2002年サロマ湖100kmウルトラマラソン(後編)

第6章:ワッカへ!奇跡を信じて(60キロ〜80キロ)
『絶対に諦めない!』強い意思を持って70kmの関門突破を目指す。その為には、ゆっくりでもいい
から走れる条件を整えなければならない。塩分の摂取は少なからず効果があった。これまでは、先の
ことを考えごくわずかづつしか摂取していなかったが、目の前の関門を突破しない限り先の事を考え
ても仕方がないので、思いきって持っている食塩すべてを口の中に入れ、水で流し込んだ。塩辛かっ
たが、目がさめた。次にチタンローションを念入りに塗りこんだ。チタンテープも持っていたが、汗
まみれの足には貼りつかなかった。それから、コース途中で小さい女の子が氷を差し出してくれたの
で、これをスパッツの太股付近に挟みこんだ。色々行ったので、どの効果があったか分からないが、
何とかゆっくりなら(7分/km程度)走れる状態になってきた。あとは焦らず、ゆっくりと走り続け
るのみ。7分/kmペースでも、エイドでの給水・給食・かぶり水を手早く行えば、70kmの関門を
ギリギリで通過できるかもしれない。幸いにもコースは平坦で日陰の多い、キムアネップの森(通
称?魔女の森)に差しかかっていた。魔女は私に『歩け!』とは囁きかけなかった。この森を抜けた
あたりで、村田さんと遭遇した。いつのまにか村田さんは私の前にいたのだ。表情はちょっと辛そう
だった。この時、既に村田さんは彼にとってのベストを出し尽くしていたのかもしれない。『70kmの関門
目指して行って来ます。』と告げ、先に行くと『頑張ってくださいね!』と応援して下さった。
この『頑張ってくださいね!』の一言が本当に嬉しかった。勇気を貰った気がした。前日、塩の重要
性を教えてくださった村田さん。そしてそれを分けてくださったトミーさん。もしかしたら、この二人の
お蔭で自分はまだ活かされているのかもしれない。そう思ったら嬉し涙がこみ上げてきた。

その後、60〜65kmを35分でクリア。制限時間は刻々と近づいているが、関門までの距離も確実に近
づいている。エイドの高校生ボランティアも大声を張り上げて声援してくれた。『諦めないでー!』
と涙を浮かべて絶叫する生徒もいた。施設エイドでは、お絞りのサ−ビスもあった。時間がなかった
ので、お礼の言葉をかける余裕もなかったが、心の中では感謝していた。66km・67km・68km、と
1キロづつ確実に距離を稼げいでいく。足の方は、少しでも無理したら、また痙攣を再発してしまい
そうな危うい状況ではあったが、何とかギリギリの所で持ち堪えていた。ここで再発したら終わって
しまう。そうかと言ってペースをこれ以上落とせば、やはり関門に引っ掛かってしまう。時間に追わ
れ、足の痙攣に細心の注意を払う綱渡り走行が続いた。

そして残り1キロ、関門制限時間まであと10分。行ける! 70kmの関門突破は確信した。
次は80km。ここを越えればワッカへ入れる。その為に少しでも貯金を作っておきたい。ギリギリの
状態で1時間以上走りつづけていたので、疲労はかなり蓄積していた。歩き出したい気持ちはあった
が、何としてでもワッカへ足を踏み入れたい。ワッカまで辿りつければ、完走の夢が果たせるかもし
れない。70kmの関門を歩くことなく、走りぬけた。関門制限時間3分前だった。わずかだが3分の
貯金が出来た。80kmの関門制限時間まであと1時間18分。この10kmのリズムを崩さずに走りつづ
ければ、道は開けてくる。そう信じた。

70kmの関門付近には、次の関門突破を諦めたランナーが道端に腰をかけていた。かなりの人数だった。
この時間帯を走っているランナーの走力では、次の関門を通過するのは、至難の技なのかもしれない。
それでも先を目指すランナーは沢山いる。殆ど駄目だと分かっていても、僅かでも可能性が残ってい
る限り、先を目指す。そんなチャレンジャー達の仲間入りをして、80kmを目指した。状況は極めて厳
しかった。日陰がなくなり、炎天下に晒された。時刻は午後2時くらい。まだまだ暑い。

