入学式の朝、邪魔にならないタイミングで兄貴から電話があった。
『裕太、入学おめでとう』
「ああ」
あれから兄貴は海外にトレーニングに出かけ、話すのは二週間ぶりだった。
『今日はスーツ? 見たかったのに残念だな』
いつもとまるで変わらない会話。そういえば昔からこんなことばかり言っていた。体をつなげていた頃は、こういう言葉に何らかの意味があるのかと思っていた。別に何もなかったのだ。
適当に相づちを打ってすぐに切る。
「裕太、周助どうだって?」
「元気にしてるって言ってた」
「まったく、いつも裕太にしか電話しないんだから。あら?裕太、何かあったの?」
「何もねぇよ」
こうやってまるで変わらない日常に、俺はまだ慣れていなかった。相変わらず迷惑な兄がいて、兄弟の仲がいいと決めつける姉がいて、その中で自分がどう会話をしたらいいのかがよく掴めない。
「何か変ね。あんたまた周助とケンカしたの?」
「してねぇって」
「そうよね、大学生にもなって兄弟ゲンカもないわよね」
姉はそのまま話をかえ、大学に入ったらサークルに入らなきゃダメよなどと言い出したので、俺はすぐに兄貴のことを忘れた。
※ ※ ※
退屈な入学式が終わり、色々手続を済ませると、サークルの勧誘がどっと押し寄せてくる。
俺はその中をすり抜けて、観月さんとの待ち合わせ場所へ向かった。
「裕太君久しぶりですね。どうでした、入学式は。退屈だったでしょう」
観月さんの大学を受けると言ったとき、俺が肩を壊したのは観月さんのせいだと思っている兄貴はものすごく反対した。
母や姉は少し高望みのその大学を受けることに大賛成だったし、観月さんとは学部が違い、同じ校舎にいるのは一年間だけだと知った兄貴も最後には応援してくれた。
『別に観月の大学に行くことを認めたわけじゃないからね』
兄貴はそう念を押した。他のことは達観しているのに、観月さんのことになるとムキになる兄貴を見るのは嫌いじゃなかった。
俺が肩を壊してしまったのは俺自身のせいで、観月さんのせいではない。何度そう言っても、兄貴は『やっぱり観月のところになんか行かすんじゃなかった』と怒る。そうやって兄貴面しているのが妙に子供っぽかった。
「………と、このあたりの授業が僕のお薦めです」
「ありがとうございます」
どうにか許せるレベルなのだという喫茶店で、観月さんは時折独特の含み笑いを浮かべながら、優雅に紅茶を飲んでいた。
「学部が違いますから、僕が君の役に立てるのも今だけです」
「そういえば、観月さん。サークルってどうすればいいんでしょう」
「うちの大学にはテニスのサークルが何十とありましてね、学内トーナメントも行われます。他の大学との対抗戦もありますから、結構知った顔に会いますよ。まあテニスをしなくても良く見かける顔もありますけどね」
観月さんはあの跡部さんと同じ学科なのだそうで、始終見かけて不愉快だと言った。跡部のラテン語はひどいものですなどと言っているので、きっと授業も同じなのだろう。でも口で言うほど嫌っているようには見えない。俺の兄貴に対してもそうだった。
「裕太君は少し気を付けた方がいいですね」
「何をですか?」
「テニスサークルの女性は、テニスが巧くて顔のいい男にすぐにのぼせるんです。特に君は…」
「不二周助の弟だから、ですか」
兄貴がプロとして活躍するようになってから、また色々言われるようになった。どこまでもそれがついて回るのだろうか。
「いえ、君はあまり女性と接したことがないわけですから、気を付けた方がいいですよと言おうとしたんです」
「すみません」
顔が一気に赤くなるのがわかる。どうして自分はこうなのだろうか。気がつくと兄のことを考えている。
「相変わらずですね、君は。ところで、その時計は見たことがありませんが、不二君からのプレゼントですか」
「わかりますか」
「ええ。よく似合ってますから」
この時計は兄貴が合格祝いだと買ってきたものだった。あまりに高そうなので尋ねると、この前の賞金で買ったという。
『なら兄貴が使えよ』
『裕太に似合うと思って買ってきたんだよ。僕だと似合わない』
俺の好きなタイプの時計だったし、兄貴は自分用のは今度もっと賞金を取って買うよ、などとしれっと言うので、礼を言ってその時計をもらった。
『あとね、もう一つあるんだけど。合格祝い』
『なんだよ』
『今日は裕太が気持ちいいことだけしてあげるよ』
兄貴はそう言って微笑むと、俺の部屋の鍵をかけた。その小さな音がいやに生々しかった。
「何かありましたか、裕太君」
そうだ、今は観月さんと会っている最中だった。あんなことを思い出すなんて―――
「いえ、すみません」
「僕はこういうおせっかいはまったく得意ではないのですが………お兄さんと何かあったのですか?」
観月さんはいつも的確だ。そして本人が考えているより情が厚い。
でも、何があったのかと考えてみても、何もなかったとしか思えない。元々なんでもなかったことが終わっただけだ。
「別になにもありません」
「そうですか。ならいいのですが」
観月さんはまた優雅な仕草で紅茶を飲んだ。
※ ※ ※
俺は結局、観月さんのサークルとの合同練習の多いサークルに入ることになり(同じサークルに入りたいと言ったら断られた。君がいると熱心に練習しなくてはならなくなりますからというのがその理由だった)、新歓コンパに出たり、クラスのコンパに出たりと、そこそこ忙しい大学生活をスタートした。
ランキングが上がり始めている兄貴は、海外メインに切り替えたようで、時々電話がかかってくるだけでしばらく顔を見ていない。
もしかしたら俺と顔を会わすのが気まずいのかもしれないとも思ったが、かかってくる電話の内容は相変わらずで、もし何かあるにしても、間をおいた方が元の兄弟の関係に戻りやすいという打算ぐらいのものだと思う。
ただ俺だけが時々どうしようもなく思い出した。
俺はあいつ以外の手も、体も、唇も、なにも知らない。
だから時々どうしようもなくなる。
『大好きだよ、裕太』
その最中には言われたことのないはずの言葉。いつも言われているのとは違う、思いのこもった深みのある声。
そんなありえないものが聞こえてくる。
『大好き―――』
細胞に刻みつけられてでもいるかのように、どうしようもなく思い出す。
まるで何かの病のように。
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