔っ払いは?」
「逃げたよ。君の乗っていた車のブレーキ音にびっくりしてね」
「連れじゃない。犯罪者」
加奈子がそういうと、男はふいに車を路上に止めた。
「どうしたの?」
加奈子は首をかしげ、男を見た。
ぱん。
空気が破裂するような音がしたかと思うと、身体がシートに叩きつけられた。右頬がしびれたように感覚が鈍くなり、目から涙がこぼれてきた。
「いい加減にしろ」
男はそう言うと、加奈子が落とした煙草を拾い、灰皿に詰め込んだ。
「なんでアンタにぶたれなきゃいけないわけ」
ジリジリと襲って来る頬の激痛に耐えながら、加奈子は男を睨んだ。男はあの時と同じような鈍い光を持った目で見据えている。
「犯罪者だろうがなんだろうが、その車に乗っていたんだ。すました顔して乗っていただろう」
男はそう言って煙草をふかした。
「乗るのに同意したんじゃないか? それなのにその言い草はなんだ? そういうのを手前勝手っていうんだ。テメエの都合の良いように人をからかいやがって。それで自分の都合が悪くなりゃあ犯罪者扱いだ」
呆れたよ。男はそうつぶやき、降りろと言った。加奈子は頬を抑えながら、怒りにカラダを震わせた。しかし、言葉が出てこない。悔しさに唇をきつく噛み、ただじっとしているだけであった。男はもう一度降りろと言ったが、加奈子が動かないのを見るとエンジンを切り、自分が降りた。そして助手席のドアを開け、加奈子の腕をぐいと引っ張った。
「降りろ」
「降りない」
やっとの思いで加奈子はそう言い、シートにしがみついた。男は二、三度腕を引っ張ったが諦め、ドアを閉めた。
頬の痛みが和らぎはじめ、加奈子は外を見た。車のすぐ隣で、男は背を向けて煙草を吸っていた。ジュースの自販機の明かりが目に沁みる。
「ヤボ男」
そうつぶやくと加奈子はドアを開けた。その音に反応もせずに男は煙草をふかしていた。
「帰る」
そう言って思いきりドアを閉めた。バタンと薄っぺらな音を立て、ドアは閉まる。男は煙草を捨て、ジーンズのポケットをまさぐった。そしてジュースの自販機でコーラを買い、振り返った。男の顔からは怒りが消え、柔和な表情があった。
「これで冷やしとけよ」
「うるさい、この暴力男。あいつだって手を上げなかったわよ」
「そりゃあどうも」
よく冷えたコーラを乱暴に取り上げ、頬にあてる。ひやりと冷気が肌をさした。男は短くなった煙草を捨てると運転席に向かった。加奈子は頬にコーラをあてたまま、じっと睨んでいた。
「そんな恨めしい目で見るなよ」
「じゃあ、あやまれ」
「はい、ごめんよ」
男はぺこりと頭を下げて、クルマに乗りこんだ。加奈子はすかさず小走りして、助手席に乗り込んだ。呆気にとられたように加奈子を見ると、首をかしげた。
「ちゃんと送って」
「さっき帰るっていったじゃないか」
「うるさい、暴力男。すまないって気持ちがあったら送れ」
そう言って真っ直ぐに前を見つめた。男はヤレヤレと小さくつぶやいて、エンジンをかけた。
「ごめんなさい」
再びクルマが唸り声をあげた瞬間、加奈子はそう言った。
「えっ? 何か言った?」
「別に」
男の間の抜けた表情を見ると、ふいに笑いが込み上げてきた。加奈子はその笑いをそのまま、自然にこぼした。突然笑いだした加奈子に男はしきりに、何だよと聞いてきた。しかし、密閉された空間は、エンジンの微かな唸り声と加奈子の笑い声で満たされていた。男はちぇっと小さく子供が拗ねたようにつぶやき、ギアを入れた。
「ちゃんと声出して、可愛く笑えるじゃねえか」
「アンタも、案外子供っぽい表情見せるのね」
男は困ったように表情を歪め、クルマをそっと動かした。その歪ませた横顔は、加奈子には笑っているように見えた。
「君はダイヤの原石なんだ。いろんなヤツと知り合って、ぶつかり合ったら、もっと輝いてくるさ。ダイヤがダイヤでしか磨かれないように、人も人で磨かれるもんなんだからな」
「何それ、お説教?」
「そ、イマドキの女子高生へのお説教」
聞く耳持たないと耳を塞ぎ、加奈子は男にあかんべえをした。はっ、と短く笑うと、男は肩をすくめた。
「今のままじゃ勿体ねえって言ってるんだぜ。俺達みたいな連中より、君を磨いてくれるやつなんざ沢山いるはずだぜ」
目上の人間の言葉は素直に聞くもんだぜ。男はそうつけ足し、煙草をくわえた。その横顔を見ながら、加奈子はあの時のことを思い出し、尋ねた。男は眉間に皺をよせ、そんなこと言ってたかな? と素知らぬ口調で答え、覚えてないと言った。
後編につづく