それでも苦しいのは自分だけではない。周りにいるランナーも皆同じ。いつのまにか、僅かな可能性
を信じて前へ進むランナー同士が声を掛け合うようになった。『80kmを越えましょう!』、『ワッカ
まで頑張りましょう!』、『ここが勝負どころです!』 お互いを励ましあった。80km地点を通過す
れば、関門制限の間隔が1時間30分になる。体力的な復活は臨めないが、時間的には復活する。
80kmをとりあえずのゴール地点と見定め、一団となって前へ進む。74km地点には、鶴雅リゾートの
お汁粉ステーションがある。ここでのお汁粉を楽しみにしていたが、今年は味わえそうにない。でも
ここで頑張れば、さらに先に進めるチャンスが与えられる。そう思いお汁粉への思いは捨てた。

そして、遥か彼方に小さく見えていた、鶴雅リゾート(お汁粉ステーション)が近づいてきた。
その直前、首に痛みが走る。寝違えた時のような感覚だった。どうやら首筋を攣ってしまったらしい。
首を真っ直ぐに立てる事ができないので、傾けて走った。(谷口選手の真似をしていた訳ではない。)
74km地点には、K枝がビデオを構えて、待っていた。『何か食べる?』と声を掛けられたが、
『制限時間に間に合わないから』と告げ、早々にエイドを離れた。時間に追われて走るのが窮屈だっ
たからというのが、ウルトラ挑戦のひとつの理由だったが、今までに、これほど時間を気にして走った
ことはなかった。70km〜75kmは、38分掛かった。途中、かけ水に手間取った(杓子がなかなか空か
なかった)のと、ストレッチをしたので、少し遅れた。それでも残り40分ある。8分/kmペースで行けば
関門が通過できる。っと 思っていたら、上り坂が現れた。ここ10数キロはずっと平坦路だったのだが、
ここに来て上り坂とは… しかし歩く訳にはいかない。慎重に走る。足の力を抜いて、ストライドを狭めて、
坂を登りきるまではゆっくり進もうと決めた。

それほど長くはない坂がいくつか続き、80kmまで残り1kmの地点を迎えた。制限時間まであと9分。
道は下り坂、良し行けるゾと思った。坂を下りきったところにスペシャルテーブルがあったが、取っている
余裕はない。素通りして行く。次の瞬間、自分の目を疑った。関門まで500mを切った地点から急な山道
が待ち構えていたのだ。元気な時なら一気に駆け上がってしまうような坂道かもしれない。しかし痙攣
の危険を感じながら走っているこの状態では、それはできない。残り時間はあと5分。一度、歩いてみた。
歩いても走ってもスピードは変わらないと思ったからだ。しかし、これまでのリズムを変えてしまったのが
いけなかったのか、ふくらはぎ外側が攣りそうになった。これまでか!と一瞬諦めかけたが、
『どうせ駄目なら走って終わろう!』と開き直り、それまでのゆっくり走を再開した。いくつかのカーブを曲がり
ながら坂を上る。ワッカを走り終えたランナーが逆方向から走ってくる。『まだ間に合うぞ!』と声を掛けられる。
係員から残り3分を告げられる。そして次のカーブを曲がった瞬間、前方に関門が見えてきた。不思議なこと
に足は動いてくれた。今は亡き、祖父母に願いが通じたのか、建長寺の絵馬の効果か、これが火事場の
ばか力というやつなのか、今年に入って1600kmという走りこみに耐えてくれた両足が最後の勝負どころで
踏ん張ってくれた。

関門にいる係員はこちらへ大袈裟なアクションで手招きして、『頑張れ!頑張れ!』と叫ぶ。
関門の先では、通過したランナーが休憩を取っている。ここさえ通過できれば、小休止できるんだ。そう思い、
最後の力を振り絞って、関門を駈けぬけた。 それは、制限時間の1分59秒前だった。嬉しかった。諦めの
気持ちに負けなかったという事に満足していた。燃え尽きたような感覚さえあった。これでワッカへ足を踏み
入れられる。残り20kmあるなんて事は頭の中から消え去った。

第7章:睡魔との戦い(80キロ〜90km)
レース前の予想で、最大の難関と考えていた80km地点を通過できた事で、精神的にはかなり満たさ
れていた。しかしこの20kmを走りつづけた事で肉体的なダメージはピークを迎えていた。立ち止まっ
て、膝に手を当て、肩で息する。こんな状態が何分か続いた。

