半屋はグランド脇の水道場で顔を洗っていた。水道の蛇口が5つほど並んでいる水道場だ。競技時間が長かったせいでほとんどの生徒は帰宅しており、周りには誰もいなかった。 梧桐に油性マジックで書かれた顔の落書きは、なかなかとれない。腹立ち紛れに、生徒会の外人に渡された高級そうな洗顔フォームをガンガン使った。 顔を洗い終えると、ちょうど良い高さにタオルが差し出されていた。ほんの少し頭を下げて、ありがたく使わせてもらう。背が高そうな気配だったが、どうせ生徒会の外人だろうと思った。 ところが、そのタオルはあの外人が持ってそうもない普通のスポーツタオルだった。半屋は少し違和感を覚えたが、とにかく顔を拭きたかった。 顔を拭き終えて、目を開く。そこでようやく、隣に立っていたのが八樹だということに気づいた。 八樹とあったのは今日で三度目になる。本来は見つけだして病院送りにしてやろうと思っていた相手だった。しかしそれは全て梧桐にやられてしまった。
しかもようやく見つけたと思ったら、協力して敵を倒す羽目になった。今回などは、同じチームに入れられた。 借りたタオルの礼を言うのも、「礼は言わない」などと捨てゼリフを言うのもイヤで、半屋は無言で八樹をにらみつけ、タオルを返そうとした。 「まだマジックの跡、残ってるよ」 半屋のまぶたを指さしながら、八樹は半屋にタオルを握らせた。
ついさっきまで寝ていたから、まだ体がだるい。もう一度顔を洗い直すのが面倒になって、半屋は水道場のへりに腰を下ろし、タバコに火をつけた。 すると、さも当然という顔をして、八樹が隣に座る。タオルを握らされているから、追い返すわけにもいかない。 「おまえ、エアホッケーどうして負けたんだ?」 半屋は別に八樹と口を利きたくはなかったが、さっきから疑問に思っていたので聞いてみた。 「そうか、半屋君見てないんだっけ?」 決勝戦で梧桐に負けたという男はそれほど強そうに見えなかった。本来なら八樹が負ける相手ではないように思う。 「自滅、かな?」 八樹は少し躊躇してから言った。 「あァ?」 「だから自滅したんだよ。俺は」 「てめぇがか?」 「俺のこと認めてくれてるんだ? うれしいな」 どうもこの男は話しづらい。まだ体はだるいし、かったるいが、さっさともう一度顔を洗って、このタオルを返した方がいいだろう。半屋は投げ捨てたタバコを踏みつぶして、立ち上がろうとした。しかし、やっぱりだるくて、立ち上がれない。 「だからさ、今度エアホッケーやりに行かない?」 「はァ? なに寝ぼけたこといってんだ、てめぇ」 八樹はいつの間にか立ち上がって、半屋の前に立っていた。高い位置にある八樹の表情は、ちょうど影になっていて見えない。 「俺もこのままじゃなんだか収まりつかないし。半屋君も結局エアホッケーできなかったよね?」 「だからって、てめぇと行く義理はねぇな」 一体、この男はなにを考えているのだろう? 半屋が「敵」である八樹と仲良くエアホッケーをしに行くとでも思っているのだろうか。 「だって、俺、エアホッケーが置いてあるところわからないし。それに、行くんなら、手応えのある人と行かないと意味がない」 上の方で八樹が笑った気配がした。きっとあの性格の悪い、挑発するような笑みを浮かべているのだろう、と半屋は思った。 そして、一瞬だけ、「手応えのある奴」とするゲームはおもしろいかもしれない、と思った。今日一日、妙なゲームに振り回されていたせいだろうけど。 「じゃあ、土曜の三時に××駅の改札でね。そのタオルはそのときに返してくれればいいから」 「ちょっ、待て! コラ」 八樹が待つわけもなく、あっという間に見えなくなった。半屋の手にはなんの変哲もない、わざわざ後日返す必要もなさそうなスポーツタオルが残された。しかし、あの男に借りを作るのもしゃくに障る。
鏡を見てみると、高級な洗顔フォームの威力はさすがのもので、八樹が言うようなマジックの跡なんてどこにも残っていなかった。 「なんなんだ。あいつは」 半屋は残されたスポーツタオルを握りしめながら、八樹が去っていった方角を見つめていた。 |