2002年サロマ湖100kmウルトラマラソン(前編)

第1章:いざサロマへ
2002年6月29日、午前11時50分発のJAS臨時便にて北海道女満別空港へ向かった。
羽田空港では、サムズの参加者であるキャップ,トミーさん,MAMORUさんと合流。さらに
ランニングチーム走やんかの村田さんとも合流し、私と応援参加のK枝を含めて6名で飛行に乗り
こんだ。走やんかの村田さんは、とても気さくな方で、一昨年のサロマ湖完走時の話しを色々
聞かせて下さった。そしてこの時のアドバイスが後々、重要な役割を果たすとは、この時はまだ
想像もしていなかった。女満別空港に到着後、村田さんは東急観光のバスで受付会場へ、私達は
レンタカーに乗って、ホテルへチェックインしてから受付会場へ向かった。途中、コースの一部
を走ったが平坦という噂の割には、坂が多かったような… そんな印象を持った。受付会場には
午後4時過ぎに到着。参加者に振舞われるホタテ焼きを食べた。(旨かったー!)さらにフィニッシ
ャーTシャツを注文。またレース用に5本指ソックスも購入した。受付会場では、村田さんに再会
し翌日のレースの話しで盛りあがった。そう言えば、この日の北海道は暑かった。羽田空港を出発
する時は長袖のシャツを着ていて丁度良いくらいだったのに、女満別に着いた時はTシャツ1枚
でも汗を流すほど。気温は28度もあったらしい。翌日も暑くなりそうで、ちょっと心配。
この後、私達は会場を後にして、網走市内で夕食を摂り、ホテルには午後8時頃到着。急いで
翌日の準備をして、風呂に入り、10時過ぎに就寝した。

翌朝は1時30分に起床、2時にホテル出発。2時40分頃にゴール地点に車を止めて、スタート地点
往きの送迎バスに乗り込んだ。応援参加のK枝も一緒にスタート地点へと向かう。サロマ湖100km
マラソンでは応援バスというツアーがあるのだが、このバスはスタート地点からゴールへ向かって
ポイントポイントに停車するというシャトルバス形式なので、応援者もスタート地点に1度行かなけ
ればならないのだ。スタート地点までの送迎バスと応援バス両方の料金が掛かってしまうことになる。
スタート地点には4時ちょっと前に到着。レストステーション行きの荷物、ゴール行きの荷物、スペ
シャルドリンクを預けた。スペシャルドリンクにはグリコーゲンリキッドを水に溶かしたものを入れ
たボトルにチタンローションの小さい容器をガムテープで貼りつけた。このレースはエイドが充実
しているようなので、食料などは特に持たなかったが、アクシデントに備えて、ワセリン,テーピン
グ用テープ,チタンローション(小),ペース表をウエストポーチに入れた。

それからもう一つ、安全ピンが入っていた小袋に食塩を入れたものを持った。これは、前日に村田さん
のアドバイスで、塩分が不足すると痙攣や意識がもうろうとするなどの症状が現れると言うのを聞き、
なるほど!と思ってはみたものの、食塩なんて今更手に入らないナーと思っていたら、コンビニで
トミーさんが、購入したものを分けて下さるというので、万全を期してこれも持っていくことにした。
これが後々重要な役割を果たす事になる。

そして、スタート地点では、サムズからのもう一人の参加者ケソさんと合流。ケソさんは昨年のサロマ湖
100kmに参加。過去最高の過酷な条件に阻まれ、残念ながら完走は出来なかったそうで、今年はその
リベンジ。それからスタート前こんな事があった。道路脇の公衆トイレに並んでいたら、向かい側の家の
方が手招きをしている。何かなと思っていたら、『うちのトイレを使いなさい』と言って下さったのだ。
まだ早朝5時前。こんな時間に早起きして、気を使って貰えたことが凄く嬉しかった。町全体で大会を盛り
上げようという雰囲気が充分伝わってきた。

第2章:感動のスタート(スタート〜10キロ)
2002年6月30日。サロマ湖100kmウルトラマラソン出場を決意して約半年。待ちに待った
この瞬間を迎えた。スタート直前、サムズからの参加メンバーと完走を誓い合い、また走やんか
の村田さんと握手をかわして、その瞬間を待った。感動するのはこれからなのに、何故か目には
うっすらと涙が浮かんできた。何から手をつければ良いのか全く分からず、手探り状態で始まった
ウルトラマラソン対策。どれだけ練習すれば完走できるのか不安で仕方なかったが、今確実に
言えるのは、やれる事は全てやった、という事。間違い無くそう思っていた。何一つ悔いなどなかった。
必ず完走できる。十数時間後には、ここにいる仲間達と喜びを分かち合っているだろう。そう信じて
いた。この日の天候は、晴れ。天気予報によれば25度以上になるのは必至だった。

