レッド・ホット・アルファ −後編−


「ねえ、加奈子。どうしちゃったの?」
 橘京子は不思議そうな顔で覗きこんでくる。別に、どうもしないよ。加奈子は屈託なく笑い、京子をせかした。
「本当にそのレストラン、おいしいパンを食べさせてくれるの?」
 加奈子は下駄箱で靴に履き替え、校舎を出る。京子は小走りで追いかけてくる。
 もうやめた。
 何もかも馬鹿らしい。クラブも、口紅も、オトコの相手も、煙草も、お祈りもやめ。今日から思い切り笑って、京子とおいしいものを食べて、勉強をマジメにやろう。
 あのヤボな男に言われた通りにしてやろう。そして次に会ったらジマンしてやるんだ。
 加奈子はそれがひどく愉快な行為に思え、京子をせかした。
「焼きたてじゃないとやっぱりイマイチね」
 パンを一切れ口にほおると加奈子はそう言った。薄暗い店内は客の話し声と軽い金属音が微かに響く。そして大きな窓からは夏の幾分弱まり始めた陽射しを吸い込んでいる。京子はでもそんなに不味くはないでしょ? とウェイターを呼び止めながら言った。
「すいません、パンをいただけますか?」
「いくらパンのおかわり自由だからって食べ過ぎじゃないの?」
 半ばあきれ顔で京子を見る。いいじゃない、育ち盛りなんだからと答え、ウェイターの持ってきたカゴから二つパンを取った。
「こちらは焼きたてですよ」
 ウェイターはカゴの右端に並べた緑色のパンを指す。それはなんのパンか、と京子が聞くとよもぎのパンだという答えが帰ってきた。
「すいません、それ、一つ」
 加奈子はよもぎパンを一つ貰うと、半分に割った。ほんのりとパンの匂いの中によもぎの匂いも混じっている。
「自分だって」
 京子の言葉に、加奈子は笑う。なんだ、簡単じゃない。笑うのは簡単なこと。
「加奈子、でもどうしちゃったの?」
 追加で頼んだパンもぺろりと平らげ、紅茶を飲みながら京子が聞いてきた。カップに視線を落とし、両手でカップを抱えこむ。コーヒーに自分の顔が微かに見える。
「もう、やめちゃうの」
「何を?」
「クラブに行くのも、バカな男を相手にするのも、笑わないことも」
 意味がよくわからないという表情を浮かべ、京子は首をかしげた。
「つまり」
「つまり?」
「もっと自分を磨いて、ダイヤになるの」
 加奈子はなんだか自分の言った言葉が野暮ったい、恥ずかしい言葉に思え、笑った。
「恥ずかしいヤツね」
「いいんじゃないの?」
 優しく微笑むと、京子はもう一個食べちゃおうかなとつぶやいた。
 レストランで京子と別れると、加奈子はそのまま隣にある本屋へ向かった。雑誌を適当に眺めたあと、自動車雑誌を手にした。あの男のクルマはどんなデザインなのか。いつも暗がりでしか見ていないから、はっきりと全体をみたことがない。ぱらぱらとページをめくると、一枚の写真に目が行った。
 これだ。
 猫のような、鷹のような、動物的な顔をもち、ボディはずんぐりとしてはいるがきつい直線で描かれ、まるで筋肉質の男の彫刻のよう。一度見たら忘れられない真紅のクルマ。
「アルファロメオ145・・・・・・」
 クルマの名前をつぶやく。それほど大きなクルマではないし、多分あのオトコの車よりも絶対にスピードも出ないであろう。それでもあのクルマは速そうに見えた。写真で見るとあの時に見た獣が睨みつけるような威圧感は感じない。むしろ従順な猫のように見える。
 加奈子は雑誌を棚に戻しながら、あの男は今日、広場に来るだろうかと考えた。あれから三日たったが、男は広場には来ていなかった。
「見つけた」
 本屋を出たとき、ふいに肩をつかまれた。後ろを振り返るとあのオトコ。つり上げた口元の笑みは無気味に見える。
「カナコちゃん、あの夜どこかに消えちゃうし、あれからクラブに来ないし、心配で探しちゃったんだ」
 やっとみつけたよ。オトコは無気味な笑みを浮かべたまま、一歩加奈子のほうへ踏み込んできた。