関門を通過してしばらくは林道を走る。向かい側からは、ゴールまで残り3kmをきったランナーが走ってくる。
その顔は、もう笑顔に包まれている。彼らはもうすぐレースを終える。しかしながら、私には残り20kmの長い
道のりが待っている。夢見ごこちの世界から、突然、現実に引き戻された。こんなところで、満足している
場合ではない。少しでも前へ進まなければいけない。いくら、余裕ができたと言っても、1時間32分弱だ。
歩きつづけて間に合うほどの余裕はない。ゆっくりと走り始めた。

林の中のコースを抜けると、突然視界が開けてきた。左手にサロマ湖、右手にオホーツク海。眼下に
広がるワッカ原生花園。残念ながら今年は1週前に霜が降りたせいで例年より、咲いている花の数は少な
かったようだが、それでも、ここまで走ってきて良かった。ビデオでしか見ていなかった光景が今、目の前に
広がっている。潮風も心地良い。出来る事なら、その辺に寝転びたい心境だった。ワッカ原生花園に入って
からは、小さなアップダウンがいくつかある。上り坂は歩いて、下り坂と平らなところは走る。しんどいな!
と思ったら歩き、走れそうだな!と感じたら走り出す。そんな事を繰り返していたら、突然、睡魔に襲われた。

走っている時は何とか持ち堪えられるのだが、歩き出すと、スゥーと意識が遠ざかる。道の中央を走っている
と思っていたのに、気がつくと道路の端に寄っている。ほっぺたを叩いたり、サングラスを外したり、色々やって
みたが、効果は無かった。そんなウトウト状態でMAMORUさんとすれ違った。少し離れたところから手をあげて
走ってきたランナーがいたので、誰だろうなー?と思っていたらMAMORUさんだった。ハイタッチをして一瞬目が
さめたが、直にまた眠くなった。レース後に聞いた話しでは、MAMORUさんも途中眠くなり、10分以上道端で
眠ったそうだ。その甲斐あってか、この時は快調な様子で走り去っていった。結局MAMORUさんは、11時間18分
で完走。もう2度と100kmは走らないと語っていたが、果たしてどうかな?

私の場合、寝てしまっては、90kmの関門に引っ掛かってしまうので、寝るという選択肢はなかった。しかし、
どうにも耐えられなくて、腰を下ろして頬杖をついた。すると、スーと意識がなくなった。頭の中では、ランナーの
足音が聞こえていた。潮風がとても気持ち良かった。(気がする) 近づく足音、遠ざかる足音を繰り返し聞いて
いるうちに、ふと我に返った。『いかん!』このまま寝てしまっては、終わってしまう。鉛のように重くなった身体
に鞭打って立ち上がる。歩いているとまた眠くなるので、走り出した。すると前方にエイドステーションらしき
ものが見えてきた。

エイドでは、まず水をかぶって目を醒ます。さらに血糖値が下がっている可能性があるので、黒砂糖を口に入れ、
飴玉を3個ウエストポーチに仕舞いこんだ。さらにバナナ半分と缶詰ミカンを口にしてグレープフルーツジュースの
入ったコップを持ったまま、エイドを離れた。糖分を補給したのが良かったのか、水をかぶったのが良かったのか
は、分からないが、取り敢えず睡魔との戦いには勝てたようで、その後は眠くなる事は無かった。
やはり、血糖値が下がっていたのかな?その後も、順調に? 走りと歩きを繰り返す。時間的には、走り7割、歩き
3割くらいだっただろうか。そして、87km付近だったと思うが、キャップとすれ違った。ハイタッチは出来なかったが、
『ガンバレー』と声を掛けられ、一瞬気が紛れた。キャップは60kmを過ぎた辺りから気分が悪くなり、調子が落ちた
そうだが、80kmを過ぎてから復活していた。この時はゴールへ向かっている事もあり、元気そのものに見えた。
結局11時間50分で1ヶ月に100kmウルトラマラソン2度の完走に成功。サムズ・アップにあらたな伝説が生まれた。

キャップの快走とは裏腹に、私は苦しみの中に身を置いていた。そう、この辺りは、ゴールから物理的に遠ざかって
行くという状況が精神的に耐えがたかったのだ。早く折り返して、一歩一歩がゴールに近づくようになりたかった。
ワッカに入っていくランナーは鬼の形相。出て行くランナーは仏の表情というのは、これが原因なのかもしれない。

