その人工スキー場は八樹が思っていたより広かった。室内の割に小さなゲレンデ一つ分ほどの広さがある。
「もし人類が滅びたら、この建物の目的だけはわかんないだろうね」
そのころには雪も作れなくなっていて、建物の中に大きな坂があるだけ。坂の入り口にレストランなどの施設があつまってはいるが、だからわかるというものでもないだろう。
「くだんねーこと言ってねぇでさっさと選べ」
「ボードってどう選ぶの?」
「てめぇ……。まさか」
「うん。スキーとスノボの時間が分かれてるって知らなかったから…ごめんね」
一応わざとではない。でも半屋が自分に対して怒ったり呆れたりするのを見たくなかったのかと言われれば、それは自分でもわからない。
(そんなものにも飢えてたのかなぁ、俺)
飢えてたのかもしれない。
今も半屋が「そういうことは券を買う前に言え」などといいながらも、初心者用の板を選んでいるが、(どうやら『初心者用』を選ぶことに半屋なりの悪意が込められているらしいのだが、実際に八樹は初心者なのだから、単なる親切と言うべきだろう)その悪態やピントのずれた悪意がひどく懐かしい。
※ ※ ※
半屋の選んだボードを持って、少し横幅が大きめのレンタルウエアを着て、八樹はゲレンデに出た。マイナス二度に保たれた室内は、風がないとはいえやはり寒い。
しかし八樹がまず気がついたのはその寒さよりも、リフトが二人乗りであるという事実だった。
(今日の目標はとりあえず少しはできるようになって、半屋君と二人であれにのることだな)
八樹はリフトを見つめた。その終点が上級コースであることを彼はまだ知らない。
(スノーボードは簡単だっていうし、一応俺には運動神経があるんだし、たぶん大丈夫)
半屋は八樹を無視してさっさとリフトへ向かっている。
「もし半屋君が降りてくるまでに滑れるようになってたら、一緒に滑ってくれる?」
「滑れるようになってたら、な」
いかにもバカにしたような言葉を残して半屋はリフトに向かう。こんなことでめげていたら半屋とはつきあえない。とにかく練習あるのみだ。
ところがスノーボードは怖かった。とりあえずまずは転べるようにならなくてはいけない。しかしバランスのとりかたがよくわからず、かなり怖い。
それでも斜面に移動し、どうにか見よう見まねで転んでみる。うまく転べれば、いきなり上級コースにいってもどうにかならないことはない。
たった一人で前へ後ろへ転んでいる八樹はかなり注目を集めていたが、それにもかまわず『半屋君とリフト』のために転び続けた。しかしずっと転んでいるわけにもいかない。半屋が降りてくるまでにわずかでも滑れるようにならなくては。
「なにしてんだ、てめぇは」
しかし予想外に早く半屋が降りてきた。
「…半屋君、上まで行った?」
「行ってねぇ」
「ずるいよ、それは」
「滑れるようになったのか?」
「……なってないよ」
半屋は鼻で笑って、スノボ教室の受付を指さした。今は半屋とデート中なのだ(どうもずれている気もするが)誰が教室などに入るものか。
「半屋君、次はちゃんと上まで行ってよ」
「誰が行くかバカ」
そう言って半屋は去っていき、八樹はまた独習を始めた。
半屋はすぐに帰ってくる。売り言葉に買い言葉みたいなものだったが、つまりまたすぐに八樹の元に戻ってくるということだ。
(けっこうラブラブっぽいよねー)
半屋がそう思っているかどうかは別にして。
次に半屋が帰ってきたときには、八樹は後ろ足でこぐことはできるようになっていた。しかしまだ両足を乗せて滑る段階には踏み出せない。
「で?」
「滑れてるよね、俺」
半屋の目は冷たい。しかも。
「……っっっっっ!! …ひどいよ、半屋君!」
後ろから容赦なく蹴飛ばされた。八樹は滑り、転んだ。
次に半屋が来たときには『へっぴり腰』と言われ、それをなかなか直せないでいるとまた蹴飛ばされた。
そんなことを繰り返しているうちに、八樹は徐々に滑れるようになっていった。
「半屋君、リフトのろう。リフト」
その八樹の言葉になんの抵抗もなくついてきたと思った半屋はさっさと上級行きの二人乗りのリフトに乗り、八樹は初級用の妙なエスカレーターのようなものに乗らされた。
半屋が上から降りてくるのと八樹が下のゲレンデを下るのがだいたい同じくらいだったので、何回か一緒に滑った。
結局、二人乗りリフトに乗ることはできなかったが、それはまた別の機会にすればいいだけの話。