「警察よぶわよ」
 周囲に目を走らせたが誰も見当たらない。店からも離れていて声も届かないだろう。手をふりほどこうとしたが、オトコはぐっと力を入れてきた。
「つれないなあ。あの夜の約束、忘れちゃったの?」
 オトコの瞳がぎゅうっと小さくなり、目は左右焦点があっていないように見えた。それを見て、絶望を感じた。せっかく今までのことをやめたのに。笑うように、素直になるように決めたのに。ダイヤを磨くと決めたのに。今までならこんな状況でも翻弄させられたのに、今は恐怖で声が出ない。微かに震える手をぎゅっと握り締め、声を出そうとする。
「ドライブに行こうよ、ね?」
 ああ、もうだめだ。やっぱり私にはダイヤになる資格がないのかもしれない。様々な罪悪感が加奈子の体から力を抜かせようとしていた。
「やあ、探したぜ」
 ふいにオトコの背中越しに人影が見えた。オトコが振り返ると同時に加奈子ははっとする。
 かきん。
 煙草をくわえた、あの男が立っている。そして男は加奈子を一瞥するとオトコを見据えた。
「なんだよ、アンタ」
 オトコは振り返り、肩を掴んでいる男の腕を振り払おうとした。そのために加奈子への握力が弱まった。加奈子は思い切り腕を振り払い、男の背後にさっと逃げた。
「このまえの二四六で無茶なスピードで走ってたヤツだろう? オマエ。あやうくオレは事故りそうになった。挙句このイカれた女子高生を助ける羽目になっちまった」
 男は煙草をふかし、ゆっくりとした口調で言う。男の声には抑揚がなく、その口調の違和感に加奈子は表情を曇らせた。
「だからなんだよ」
 オトコは肩を掴んでいる腕を払おうと必死にカラダをゆすっているが、手は肩に食い込んでいる。
「だからなんだよ? 随分な言い草じゃねえか。人にメイワクかけておいてよ」
「へんな言いがかりはよせよな、このゴロツキ」
 オトコはそう言うとぺっ、と唾を吐いた。男ははっ、と鼻で笑うと手を離した。オトコはよろめきながらも逃げようとしたが、それよりも早く男の腕が首に絡まった。
「オマエ、このオンナとやりてえのか? だったらオレと勝負しな」
 ぼそっとつぶやくように言った言葉に加奈子は体を硬直させた。男の背から離れようとしたとき、加奈子はぐっと手首をつかまれた。声を出そうとした瞬間、その手を掴んだ相手が父親であることに気がついた。
「おまえら何をしてるんだ」
 父親の静かだが強い口調に男は振り返り、じろりと加奈子を睨んだ。父親は加奈子を引き寄せ、二人の男を見やる。男は背を向け、オトコは小さく舌打ちした。からませた腕を離すと男は何かをオトコに言った。しかしそれは加奈子には聞き取れなかった。オトコの鋭い視線と、口元に歪んだ笑みを見る。
「おい、あんまり火遊びすんなよな」
 男は加奈子にそう言うと、厳しい目を向け、顎をしゃくった。俺達にかまうんじゃない。そう突き放されたように感じ、加奈子は男の方へ行こうとした。
「加奈子、帰るんだ」
 きつくつかまれた腕は振り払うことが出来ず、二人に近づくことが出来ない。
 十二時。
 オトコの口がそう動き、男が頷くのが見えた。そして二人は互いに背を向け、歩いて行った。加奈子は父親に引っ張られながらも何度も十二時とつぶやいた。
 マンションに戻ってから、父親は特別あのオトコのことにふれるわけではなく、いつものようにテレビを見ながらつまらない会話をした。それでもちょっとした間が空くと何か言いたげな表情を見せるが、口には出さなかった。
「じゃあ、先寝るぞ」
 ビールを空けると、父親はソファから立ち上がり、あんまり遅くまで起きているなよ、とつぶやくように言い、部屋に入ろうとした。加奈子は父親を呼び止める。
「なんだ?」
 振り返りもせず、父親は背中を向けたまま聞いてくる。加奈子は少し躊躇したあと、小さくごめんなさいと告げた。
