なんで俺はこんな奴と話してるんだろう。受話器を握りしめて、適当な相づちを打ちながら、俺はそんなことを考え続けていた。
※ ※ ※
兄貴の顔を見なくなって二ヶ月近くがすぎた。その間にも、こうやっていつもと変わらぬ調子の電話がかかってくる。出たくない。そう思っても、何年も前、避けていた頃とは違い、兄からの電話に出ない理由などない。家族がいる時はすぐに取り次がれてしまうし、大抵は今みたいに俺一人が家にいる時間にかかってくる。電話に出てしまえば、どんなに話したくなくても切る理由もない。
海外からの少し遠い声が、外国の様子やその地で会った越前のことなどを話している。それは以前の俺なら絶対に興味があった話で、今だって興味ならあるはずなのに、その柔らかな声を聞きたくないという感情だけに心が占められてしまう。
「越前が裕太によろしくって」
「ああ」
そう答えてから、以前の自分だったらもっと別なことを言っていたはずだと気づいた。
あの越前が「よろしく」なんて言うはずはないのだ。越前独特の憎まれ口を、兄貴が勝手に解釈して伝えているだけで、本当に言ったことはきっと違う。
以前ならきっとすぐそれに気づいて兄に指摘していただろう。俺が「あいつがそんなこと言うかよ」などと言って「まぁね。本当は……って言ってたんだけど、ほら、越前だからね」などと兄貴が言って、そうやって会話が続いていた。なんで、いつの間にそうなっていたんだろう。俺はいつの間に兄貴とそんなに話すようになっていたんだろう―――今はそんな自分に思い至るたびに体がすくみ上がる。
「裕太?」
黙り込んでしまった俺をいぶかしむように名前が呼ばれた。その声は相変わらず甘ったるい。
俺と兄貴とは、本当にただセックスをしなくなっただけなのだろう。
セックスをしなくなって、いっそ俺が兄貴にとってまったく価値がない人間になってしまった方がよかった。でも実際はそうじゃなくて、俺はまだ兄貴にとっての大切な弟とかいうやつで、そのことがなぜか俺を苛むのだ。
「用がないなら切るぞ」
「あ、待って。今度の月曜に家に帰るから、母さんにそう言っておいて」
それくらい自分で言えと俺は叫びたかった。俺とお前はこうやって連絡をとりあったり、大事なことを伝えられたりするような仲のいい兄弟なんかじゃない。
だってお前は俺を―――
考えたくないことを考えてしまいそうになって、俺は軽く首を振った。
違う。兄貴は卒業祝いとして、それまで続けていた無理強いをやめただけだ。だから兄貴の態度の方が普通で、俺の方がおかしいんだ。
「わかった。伝えとく。じゃあ体壊さねぇように頑張れよ」
どうにか弟らしいことを言うと、
「ありがとう」
と少し嬉しそうな声が聞こえてきた。
ようやく電話が終わった。受話器を握る手はこわばって、ひどく汗ばんでいた。
来週の月曜にあいつが帰ってくる。会いたくない。顔も見たくない。ついそう思ってしまう感情と、なにも変わらないんだから、そんなことは思ってはいけないという強迫観念のようなものが、俺の中でぶつかって悲鳴を上げていた。胃のあたりがしくりと痛む。
会いたくない。顔も見たくないし、声も聞きたくない。そう思いながら、どこかで、この二ヶ月近くで兄がどう変わったのかを知りたがっている自分もいる。
母に兄貴のことを伝えると、案の定、「相変わらず仲がいいわね」と言われ、また胃がしくりと痛んだ。