『暑さ対策』これをクリアできれば距離は克服できる自信があった。白い帽子を後向きにかぶり、
首にはクールネックを巻いて、サングラスを掛けた。給水所ではしっかりと水分を補給する。
それから塩分,糖分にも気をつける。一つづつやるべき事をこなして行けば、必ず結果はついて来る。
そう信じて疑わなかった。すっかり明るくなった湧別町総合体育館前には、2000人以上のランナーが
スタートの瞬間を待っていた。そしてその瞬間がやってきた。ホノルルマラソンのような華々しさは
無いし、これまで出場してきた全てのレースにあった緊迫感もない。皆、笑顔でゆっくりゆっくりと
歩を進める。無理な追い越しを掛けるランナーもいない。ウルトラマラソンは競走ではなく、共走
だという表現を聞いた事があるが、本当にその通りだと感じた。スタート前に、トイレを貸していた
だいた家の方が沿道にいたので、『先ほどは有り難う御座いました。頑張ってきまーす。』とお礼
を言った。

コースは湧別町の町中を抜け、広大な畑地帯に入る。延々と続く真っ直ぐな一本道を走る。緩やかな
アップダウンはあるものの、気になるほどの斜度ではない。最初の5キロは、34分弱で入った。5キロを
30分。スタートまでのロスが2分、32分で通過予定だったので、少し遅れ気味。それでも徐々に身体が
温まってくれば、自然とペースは上がってくるだろうから、心配はしていなかった。むしろ注意していた
のは6分/kmを切るようなオーバーペースにならない事だった。続く5キロ(5km〜10km)は、畑地帯を
抜けて、林に囲まれた道を行く。第1折り返し地点の竜宮台へ向かって走るこの道沿いには、数こそ
少ないものの応援をしてくれる地元の方々がいた。まだ6時前なのに、家の前に出て声援を送ってくれる。
『また来年も来てね!』まだ始まったばかりなのに、『来年も来てね』とは… でもここに住んでいる方達は
毎年、スタート直後のランナーにこういった暖かい声援を送っているんだなと思うと、なんかほのぼのとした
気分になった。そして、10キロ地点は1時間7分53秒で通過。この5キロも34分弱掛かっている。ペースは
上がらなかった。そう言えば、この5キロから10キロの間に応援バスが待ち構えていたので、K枝と再会
した。まだこの時は余裕を見せていたつもりだったが…

第3章:好調? 不調? (10キロ〜30キロ)
10キロを過ぎると右手にサロマ湖が見え始める。ケソさんに抜かれたのはこの辺りだったかな。
調子を尋ねると、『トイレが近くて…』と言っていた。K枝から聞いた話しでは、レース前、胃の調子が
イマイチだと言っていたらしいのでちょっと心配だった。その後15キロ地点の竜宮台折り返し地点に
向かう途中、MAMORUさん、キャップとすれ違った。さらに竜宮台折り返し地点手前で、ケソさんと
すれ違う。この時はまだそれほど差は開いていなかったが、この後、ゴールまで殆どペースを落さず
に走り続けたケソさんは、11時間2分という好タイムで完走。昨年のリベンジを見事に果たしていた。
私のほうは、相変わらず6分30秒/km程度のペースをさまよっていた。5キロ毎のラップが33分〜34分。
予定では6分/km程度のペースに落ち着くと思っていたが、すっかりスローペースに落ち着き、身体は
温まってきているのにペースが上がらない。しかしここで無理して上げたら、あとでツケが廻ってきそうな
予感があったので、我慢することにした。調子が悪いわけではない。自分にそう言い聞かせ、成り行きに
まかせて走った。竜宮台の折り返し直後には、走やんかの村田さんとすれ違った。自分のペースが
上がっていなかったので、そのうち抜かれるんだろうな… そんな感じがしていた。

竜宮台では、子供達の太鼓による応援にちょっと感激した。竜宮台を折り返すと、これまでに走ってきた
道を折り返す。林の中の道を走り、再び畑の中の直線道へ。畑の中の道はスタート後に通った道とは
違うが、景色は同じ。スタート地点の方角へ戻る。右手には最初に走った直線道があり、左手の方角には、
逆方向に走っていく人の列が見える。つまり、畑道は計3回走るのだ。最初は竜宮台方面へ、2度目は
折り返してスタート方面へ、3度目はゴール方面へ、3回とも違う道だが並行している道路なんで、景色は
殆ど同じ。平坦で走りやすいのだが、精神的にちょっときびしい。ペースは30km地点に到達しても相変わ
らず、パッとしなかった。そしてこの時、始めて調整失敗の不安を感じた。6月に入ってから休養に重点を
置いていた為、ペースは常に6分30秒/km程度に敢えて抑えていた。そのおかげで疲労は抜けたが、
逆に筋肉がこのペースを覚えこんでしまったようで、ニコニコペースが6分/kmではなく、6分30秒/kmに
落ちてしまったようだ。10km程度の短い距離でも良いから、速いペースで1度走っておけば、違った結果に
なっていたかも… と今更思ったところで、後のまつり。でもこの時はそれほど深刻には考えていなかった。
却って体力が温存できて、後半に粘り強い走りができるかも… そんな淡い期待を抱いていた。