「ばか、謝ることじゃない」
 父親はおやすみと言って部屋に消えた。
 ベランダに出て、加奈子は夜風に吹かれながらあの時の二人の会話を想像した。男は勝負しろと言った。オトコはそんな挑発に乗るはずがない。オンナなんていうのは何も私一人じゃない。けれどあのあとオトコの鈍い光を宿した目はある決意を物語っていた。そして十二時という口の動きと男の不敵な笑み。十二時とは一体いつを指しているのだろうか。今日なのか。それとも明日なのか。夜なのか昼なのか。
 あんまり火遊びはするなよ。
 男はそう言って歩み寄ろうとした私を拒絶した。今までよりもはっきりとした態度。加奈子はぼんやりと街並を眺める。無気質な蛍光灯の無数の光。そして水銀灯の列。すべての光は白すぎるほどに白く、そして冷たく映る。あのオトコの目もそうだ。白すぎるほどの光。私はそれを嫌っている。清潔とは違う白さに苛立ちを覚える。
 微かに響く車の音に時折重く、空気を震わせるような音が混じる。しかしそれはあの男の車のような美しさと儚さが感じられない。
 今日の十二時だ。
 加奈子はふいにそう思う。なんの根拠も無い。理由もない。ただそう思う。いやもしかしたらそれは願望なのかもしれない。
 壁時計に目をやる。十一時を少し回ったところ。加奈子は素早く部屋を出た。
 エレベーターから出ると、加奈子は広場に向かう。そこには人影はない。そして周囲を見渡すと通りに向かった。
 ウォン。
 微かに響く音。加奈子はあの音だと気づくと、音の方向に走り出した。緩い坂を上がり、きついカーブの先に赤黒い塊が見えた。そしてその横には煙草をくわえた細い影。
「ねえ」
 息を切らせながら加奈子が声をかけると、男の瞳に一瞬驚きが走ったが、すぐに鈍く、淀んだ瞳になった。
「何しに来たんだ?」
「あのオトコと会うんでしょ?」
 男は何も言わず加奈子を見やる。そしてくわえていた煙草を捨てた。
「で?」
 近寄りがたい雰囲気の男の態度に、加奈子は気圧された。男は顎をしゃくり、加奈子に帰るよう促した。
「ワタシをアイツに売り飛ばす気?」
 何も話そうとはしない男に苛立ち、加奈子はきつい口調で男に詰め寄り、手を上げて男の頬を叩こうとした。しかし男に手首をぐっとつかまれた。
「オマエには関係ない。早くここから消えろ。じゃないと本当に売り飛ばしちまうぞ」
 その言葉にはっとし、男の目を見た。微かに映る水銀灯の光は澄んで見えた。男が腕を離したと同時に眩しい光に照らされた。目を細め、光源を追うとそこには白いポルシェが佇んでいた。
「よう、ちゃんと来たぜ」
 ドアが開き、白いシャツにジーパン姿のオトコが出てくる。男は舌打ちをし、迷惑そうな表情で加奈子を見やった。オトコは近づいてきて、煙草をくわえた。
「カナコちゃんも来てたんだ」
 そして薄い笑みを浮かべ、火をつける。オトコの問いに答えず、加奈子は反射的に男の後ろに下がった。
「じゃあ、はじめよう」
 男はそう言うと、口元を歪ませて笑ってみせる。そしてこれからコースを回るから、付いてこいと指示をし、クルマに乗りこもうとした。オトコが加奈子に目をやった瞬間、男の助手席のドアを開けて乗り込んだ。男は何も言わず、加奈子がシートベルトを付けるのを確認するとエンジンをかけた。
 勇ましい唸り声をあげ、火が入ると、クルマは目を覚ましたように震える。車内にはほのかに光る淡いグリーンのイルミネーションが灯る。ポルシェがUターンして後ろに来るのを確認し、男はクルマを発進させる。
「いいか、ここに戻ってきたらオマエはクルマを降りて、家に戻れ」
 前方を凝視したまま男が言う。微かに浮かぶ口元の微笑が加奈子の気持ちを揺さぶった。
「何が楽しいの? これから、何をしようっていうの?」
