人造人魚
人造人魚





「久しぶり、半屋君」
 いきなり街で呼び止められ、有無を言わずに部屋まで連れてこられる。
 高校時代、まったく親しくした記憶もない相手は、それが当たり前であるかのように半屋を部屋に招いた。
 その男に会うのは高校の卒業式以来で、もう三年も会っていなかったことになる。久しぶりではあったが、懐かしいという気にはならない。この三年、まったく思い出さなかった訳ではなく―――…その男は半屋が予想していた通りの状態でそこにいた。予想していた?そうだ、たぶん自分は理解していた。三年会わずにいても。

 まったく笑っていない闇色の瞳で、口元だけ笑みを作って、八樹は半屋に声をかけてきた。
 高校時代には確かに存在したはずのわずかな人間らしさもかさかさにすり減って、なんの希望もなく疲れ果てて、それでも口は笑みをたたえている。たぶん他の人間は、それでもその笑みにだまされるのだろう。
 それは半屋の予想と寸分違わぬ八樹の姿だった。

 きっと八樹にとっても今の半屋は思ったとおりの姿なのだろう―――間接照明だけのリビングのソファにもたれかかり、半屋は知らず息を吐いた。まだタバコを吸うことはできない。八樹が灰皿を買いに行ってしまったからだ。
『あ、灰皿買ってくるよ』
『この缶でいい』
『買ってくるから待ってて。いいね?』
 言葉と態度だけで半屋の意思を押さえつけるのは相変わらずだった。そうやって、八樹は他の人間とは少し異なっていた。ろくな会話も交わした記憶はなかったが。

 明かりを押さえたリビングルームには水槽があり、そこからの白い光がまわりの床を冷たく浮き上がらせていた。水槽の中には、ただ光に反応して動くだけの人工のクラゲが泳いでいる。むやみに値のはるそれを買う人間なんているのかと半屋は思っていたが、今の八樹なら買うだろうと思えた。

 暗いリビングルームに浮き上がる人工のクラゲ。たぶん誰も他人が来たことのない八樹の部屋。まったく会っていなくても今のお互いの姿は理解できていた。

 太陽を挟んだ反対側に地球とそっくりな惑星があり、そこには自分とまったく同じ姿の人間が住んでいる―――そういう話を聞いたことがあった。もしそれが本当だとすれば、それは八樹の姿をしているだろうと半屋は思う。
 梧桐を挟んで反対側に八樹はいつでも存在していた。親しくなくても会っていなくても、八樹を理解できなくなることはありえない。


 コンビニで売っていたらしいどうでもいい灰皿と酒を買って、八樹が戻ってきた。
「もう三年か―――でも君が生きてて良かったよ。死んでるかもしれないって思ってたから」
「…」
「違う?」
 死にたいと思ったことはないが、生きていたいと思ったこともない。もしトラックでもつっこんできたら、避けることはしないだろう。半屋は肯定も否定もせずに真新しい灰皿に灰を落とした。
 ほとんど会話のないまま酒を飲んでしばらくして
「なにしてるんだろうね。元気なのかな」
 と、八樹は軽くなんでもないことのように言った。実際なんでもないことなのだ。半屋自身、三年間一度も思い出したことはない。でも、抜かれた主語が誰を指しているのか…それは言うまでもないことだった。

 高校卒業と同時にブラジルに渡った梧桐。その存在を半屋は一度も思い出したことはないし、たぶん八樹もそうだろう。しかしかさかさに乾き果て、明かりの少ない部屋に暮らしている。

 二本目のタバコを真新しい灰皿に押しつけて半屋は立ち上がった。
 挨拶もなく帰り支度を始める半屋に八樹は驚く様子もない。
「半屋君」
 反射的に見てしまった八樹の瞳の色は深く、八樹の感情がなにもわからないような、すべてわかるような感覚を覚える。
「ムダだったな」
 今見たものを否定したくなって、半屋は新しい灰皿を指して八樹を嘲笑した。
「そんなことはないよ」
 八樹はそう言いながらポケットを探り、小さな金属片を半屋に手渡した。
「場所はわかったよね」
 どうやら灰皿を買いに行くというのは口実だったらしい。何の傷も付いてない、作られたばかりの鍵だった。
「いらねぇ」
「行く場所がないならおいで。一人で待つよりは楽だと思うよ」
「待ってねーよ」
「そうだね。俺も待ってなんかないよ」
 そう言った八樹の瞳の色に、半屋はその鍵を返すきっかけを失った。
「二度とこねぇよ」
「待ってるよ」
 それだけ言うと八樹はリビングへと引き返していった。

 弾いた鍵に街灯の白い灯りが反射して、今出てきたばかりの八樹の部屋を思い出す。
 もしこのまま梧桐が帰ってこなければ、八樹はあの暗い部屋で人工のものだけに囲まれて、誰にも気づかれず静かに朽ちてゆくのだろう。
 
 半屋は再び弾いた鍵を空中で掴んで、今来た道を引き返した。


小説トップへ
ワイヤーフレーム トップページへ