第7章:ワッカからの脱出(90km〜)
89km地点過ぎの折り返しを、制限時間の12分前に通過した。90kmの関門は越えられそうだ。となれば、もう
関門はないから、時間内完走を目指すのみ。折り返して、物理的にゴールに近づいていると言う状況が、
肩にのしかかっていた重荷を取り去ってくれた。90kmの関門は制限時間の5分30秒前に通過する事が出来た。
残りの10kmを1時間35分で走れば完走だ。これまでは、ワッカを走ることを楽しみにしていたが、ここから先は、
ワッカからの脱出が目標になる。折り返してから、しばらくすると、逆方向に走っていくランナーが殆どいなく
なった。80kmの関門をギリギリで通過しているので、自分の後ろにいるランナーは少ない。急に空も曇りだし、
風も冷たく感じ始めた。前後のランナーもパラパラで、さっきまで賑わっていたワッカ原生花園が寂しくなって
きた。そんな時、こちらへ向かってくるランナーがいた。ゆっくりではあるが確実に走っている。小柄な女性だった。
90km制限時間まで残り5分30秒。これから折り返してくるので、残り2km近くある。関門通過は絶望的な状況だ。
それでも折り返し地点目指して走っていた。何か声を掛けたかったが、掛ける言葉が思い浮かばなかった。
走る意欲は溢れているように見えた。しかしルール上、関門で引っ掛かり、レースを中止せざるを得ない事になる。
ちょっと無情な感じがしたが、競技である以上仕方の無い事なのかな。90km関門の横を89kmの折り返し目指
して走っていく彼女の姿を振返って見送った。

90kmを過ぎて、精神的な余裕が生まれ、周りの景色が良く見えるようになってきた。でもこの時間帯空が曇り
始めたこともあり、真っ青なサロマンブルーとはいかなかった。月見が浜で見たときは、真っ青だったが、あの時は
これを美しいとは感じられず、何か微妙なズレを感じた。エイドステーションでは相変わらず、大きな声が飛ぶ。
『頑張ってくださーい!』何度聞いてきた言葉だろう。これまではただ頷くだけだったが、心にゆとりができたせいか、
『有り難う!』と答える事ができるようになった。足の状態は相変わらず。最初から最後までピリッとせず、ここに
きて、また痙攣グセが始まった。残り僅かになってきたチタンローションを念入りに塗りこんで、応急処置を施す。
どこが痛いというのではないが、身体中が重く、足は上がらない。引きずるように前へ前へ一歩づつ足を運ぶ。
7分(約1km)走っては、3分間歩く。そんな繰り返しを何度か行っていたら、残り3kmという看板が見えてきた。
ワッカの出口に近づいてきたのだ。残り時間は30分以上あった。ワッカから脱出すれば、残りは2km。ゴールへ
向けての凱旋ロードの始まりだ。

第8章:栄光の?ゴール
何時間か前にギリギリで通過した80km関門を逆方向から過ぎると、下り坂が始まる。足に負担を掛けないよう
に、ゆっくり下りようとしてはいるのだが、気持ちが先走って前へ行ってしまう。坂を下り終えた時、また足が
攣った。攣ったというより攣る直前で止まったと言った方が正しいかもしれない。このレース始まってから何度
こんな事を繰り返してきただろう。その経験からあと1歩踏み出したら、攣ってしまうと言う境界線が分かるよう
になってきた。その1歩を踏み出さずに、止まれば、ストレッチ&ウォーキングで何とか回復できる。時間はまだ
あったのでここから先の1kmは歩く事に決めた。残り2km。最後の1kmは目いっぱい走りたかったので、ここで
は我慢することにした。歩きながらこれまでの事を思い出した。

抑え気味の滑りだしから始まった。ペースが上がるかと思ったら上がらず、逆に疲労が始まった。レストステー
ションを経て、さあこれからというところで、突然の痙攣。制限時間に追いかけられて崖っぷちに立たされた。
悔し涙も流した。(サングラスしてて良かった。)それでも、これまでの練習を考えたら、ここで終わるわけには
いかないと思い直して、奮起した。ゆっくりだけど走れた。応援に励まされた。ランナー同士励ましあった。
60km地点ではワッカへ足を踏み入れる事さえ叶わぬ夢に思えたのに、今、そのワッカを走り抜けてきた。
ゴールも目の前だ。数少なくなったランナーが、私の横を通り過ぎていく。掛け声は、『頑張ろう』ではなく
『おめでとう』に変わった。ボランティアの学生からも『おめでとうございます』の声が飛ぶ。もう自分との闘いは
終わった。距離は残り少なくなってしまったが、時間を気にせず安心して走れる。ようやくウルトラマラソンを楽し
む余裕が生まれてきた。声をかけてくれる人にお礼を言い、手をあげて合図をする。