 加奈子の問いに答えず、男は緩慢な動きでクルマを操る。従順を装いながら男に反応するクルマから微かに低い唸り声が混じっている。もう一度加奈子は問いかけた。信号待ちになると男は煙草をくわえ、チラッと加奈子をみた。
「これから何をするかって? 決まってるだろう、オマエを賭けての勝負だ」
 首筋が熱くなるのがわかる。加奈子は何を言っていいのかわからなくなった。
「あなたが負けたらワタシがあのオトコに?」
「ああ」
「あなたのオンナでもないのに?」
「向こうはそう思ってたぜ」
「あなた、誰?」
 込み上げてくる怒りと、男の言動による恐ろしさに唇が震える。男は、答えない。
 クルマがまた元の場所に戻って来ると、男はクルマを降りるように促した。しかし、加奈子はその場から動こうとはしなかった。
「今のコースでいいのかい?」
 オトコが髪を掻き上げ、余裕の笑みをこぼす。男は頷き、なんならもう少しコースを長くしてもいいし、短くしてもいいんだぜと答える。
「今のコースを一周だ。途中高速のインターを二ヶ所通ったろ? 最初の場所で乗って東京方面に向かう。でもう一つの場所で降りる。短い区間だけどそこを使う。特にルールはない。ただし高速の料金はちゃんと払って、信号は守れよな」
 男の言葉に頷き、助手席に座っている加奈子を降ろせと要求した。
「ワタシ、降りない」
 加奈子はぎゅっと手を握り、そう答えて男を睨みつけた。男は、
「ま、ハンディとしていいだろう?」
 オトコはフンと鼻を鳴らし、いつでもいいぜと言い残し、クルマに乗りこんだ。男はそれを見やってから運転席に潜り込む。そして助手席で体を固くしている加奈子を見やり、今ならまだ間に合うぜ、と促す。しかし加奈子は何も答えず、ただ前を見据えていた。男はそれ以上は何も言わず、窓を開けた。
「目の前の信号が青になったらスタートだ」
 せいぜい楽しもうぜ。そう言うと男はウィンドウを閉め、アクセルを煽った。低い唸り声に金属の擦れる、悲鳴のような音が重なり合う。
 青。
 ぱんっと一瞬のウチにポルシェが飛び出す。白い煙を巻き上げて、勢いよく加速していく。男はそれを追うように加速をする。車内には今までに聞いたことのない唸り声が一気呵成に耳に飛び込み、加奈子の体はシートに押さえつけられる。
 約一キロほどの直線はあっという間に終わり、ポルシェとの差は大きく開いていくばかりであった。その矢のような速さにクルマはいくら吼えてもついていけない。その光景に加奈子は暗い失意の底に沈んでいく。
 タイヤが悲鳴を上げ、ボディが軋み、車内には悲鳴が充満する。男はただ前を見つめ、なめらかにクルマを操る。口元には笑み。
「さすがにポルシェだな、速ぇ速ぇ」
 独り言のようにそうつぶやきつつも、男の表情には焦りも張りつめた緊張もない。
「どうして笑っていられるのよ」
 加奈子は響き渡る音の洪水のなかで半ば悲鳴のようにそう叫んだ。
「楽しいからさ」
 その言葉は加奈子の胸に一層の恐怖をせりあがらせた。それはこの速度が危険だからではない。勝負の行方が見えてきているからではない。男のぞっとするような笑みと、完全に突き放された言葉にであった。
 周囲には人通りもクルマもない。暗がりの中には二台のクルマから放たれる咆哮が響き渡り、木を震わせ、そして街灯さえも震わせた。緩いカーブの続く道でようやく前方にポルシェのランプを確認する。男は何度もいいぞ、いいぞとつぶやき、クルマを操る。獰猛に体中の筋肉をいう筋肉を躍動させ、暴れ回ろうとする獣を軽くいなすように男は操った。無駄のない動き、乱れない姿勢。それに比べると前を行くポルシェは速いが時折姿勢を乱しながら疾走していく。山道を抜けると目を射すような眩しい光芒が広がる。高速の入り口だ。そこでポルシェに追いつき、一瞬の静寂が訪れる。
「ここからはアイツのオンステージだな」