免許を取ればどこだって行き放題だ。温泉付きのスキー場だって。
そうだその前に神田のスキーショップにつきあってもらおう。しかもどうやら半屋にはスキーの経験がないようだ。今日、教えてもらった(?)かわりに今度は八樹がスキーを教えることだってできる。ああ、なんてバラ色の人生。
レンタルした服や道具を返しながら、八樹は今日これからを考えていた。
今日は楽しいデートだった。しかもここは半屋君の家のそば。もしかしたら久しぶりに半屋君の家に行けるかもしれない。
古くってしっかりとした作りの半屋のアパート。飾りっ気の全くない部屋。そして二人では狭すぎるパイプベッド。二人用の広いベッドより、あのベッドが懐かしい。
しかし、ザウスから出ても半屋からは『帰るか』というあの言葉は出なかった。八樹は小さくため息をついた。どうも色々望みすぎていけない。
西船橋の駅で八樹はJR、半屋は地下鉄に分かれる。
「じゃ、また来週…かな」
ホントはもっともっとあいたいんだけど。それは言わないでおくことにした。
「しばらく会わねぇ」
「え?!」
八樹は気がつくと半屋に詰め寄っていた。
「まさか別れるってことじゃないよね」
やばい。そう思ったときにはもう口から滑り落ちた後だった。
結局、近頃抱えてた不安の源はそこで―――八樹はそんなことは絶対にありえないと思えるほど自分に自信があるわけではない。
それに……半屋は近頃ずっとおかしかった。今日、ようやく半屋らしい半屋と会えた気がするのに。
「そう思いたいなら勝手に思ってろ」
半屋は吐き捨てるようにそう言うと、東西線のホームに消えていった。
怒ってくれてよかった―――とは思うが、問題はそんなことではない。
(……かなりまずい)
かなりまずいのだが、何も打つ手はない。
たぶん半屋は八樹と別れるなんてことを考えたこともなかったのだ。今、考え直してみればわかるのだが、だから『しばらく会わない』ですむと思っていたのだろう。
なのに、八樹がそれを考えさせてしまった。そして、八樹が不安を感じていたこともたぶんバレた。
(―――最悪)
しかし半屋と会うことはできない。
どよどよした気持ちのまま、時間はゆっくりと進んでいった。
その間に街はますますバレンタインになっていったが、八樹はそれに気づかなかった。
半屋から連絡などあるわけもなく(八樹の携帯には半屋専用の着メロが設定されているが、それが鳴ったことは一度もない)どよどよしたまま二週間がすぎた。
そして2月14日。うかつなことに八樹は学校に行くまでその日のことを忘れていた。
去年、きちんとチョコレートを受け取ってしまったせいで、八樹は女性の猛攻撃にあった。練習中、ひたすら呼び出され、ほとんど練習にならなかった。
家に帰ると、食卓の上に荷物が乗っていた。日付指定の宅配便。差出人は―――半屋工。
(まて―――おちつこう)
品目は食品。やばい。これはやばい。あまり変なことを考えると、間違っていたときの反動が大きい。とりあえずその袋を振ってみる。箱らしきものが入っているような軽い音。
(まずい―――他に考えられない)
だめだ。気を落ち着かせて。なにか別なことを考えよう。去年あんなのだったのに、よりによって今年、しかも日付指定でくるわけない。
どんなに否定的な想像をしてみようとしても、まったく浮かんでこない。
ほとんど転がるように部屋に帰って、深呼吸をしてからその袋を開けた。
中に入っていたのは、北海道のみやげでよくもらうチョコクッキー。
(実は北海道に行ってました、っていうオチじゃないよね)
そうじゃない。きっとバレンタインのチョコレートを買うのがいやだっただけだろう。この時期、バレンタイン以外のチョコなんてほとんどない。つまり、本当に半屋が買ったものなのだ。
(どうせなら『白い恋人』のほうが半屋君みたいな感じでよかったよなー)
八樹はパニックになった頭のまま、わけのわからないことを考えた。
そのチョコクッキーを食べることができないまま何日かすぎた。
いい加減食べよう、と決意したとき。
鳴るはずのない半屋専用の着メロが鳴った。
つづく
ようやくバレンタインになりました。相変わらず長いし(笑)
あと少しです。おつきあいをよろしくお願いします。
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