残り1キロ、残り時間は15分。横を走っていた女性のランナーが『色々な人と友達になれて良かったねー』と知り
あいらしき人に声を掛けられていた。その女性は『うん、本当だよ。幸せだよ!!』と答えていた。フルマラソン
ではなかなか巡り会えない光景だと思う。制限時間ギリギリで修羅場をくぐり抜けてきたからこその言葉かも
しれない。思い通りに走れなかった100kmだったが、これは、これで良かったと思う。こういうドラマが自分には
用意されていたんだと思えば、それはそれで、納得がいく。
『諦めなければ、乗り越えられない試練なんてない』そんなことを教えられた100kmだったような気がした。
1600kmの練習も、禁酒も、禁ゴルフも、お墓参りも、きっとどこかで生きていた筈だ。だからこそ、戻ってくる事
ができたんだ。

ゴールとなる常呂町の町民センターが見えてきた。沿道にはキャップとK枝の姿が見える。K枝は相当ヒヤヒヤ
したと思う。こっちは走ることに夢中だったけど、見ているほうは何もできないのだから。ただGTメールで送られ
てくる情報を見て、制限時間との差を比べて、イライラ、ヒヤヒヤしてたんだなきっと。だからキャップがゴール
する時は涙が流れたのに、私の時には『頑張れー! 早く、早く』だった。『奇跡的だよー あー良かった。』と
半分照れ隠しで笑ってみせて、ゴールへと向かった。K枝は並走してきた。K枝のほうが速かった。仕方あるまい。
100kmも走ってきたんだから… 

『あのカーブを曲がるとゴールだよ』とK枝が言う。続けて『先回りしてゴールシーンをビデオで取るから』と言って
コースから消えた。カーブ手前には、トミーさんがカメラを構えていた。最後のカーブを曲がると、暖かい笑顔で
見守ってくれている人達が拍手で迎えてくれた。『1180番、金子尊博さん おめでとうございます』とアナウンス
された。感激した。残り100m足らず、足の痙攣など忘れて走った。ゴールを掛けぬける時、一本の指を立てた。
1回目の完走を意味する。あとでゴール写真を見たときに、何回目の完走写真か分かるようにしたのだ。 
終わった〜!! 身体中の力が抜けた気がした。全身の疲労状態はどうにもならなかったが、気持ちは
清々しかった。ゴールの瞬間、感動の涙は出なかったが、じわじわとあとから来そうな気がする。

第9章:サロマ湖100kmウルトラマラソンを振返って
とりあえず、完走できた事には満足している。あれだけ完走宣言をして、練習量を公開してきたの
だから、これで完走できなかったら立場がない。ヤッター!というよりホッとしたが正直な気持ち
だった。しかしながら気分爽快な内容かと言えば、それには程遠い。少なくとも制限時間に追いかけ
られるような事はないだろうと思っていたのに、半分近くは、そのプレッシャーとの戦いだった。
お汁粉を食べる事も出来なかったし… レース終了後、マッサージを受ける事も出来なかった。
まあ、完走できたのだから、贅沢は言えないが、来年の為に今思いつく反省点を書き綴って置こうと
思う。これを読んだ方にとって参考になるかどうかは分かりません。自分への戒めです。

まずは、調整過程。
1月〜3月まで確実に距離を稼ぎ足腰を鍛える。これは良かった。実際のところフルマラソンのタイム
も伸びていた。4月、5月で超長距離練習に取組んだ。これも良かったと思う。問題は6月の過ごし方。
疲労を抜くために、距離を落とし、さらにペースまで落としてしまった。20km以下の距離を6.5分/
km以下のスピードで走りつづけたために、このスピードを筋肉が覚えてしまった気がする。
5月の小金井公園や皇居を走ったときは無意識のニコニコペースは6分/kmだったのに、本番では
結局一度も、6.5分/kmを上回るペースで走れなかった。(走らなかった)
このために思うような貯金が作れず、その焦りが痙攣に繋がったとも考えられる?
だとしたら、超長距離練習はもう少し早めの時期に行い、5月後半から6月でもう一度足を作り直す
くらいの日程にしたほうが良かったのかな? また来年、頭を悩ませそうだ。