 料金所を抜け、加速をしはじめると男はそうつぶやき、煙草をくわえた。しかしそれでもスピードは緩めず、アクセルを煽るだけ煽り、クルマに鞭を振り続ける。
「どうしてこんなことするのかって言いたいんだろう?」
 見えなくなりそうになるテールランプに追いつきながら、男はそう言った。
「死ぬかもしれないギリギリのところに行くと、どうしようもないくらいに体中の血が沸騰して、頭の中が真っ白になる。でも理性がそれを必死に止めようとして恐怖感を体中に駆け巡らせる。首筋がちりちりと焼けるようになって危ない、もう危ないって信号を送ってくる。でもな、それでも足はアクセルを緩めないし、手はエンジンを止めようとしない。あと少し、あと少しとアクセルを踏み込み、ハンドルをもっと早く、もっと滑らかに動かそうとする。
 おれは刺激が欲しいんだ。どうしようもないくらいの、射精しちまうほどの快感が欲しいだけだ。自分が人間っていう高尚なやつじゃなくなるほどの、緊張と興奮が欲しくなる。理由なんてなんだっていい。相手はあいつじゃなくても良かったし、オマエをダシにしただけだ。おれはオレじゃなくなっちまうほどの快感に溺れたいだけなんだよ」
 わかるか? 男はちらっと加奈子を見やり、小さく笑った。加奈子は首を横に振り、わたしにはわからないと答えるのがやっとだった。
 大きな緑色の標識が次のインターが近いことを示している。疾走していたテールランプはすっ、と左に流れ、出口に吸い込まれていった。
「わからなくていいんだよ。前にもいっただろう? アイツや俺とは違う生き物なんだよ、オマエは」
「どうして・・・・・・」
「あの犬を一番哀れに思い、埋葬してやれないことに苛立っていたのは、本当はオマエなんだよ。自分をダブらせていたんだろ? あの犬に」
「・・・・・・」
 ランプウェイを過ぎ、料金を払う男の手が微かに震えているのが見える。恐怖でそうなっているのではない。激しい快感に興奮している手。
「ここからが本番だ。勝負をつけてやろう」
 男はそういうと、少し先に飛び出したポルシェに追突しそうなほどの勢いでアクセルを踏んだ。エンジンの咆哮が止むことはなく、ボディは男と同化したかのように快感にカラダをよじらせ、わなないた。
「確かにあいつのクルマは速い。どう考えたってオレの車じゃ勝てやしないさ」
「じゃあ、なんで勝負なんてするのよ」
「いいか、よく考えてみろ。オレが負ける理由なんて一つもありゃしないんだ」
 そして男はここから先は黙ってろ。舌を噛むかもしれないぞと言い、ぎゅっと前方を見やった。時折照らす水銀灯で瞳孔が大きく開いていくのがわかり、加奈子は言い知れない恐怖を覚えた。
 三車線の道路を目一杯使いながら、ポルシェは規則正しいリズムで走りぬけていく。それを追うことを楽しむかのように、アルファは矢の如く突き進む。加奈子はシートにカラダを深く沈ませ、天井にあるグリップを必死に掴み、早く抜いてと譫言のように胸の中で繰り返す。早く抜いて、人間である男に戻ってほしい。そして私を早く解放して。そして今までの自分を呪う。
 信号につかまらないままひたすら長い直線を走る。もう耳の感覚が麻痺してきて、体中音に貫かれてしまったようになる。あともう少し。二つの信号を越えるとあと二キロもない。緩やかなカーブの連続する、あの犬のいた道。
「ここだ」
 ふいに男はつぶやき、クルマは嬌声を上げ、加速する。信号が変わろうとしている。
 黄色。
 そして赤。
 激しい悲鳴を上げ、がくがくとボディを震わせて、アルファは止まった。加奈子の横にはポルシェ。
 男はくつくつと笑い、舌なめずりをした。そして何かをつぶやいたが、聞き取れない。ポルシェがアクセルを煽る。それに合わせるように男もアクセルを煽る。
「オマエの負けだ」
 信号が青になった瞬間、ぱんっ、と音がしたような錯覚に囚われ、加奈子は一瞬目をつぶった。ゆっくりと目を開けると、前には車の姿がない。後ろを見ると猛然と追いかけてくるポルシェ。何が起きたのかわからず、加奈子は後ろを見たまま呆然とした。
