| 大学に入ってしまえば、明稜高校の四天王なんて名前に意味はなくなる。普通に生きている分には喧嘩は早々起こらないし、腹の立つ大人なんていうのもいない。 ただ平穏に時間は過ぎていく。たぶんこのまま一生、平穏に生きていく。 気がつけば八樹はそういうポジションに落ち着いていた。 「料理作るから、今度うちに遊びに来て」 大学に入ってから、なんとなくつきあい始めた女は、顔も良ければ性格もよく、きちんと育てられていて体もいい、なんの文句も付けようのがない女だった。 「そう? 楽しみだな」 八樹は微笑みながら言った。 女は自宅から通っている。家に遊びに行けば自然に両親と対面する羽目になる。その打算が一瞬女を醜く見せた。 こうして日々は過ぎていく。 一流大学を優秀な成績で卒業し、一流の会社の優秀な社員になる。レベルの高い女と結婚し、落ち着ける家庭を築き、優秀な子供が産まれる。たぶんそうやって生きていく。 そんな自分が嫌いなわけではない。嫌いなわけではないのだけれど。 大きく息を吐いてから、八樹はコンビニに向かった。女はまだ授業があるといって、去っていった。 コンビニでジュースを何本か買う。こういう気分の時はなぜだか半屋の顔が見たくなるのだ。 八樹と半屋は高校時代に取り立てて仲が良かったわけではない。梧桐とのからみで何度も行動をともにしたが、決してうち解けることはなかった。よく会っていた割に、会話らしい会話をした記憶もない。 明稜高校を卒業するまで、八樹は自分が半屋に会いに行くなんてことを考えたこともなかった。卒業して進路が分かれてそれで終わり。風の噂で何をしているのかを聞くことがあっても、それ以上の関わりはないだろうと思っていた。 それなのに。 半屋のそばにいると楽に呼吸ができる気がする。何も取り繕わず、自分のままでいられる。だから今日も、差し入れのジュースを買って、八樹は半屋に会いに行く。 八樹はいつも他人が自分を見る目を気にしながら生きてきた。他人の思うとおりの自分であることはひどく簡単なことで、普段は演じている自分を自覚することも少ない。 しかし、大学に入ると人間関係も自分を取り巻く状況も変わる。自分の本性を知るものがほとんどいない大学に入った八樹は、気がつくと「やさしくて優秀な八樹宗長」という枠から抜け出せなくなっていた。きっとこのままでは一生その枠から抜け出せない。 確かにこれは自分が選んできた道かもしれない。しかし、時々その枠に押しつぶされそうになる自分を八樹は感じていた。 ある日、ひどくそれが苦しくなって、急に半屋に会いたくなった。一体自分が何をしているのか深く考えることもできずに、ふらふらと梧桐に半屋の修業先を聞きに行き、そのままの足でふらふらと半屋に会いに行った。 そうして半屋に会って、ようやく八樹は自分がなぜ半屋に会いたくなったのかに気づいた。 自然体でいられた高校時代。一番自然でいられたのは半屋のそばにいるときだった。他人の目を気にする八樹には、自分になんの期待もしない半屋が一番楽な相手だった。よく意味もなく半屋をからかっていたように思う。そんな自分に気がついてはいなかったけれど。 半屋は代々続く宮大工の家の出身なんだと、八樹は梧桐に教えられるまで知らなかった。半屋のことなど興味がなかった。そんなことだけを聞くために梧桐に会いに行く日が来るなど思っていなかった。 大工は大体10時と3時に休憩をとる。半屋に会いに来るようになって、八樹は初めてそのことを知った。 「おー、にいちゃん、いつも悪いねえ。工ならいつものところで休んでるから、会いに行ってやってくれや」 差し入れのジュースを渡すと、半屋の先輩に当たる大工が、人の良さそうな顔で笑った。 半屋はいつも路地裏に置かれたビールケースに座ってタバコを吸っていた。その路地裏は静かで、半屋が高校時代いつもいた石灰置き場を思い出させる。 「もう二度とくんな、と言ったはずだな」 八樹の影を認めたとたん、半屋は冷たい声でそう言った。 就職してから半屋は少し落ち着いたようだ。以前のようにむやみに構えることはなくなった。落ち着いてしまっても、冷たい声でも、半屋と話すと呼吸が楽になる。自分というものが本当に存在する、と思うことができる。 「うん。聞いた気はするけど」 そう言いながら近づいて、八樹は半屋の為に買った無糖の紅茶を差し出した。 高校時代、半屋が飲み物を飲んでいるところを何回か見たことがある。しかし、何を飲んでいたか、全く思い出せない。ほとんど関心がなかったからだ。 彼が無糖の紅茶を好んで飲む、と知ったのは、こうやって会いにくるようになってからだ。しかし、八樹が差し出した紅茶を半屋は受け取ろうとしなかった。 「帰れ。二度とココにくんな」 半屋は八樹を見ようともしない。 初めて八樹が半屋の仕事場に会いに来たときは、不審な顔をされたが「帰れ」とまでは言われなかった。それから何回も会いに来て、飲み物の好みも分かって、別に話が弾むわけではなかったが、拒絶はされなかった。 それなのに、前回会いに来たとき、突然「もう二度と会いにくるな」と言われた。 なにか機嫌を損ねることを言っただろうかと考えても、全く思い出せない。そのときは言われるままに素直に帰った。 多分、たいしたことではなく、もう一度くる頃には忘れているのではないかと思っていたのだが、どうもそうではなかったらしい。 「何で? 急にそんなこと言われてもわかんないよ」 八樹は行き場を失った紅茶を半屋の膝の上に放り投げた。半屋は驚いたらしく、反射的に八樹を見上げた。ようやく視線が合う。 「てめぇは梧桐のダチだろう」 半屋は一度合った視線を、もう一度そらすことはしなかった。その色素の薄い茶色の瞳が奇妙に揺れていて、それが半屋の本心ではないことはすぐに分かる。どうやら嘘をつくのは苦手らしい。 「まぁ、そうじゃないわけじゃないけど。何か関係あるの?」 八樹は本題に入ろうとしない半屋にいらだった。そんなわけの分からない理由でもう会わないなんて言われたくない。 「別にダチになった覚えはねぇし、うざってーんだよ」 半屋は視線をそらして吐き捨てた。 「だから、何か関係あるの? それ」 会いに来たのが前回で二回目だったとしたら、その理由でも理解できただろう。しかし八樹はもう今日が何回目なのかも覚えていないくらい会いに来ている。そんな理由では納得できない。 それに、高校時代でも今でも半屋は八樹に無関心のようではあったが、決してうるさがってはいなかった。半屋は彼に臆さずに接する人間に弱い。そして嫌いな人間に容赦がない。だから、別に会話が弾むわけではないが、隣に座って話をしても拒絶されなかった自分は、嫌われてはいないはずだと八樹は思っていたのだが。 自分の捨てゼリフに引かないばかりか、強い口調で聞き返した八樹に、半屋は黙り込んで、タバコに火をつけた。 八樹は立ったままそれを見つめていた。たぶん、うざったいというのも、友人じゃないから会わないというのも嘘だ。何か別に理由があるはずだ。理由を聞いたからって会わないようにしようとは思わないだろうが、半屋の本心は聞いておきたかった。 半屋はタバコを少し吸っただけでタバコをもみ消した。そして、 「てめぇはハンパなんだよ」 と、いらだったようにつぶやいた。 ルミナス2へ |