ネオテニー6





 あおいあおい そら
 ひろいひろい うみ
 
 一年生の国語の教科書はそんな文から始まっていた。八樹に読ませると、よどみなく読んだが、それだけだった。

 梧桐が無理矢理押しつけていった一年生の教科書は、どれもこれもあまりに簡単すぎて、逆に何をどう教えれば良いのかまるで見当がつかない代物だった。
「海、見たことあるか?」
 仕方がないのでそう尋ねる。
「ない」
 『べんきょう』の時は八樹も話をした。なんの感情もこもらない義務的な話し方だった。
「行くか?」
「別にいい」
 八樹は早くページをめくり、次の文に進みたそうにしている。
 ひらがなには自信があるらしい八樹を次の文に進ませるのは簡単だが、そうしてはいけないような気がした。
 もう一度同じページを読ませると、八樹は少し不服そうに、それでもよどみなく読んだ。
 
 あおいあおい そら
 ひろいひろい うみ
 
 機械的な読み方でそのまま次のページ、次のページと勝手にめくって読んでいる八樹に、先を読むなと言うと、なにが悪いんだという鋭い目で睨まれた。半屋はそれを無視して、その教科書を取り上げた。

◇   ◇   ◇



 明日から始める仕事の打ち合わせがある半屋は、とりあえずカタカナの書き取りと計算ドリルを八樹にやらせておくことにした。
「それが終わったらテレビでも見てろ」
「…」
 八樹はあの公園に行きたいのだろう。抜け出して遊びにいくほどの覇気があれば、勝手にすればいいと思うのだが、そうでない限り当分は行かせる気がしない。


 打ち合わせから帰ると、八樹はまだ書き取りと計算ドリルをしていた。八樹が勝手に進めた二けたの足し算は、一見すべて合っていたが、子供特有の筆圧で、間違えたあとがしっかりと残っている。間違えた分をすべて消して、答えを写したのだろう。
 半屋は小さく息をついた。
 八樹はおとなしく、放っておいてもなんの問題もなさそうな子供だが、実際はかなり手間のかかる気がする。半屋は子供を育てた経験も、子供を育てようと思ったこともないからわからないが、他の子供よりもやっかいなのではないかと思う。

◇   ◇   ◇



 次の日、家の近くの大通りで八樹を拾った。
「…どこにいくの?」
 聞き取りにくい声で八樹がつぶやく。
「いいから乗れ」
 長距離トラックの車内はそれなりに広く、運転席の後ろは簡易ベッドになっている。
「疲れたら後ろで寝てろ」
「疲れてない」
 そう言って八樹は器用にシートベルトを締めた。
 

 八樹は窓の外をじっと見つめている。
 大きな河や山が見えるたびに、わかる限りでその名前を伝えてはいたが、それ以外の話は一切していないし、八樹からなにかを言ってくることもない。
 しかし、名を教えたその河や山をじっと見つめてはいた。

 高速をおり、国道を走る。時々海が見え始めていた。
半屋は国道をしばらく走り、長距離トラックを止められる駐車場にトラックを止めた。
 手で降りろと伝えると、八樹は不審そうに降りてきた。
 そこは海が見渡せる見晴らし台だった。
 タバコに火をつけ、海の良く見える場所に八樹を連れてゆく。
 冬の、板のような青空が広がっていた。遠く水平線はわずかに歪んでいる。
 半屋は何も言わず、タバコを吸っていた。
「うみ、広いね」
「ああ」
「そらも青いね」
「そうだな」
 タバコを二本吸い終わるまで二人はそこにいた。
 トラックに戻ると八樹は国語の教科書を取り出して読み、夜になると自分で簡易ベッドに横になった。



 






小説トップへ
ワイヤーフレーム トップページへ