「バカなヤツだな」
 そう男はいい、大声で笑う。
「あそこの信号からここは工事中で一車線になる。あいつのいた車線がなくなる。暗くて見えなかったか、熱くなりすぎて見落としたか知らねえけど、バカな野郎だ」
 そうしゃべりながらも男はアクセルを緩めず、更に加速をしている。ポルシェは左右に車体を揺すり、威嚇をしてくるが、男は気にも止めずに運転に集中している。
 狙っていた。
 加奈子はそう思った。男はこの場所を熟知していた。そしていかに速い車といえどもここはレース場ではない。信号もあれば飛び出しもある。ましてや工事中の場所もある。最初から男は狙っていたのだ。どんなに速く走ろうと、必ず信号にぶつかる。そのどこかで勝負をしようと密かに狙ったのだ。緻密ながらしかし、確率の低い賭けは理性で出来るものではない。男はいま言いようのない快感に満ちているはずだ。
「これだよ、オレが望んでいたのはな!」
 そう叫ぶ。そしてそれに共鳴してクルマは嗚咽を漏らしながら、カーブを踊るように走りぬけていった。
「キタネエぞ! はめやがった!」
 マンションの前につくとおもむろにオトコは車から飛び出してきて、男の胸ぐらをつかんだ。男はそれに物怖じすることもなく、じろりとオトコを睨み、小さく笑った。
「ちゃんと最初に見ただろう? コースをわざわざ一周案内したんだ、気がつかねえオマエが悪いんだよ」
 手を払うと男は煙草に火をつけた。その手がまだ震えているのを加奈子は見逃さなかった。オトコはじろりと男を睨みつけ、舌打ちをした。
「もう一回だ! もう一回勝負しろ!」
「うるせえよ」
 突っかかってくるオトコの眉間に煙草をおしつけた。悲鳴を上げ、オトコはもんどりうった。それを見やりながら腹に蹴りを入れる。
「オマエは負けたんだよ。勝負に乗ったときから負けてたんだよ。わかるかい、ボウヤ。さっさと帰れ。邪魔だ」
 顔を覆いながらオトコはよろよろと立ち上がり、男を罵ると車に乗りこみ、猛然と加速し、あっという間に走り去っていった。
 あまりにあっけない幕切れに、加奈子は放心し、ポルシェを見えなくなるまで見ていた。
 カキン。
 その音で我に返る。男は震えを抑えるようにジッポーのフタをゆっくりと閉める。
 カキン。
 そしてまたゆっくりと開ける。その姿からはさっきの姿を想像できないほど小さく、弱々しく見える。その悄然とし、震える手をじっとみつめている男を見て、加奈子はああ、と思った。そうだったのか。
「ねえ」
 加奈子は男に声をかけた。力なく返事をすると男は顔を上げた。瞳には鋭い光も、すれた翳りもない。
「送って」
 自然にこぼれた笑みを隠さずに、加奈子は男にそう言った。

 マンションに向かうまでの間、クルマは甘えてじゃれてくる猫のように、ゴロゴロと喉を鳴らすように走った。尖ったところのない、まるで全てが滑らかに動き、加奈子の全身に優しく響いてきた。さっきまでの獣のような咆哮と、獰猛で殺意すら感じる雰囲気はどこにもない。目を閉じ、体をシートに預け、心地良く響き合う音たちに意識を集中させる。誰の車でも味わえなかった安らぎ。薄く目を開け、隣を見やる。男は火をつけない煙草をくわえたまま、運転に集中している。その横顔は、初めて会った時よりも精悍に見えた。
 しばらく横顔を眺めたあと、加奈子はまた目を閉じた。
「ついたぜ」
 加奈子はゆっくりと目を開ける。窓の外には馴染んだ冷たい風景。
 かきん。
 軽い金属音が静かな室内に響き、視界の隅でオレンジ色の光がちらちらと見えた。男は静かに、ふうっ、と溜息をつくように煙を吐いた。
「ねえ」
「なんだ?」
 すっ、と手を伸ばし、加奈子は男の頬に触れる。頬の筋肉がきゅっと締まる感触が指先から伝わってくる。