第4章:苦戦の予感(30キロ〜50キロ)
ここまでの10キロ毎のラップは、1時間7分53秒(10キロ),1時間5分52秒(20キロ),1時間10分00秒
(30キロ)実際のところ、10キロ〜20キロと20キロ〜30キロの区間距離が間違っていたようなので、
ここまではほぼ同一ペースだった。5キロ34分程度のラップを刻んでおり、ペースが上がらないながらも
許容範囲に収まっていた。その雲行きが怪しくなり始めたのは、35キロを過ぎて国道に入ってからだった。
これまでになかったアップダウンが始まる。元気な状態ならそれほど気にならない斜度であると思うが、
いくらゆっくりとは言え、35km過ぎともなると、足に疲労は溜まり始める。平坦なところで6分30秒/km
のペースがさらに落ちて行くのは仕方のない事だった。本来ならもっとウォーキングを多く取り入れ、
上り坂は出来るだけ歩こうと思っていたが、走らないことには、ペースが守れない。そんな状況に陥って
いた。またこの時間帯になると、かなり暑さも気になりだした。これまでは帽子とクールネックをバケツに
つける程度で済ませていたが、かぶり水をしないと耐えられなくなり始めた。足に水を掛け、頭からも
水をかぶる。当然ながらロスタイムが増える。そんな悪循環で30キロ〜40キロのラップが、1時間13分
08秒に落ちた。40キロを過ぎると1度国道を離れ、月見が浜の湖岸道路に入る。

42.195kmのチェックポイント付近で再び応援バスに遭遇。K枝に調子を尋ねられるが、何とも答えられ
なかった。疲労が出始めていたのもあったし、ペースが上がらなかった苛立ちもあった。大量の汗で
身体中が塩まみれになっているという不快感もあり、出来る事なら『絶好調!』とでも言いたいところ
なのだが、とてもそんな心境ではなかった。早く55kmのレストステーションに辿りつきたい。そんな気持ち
でいっぱいだった。そんな複雑な心の中とは裏腹にサロマ湖は青く輝いており、それを美しいと受け入れ
られない自分の状態にちょっと失望しかけた。

50kmの手前で再び国道に戻った。これは小刻みなアップダウンが始まる事を意味する。これまでの
ペースは30分近く走り、適度にウォーキングを入れる。そんなリズムで来ていたが、この辺りからは30分
を半分に割り、15分程度の走りでウォーキングを入れるようにした。当然、ウォーキングの時間も短くしている。
このほうが比較的楽に走れる気がしていた。40キロ〜50キロのラップは、1時間17分23秒。さらに落ちていた。
50キロの通過タイム5時間54分16秒は、設定タイムを9分近くオーバー、(制限時間まで36分しか余裕が
なかった。)これを取り返すには、これ以上のペースダウンをしないこと。それは分かっているのだが、ペース
が取り戻せない。

第5章:絶体絶命(50キロ〜60キロ)
50キロを過ぎた辺りだっただろうか、突然後方から名前を呼ばれた。聞き覚えのある声だった。応援バス
に乗っているK枝が窓から顔をだして、私の名前を叫んだのだ。下り坂に差しかかっていたときだった。
その声が予想以上に大きかったので、周りにいる何人かのランナーが一斉に振返った。そのあとバスが
通りすぎると、ランナー同士、顔を観合わせて笑う。苦しい中、その苦しさから開放された一瞬の出来事
だった。坂を下り終え、湖岸の道路に出ると、レストステーションの緑館らしき建物が見えてきた。『あれは、
緑館ですか?』『そうですよ!』そんな会話が聞こえた。緑館まで行けば、着替えなどが行える。もう少し
頑張ろう、少しでも休めば、きっと生き返ってくる筈だ。あれだけ練習したんだから、このまま沈む筈がない。
自分を信じることにした。