次に体調管理。
レース前は問題無かった。問題はスタートしてからだ。給水、給食、糖分摂取、塩分摂取、いずれも
遅れ気味だったような気がする。水分は2.5km毎にバケツ。5km毎にエイドがあるのだが、この日
のように暑いと、間に合わなくなってくる。しかも、バケツの水は何ヶ所か空だったし、置いて
あっても、とても飲めるような状態ではなかった所もあった。そう言う意味ではボトルポーチをつけ
て走ったほうが良かったかな? 迷ったんだが、今回は持たなかった。それから塩分。これは痙攣
してからでは遅い。やはり定期的に摂取しておけば、また違った結果がでていたかも…
糖分も同様。眠くなる前に摂らなければいけなかった。今回はいずれも症状が出てからの摂取だった
ので、計画通り行ったほうが良さそうだ。

最後に精神力。
今回の完走はこれに尽きる。殆ど無理!!という状況から、もう一度挑戦する意欲を取り戻して
ゴールを目指す事ができたのは、絶対に完走するんだ!という気持ちがあればこそだった。
完走しなければいけないような状況を作り出しておいたのは、成功だった。それから苦しくなった
時にノルか、ソルかは、止める理由を探すのか、走れる可能性を探るのかによって分かれてくると
思う。一度は止める理由を探した。気温が高いから… 制限時間に間に合いそうに無いから…
足が痙攣してしまったから… でもこれらは、走れる条件を探った時に全て消え去った。

気温が高いのは皆、同じ条件。自分が止めて完走率を下げたら、完走した人の評価を上げるだけで
自分にとっては何のプラスにもならない。 制限時間に間に合いそうに無いからというのは、まだ
間に合わないと決まった訳ではないのだから、止める理由にはならない。足が痙攣している人だって
周りに沢山いる。それでもみんな必至に前へ進んでいる。骨が折れたわけではない。痛みが我慢でき
ない訳でもない。やめる理由なんて見つからなかった。
それよりも、ワッカを見たい。完走したい。こんなところで終われない。って気持ちの方が遥かに
強かった。今回はたまたま、ギリギリで関門を通過できたけど、たとえ関門で引っ掛かっていても
目一杯もがいた上での事だったら、それで納得していたかもしれない。ただひとつ言える事は、
完走しようという強い意思を持たなければ、完走は出来なかったと言う事だ。キャップもMAMORU
さんも一度はリタイヤを真剣に考えたと言う。それでも完走したのは、完走するという強い意思が
あったからこその事だと思う。

第10章:最後に…
ウルトラマラソンの翌日は、網走監獄、監獄博物館、摩周湖などを観光した。足を引きづって歩いている
観光客が数多くいた。ウルトラマラソンを走ると言う事はそれだけ多くのダメージを残す訳で、過酷な競技
であるという事を認識しなければいけない。あれから4日目。幸いにも筋肉痛は消え去った。関節などに
変な痛みもない。疲労は体の奥深くに潜んでいるのかもしれないが、表面上は回復したと言える。
この半年で作り上げてきた筋肉は、レース中は大きな成果を残さなかったかもしれないが、膝や足首などを、
しっかりと守るという最も重要な役割を果たしてくれたようだ。筋肉痛が消えて行くのと共に、2002年の
サロマ湖100kmウルトラマラソンが終わったというのを実感するここ数日。関東では、まだ梅雨が明けず、
ぐずついた毎日が続いているが、ここ数日の心の中は、レース翌日に見た摩周湖のように青く澄み、
何だか気持ちが悪いくらいに、すがすがしい。今なら、足を踏まれても許せそう? そんな心境だ。

ウルトラマラソンの出場を他人に勧めようとは、思わない。何故なら、その苦しさを味わってしまったから。
でも私は来年も、ウルトラマラソンに出場する。何故なら、その素晴らしさを味わってしまったからだ。

苦しくて、苦しくて、苦しくて、ちょっとだけ楽しくて、でもやっぱり苦しくて、それでも走りつづけたら、最後
には、大きな御褒美が待っている。ウルトラマラソンはそんな共走だった。

                                            完


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