「キスしない?」
 鈍い光に照らされた唇を見る。男は前を見たまま、黙っている。
「私、もしかしたらさ・・・・・・」
「その真っ赤な口紅を落としたらイイぜ」
 男は加奈子の手から逃げるように顔を離す。 じじっ。煙草は小さく音を立て、ほのかな火が男の顔を照らした。その表情には困惑も、野蛮さも、羞恥もない。優しく穏やかな表情があった。男の声は低く、小さかったが耳に響く。その言葉に、加奈子は羞恥に晒され、体中が熱くなった。
「口紅、とりなよ」
「いやっ・・・・・・」
 手が唇に伸びてくると、反射的に顔を背けた。
「もうやめとけよな」
 ぽん、と頭を撫でると、男はまたふうっと煙を吐いた。
「こういうアソビはやめにして、高校生活をまともに送ってみろ。それはそれで面白いもんだぜ」
「・・・・・・・・・」
 男の言葉に微かな失望を味わい、加奈子は黙っていた。気に止めるふうもなく、男は煙草を灰皿に詰め込み、エンジンを切った。金属の擦れる音が聞こえたと思うと、その音は急にしぼみ、静かになった。
「ヤボ男」
「おかげさまでね」
 男と目を合わさずに加奈子は助手席のドアを開けた。粘りのある空気が熱くなった体にまとわりついてきた。
「ねえ」
「あ、なんだ?」
「あなたは誰?」
 ぽかんとした表情を見せたあと、男は小さく笑い、口をへの字に曲げた。
「オレはオレだよ」
「・・・・・・じゃあ、またね・・・・・・」
 加奈子はちらっと男を見、小さく手を挙げた。そして男の反応も確認しないまま、助手席のドアを閉めた。
 バタン。
 薄っぺらな音が胸についた。まるで背中を押されたような錯覚をおぼえ、加奈子は振り返る。クルマは勢いよくウォンと唸り、さっと走り去ってしまった。
「あっ・・・・・・」
 微かにもれた声は響き渡る咆哮にかき消され、加奈子は一人その場所に置き去りにされた。ジリジリと焼けるような胸の奥の熱さを感じながら、ただひたすらに反響する二重奏に耳を傾けた。

 あれから二週間。退屈だと思っていた夏休みは大きく変わった。毎日が新鮮で、心が伸びやかになった。京子とつまらない話に笑い転げ、買い物に出掛けたり、海にも行った。オトコはあれ以来姿を見せず、一日だけ淡いピンクの口紅をして、京子とクラブに行ったが、いなかった。そしてクラブのバーテンも加奈子とは気づかず、音楽にあわせてカラダを揺すりながらシェーカーをふるだけだった。男もあれ以来見ていない。毎夜ベランダに出てみるが、あのエンジン音は響いて来なかった。
 父親から今日は泊まりだと電話が入った。加奈子は受話器を置いて時計を見る。
 十一時。
 ベランダに出て、夜風にあたりながら物思いに耽った。遠くから聞こえてくるクルマの音に耳を傾け、父親と、京子と、男を思う。そして残りの夏休みに思いを巡らせる。もう高校三年だ。就職しようか、それとも大学に進むか。フリーターで好きなこともしてみたい。
 そうだ、免許を取ろう。あの男に無理を言って運転をさせてもらおう。そして質問攻めにしてやろう。男の苦り切った笑顔を想像しながら、あの騒がしくも安らぐ、真紅の密閉された室内にいる二人を夢想した。
 アイスコーヒーを飲みながら、頭の中で思考は巡り、これから始まるであろう様々な出来事が明るく、輝いているように思えた。あの時の暗い、恐怖といえばそうとしか表現できない一夜がその輝きの始まりだったのだと加奈子は思っている。そしてあの一夜を思い出す度、胸の奥でまたちりちりと小さい熱が込み上げる。
「ヤボ男、今日も来ない」
 加奈子の声は湿った夜風に乗り、マンションの間を抜けて流れていった。
(了)



初出:Le-japon 1999.4 (本HP掲載に際して大幅加筆修正)

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