そして緑館へ向けての上り坂が始まった。レストステーションに入る直前でゼッケン番号がアナウンスされる。
中に入っていくとボランティアの高校生が、預けておいた荷物を持ってきてくれた。素晴らしい連携プレーだった。
荷物を受け取るまでのロスは殆どなかった。そしてK枝と三度目の再会。レジャーシートを広げてもらい、
その上に腰掛ける。Tシャツを着替え、ソックスを脱ぎ、ワセリンを塗りなおし、新しいソックスに履きかえる。
RCチップを履きかえるシューズに付け替え、足にチタンローションを塗る。平常時なら5分もあれば出来そうな
作業だが、疲れているせいか、思うようにはかどらない。その間におにぎりを食べたり、ドリンクを飲んだり、
休憩という感覚は全くなかった。K枝に他のメンバーの状況を聞くと、MAMORUさん、キャップ、ケソさんの
順番ですでにレストステーションを出発。トミーさんはちょっと前に出ていったと言っていたが、この直後再会する。
調子を聞くと、やはり4月の富士五湖で痛めた股関節が痛み出し、もう走るのは困難な状況になっているという。
ここでリタイアも考えたが、もう少し先に行ってみるとの事だった。やはり100kmマラソンは過酷だ。スタート前に
万全であっても完走できる保障はない。まして故障を抱えながらのスタートとなれば尚更だ。この時点で既に
完走は厳しい状況でありながら、まだ先を目指すというトミーさんの姿勢に刺激を受けた。

『良し行くぞ!』と気合を入れなおし、レストステーションを出発。上り坂ではあったが、休憩を取った直後だから、
大丈夫だと思い、いきなり走り出した。しかしこの選択が間違いであったことに、この直後、気付く。休憩中に
筋肉が硬直していたのにストレッチもせずに走り出したのがいけなかったのか、塩分が不足して体内ミネラル
バランスが崩れていたのか、分からないが、両足の太股内側に痙攣が発症した。最初は引っ張られるような
感じだったが、徐々に痛みが増し、歩く事もままならなくなってきた。一度止まってストレッチを行い、チタン
ローションを塗りこむ。痛みは多少和らいだが、まだ走れる状況ではない。仕方がないので、暫らくは歩くことに
した。ゆっくりと歩いていれば痛みはさほど感じない。コースが平坦部にさしかかったので、走り出してみた。
走れる。それまでよりもゆっくりではあったが、何とか走れる。しかしホッとしたのも束の間、次の上り坂でまた
痙攣が再発する。今度は塩分不足の可能性を考慮して、塩を指につけてなめてみた。回復を待ちながら、
また歩き出す。歩いていれば前へ進める。しかしこの辺りは上り坂が多く、歩かざるを得ない状況が長く続く。
時間ばかりが過ぎて行き、距離はちっとも進まない。50km地点以降は1km毎に距離表示があるのだが、
その1キロが2倍にも、3倍にも長く感じる。

そして60km到達時のタイムは、7時間28分22秒。制限時間の僅か7分前であった。予想タイムよりも19分
近く遅れており、この10kmに要した時間は、1時間34分06秒。レストステーションで12分の休憩をとっていた
ので実質は、1時間24分06秒だった。1キロあたりのペースが8分30秒程度に落ち込んだ。そしてペースが
落ちた以上に深刻だったのは、次の関門通過まで、1時間16分程度しか残っていないという現実だった。
さらに70kmと80kmの関門制限の時間間隔は、1時間15分しかないので、仮に70kmを通過したとしても、
その後少しでもペースダウンしようものなら80kmの関門では確実に捕まってしまう。

絶体絶命の状態に追い詰められた。足の状態は相変わらずで、痙攣の箇所は、太股内側に留まらず、
両ふくらはぎ、太股外側と足のあらゆる箇所が痙攣地獄に襲われ、諦めの気持ちが頭の中をよぎった。
こんな状態では70kmで確実に引っ掛かる。走りたい気持ちは持っていた。でも現実は厳しく、1秒でも
遅れてしまえば、その時点でゲームオーバーとなってしまう。『何でこんな事に…? これまでの練習は
意味がなかったのだろうか?』 この半年の間に夢に描いていたサロマ湖をこんな形で終わらなければ
いけないのかと思ったら、突然悔し涙が溢れてきた。自分に対する苛立ち、思うままに動かない足への
腹立たしさ、でも本当の涙の原因は、ここで諦めようとしている自分の気持ちにあると言う事に気付いた。

『まだ終わったわけではない、僅かだがチャンスは残されている!』 この状況をピンチと捉えるのではなく、
チャンスだと考えることはできないだろうか? 60km地点では、ここでリタイヤを決意した、トミーさんと再会
した。トミーさんは、股関節の故障を抱えながら、100kmという大きな壁に立ち向かっていた。完走は果たせ
なかったが、ベストを尽くしての結果だと思う。夜久さんの言葉を借りれば、『リタイヤしなければいけない
くらい、ベストを尽くした』という事になるのでは…と思う。 私はまだベストを尽くしていない。僅かではあるが
体力は残っているし、策もある。ここで終わるわけにはいかなかった。『行けるところまで行ってみます!』
トミーさんにそう告げ、関門を離れた。

この続きは、サロマ湖100kmウルトラマラソンレポート(後編)へ


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