稽古が終わると必ず殴り合いを仕掛けられた。
 半屋は怒って殴り返すが、稽古の後では力も出ない。
「なんだ軟弱なサルだな」
 その子供はへとへとになって倒れ込んだ半屋にそう言った。
「てめェがおかしいんだ」
 腹立ち紛れにそう言い返したが、自分が負けたことはわかっている。
 次は絶対勝ってやる。それが半屋の初めての執着だった。
 
 半屋の通う道場には様々な身分の者が来ていた。半屋に殴り合いを仕掛けるこの子供、梧桐は旗本の子供だろうと察せられたが、町人の子・侍の子の区別なく引き連れて騒いでいた。
 道場主が身分や格式にこだわらぬ質だったため、この道場では、遊郭の子供である半屋も、その出自を訊かれることもなく稽古ができた。

「貴様はなにかやりたいことはないのか」
 いつの間にか稽古のあとに梧桐と半屋が殴り合いをするのが当たり前になり、初めは待っていた取り巻き達も梧桐を待つことがなくなった。
 他に誰もいない道場に、倒れ込んだ半屋と少し息を切らした梧桐が残る。
「あぁ?」
「ないのか」
「ねぇよ」
「なら次までに考えておけ」
 いつものように殴り合ったあと、突然梧桐がそんなことを言い出した。
 
 次の時もその次の時も「考えたか」と繰り返される。
 梧桐が少しでもまともな事を言うのは、殴り合って疲れ果てたこのわずかな時間だけで、あとはふざけたからかいしか口にしない。
「てめェはあんのかよ」
「あるぞ。俺はこの国を自分のものにするのだ」
 何をわけわからないことを言ってるんだ、と半屋は思ったが、言い返すのもおっくうだった。梧桐はバカだが嘘は言わない。ならばそういうことなのだろう。
「だから貴様も考えろ」
「うるせぇよ」
 半屋は梧桐に背を向けるように転がった。


 半屋は吉原の中程度の郭(くるわ)で、遊女の子供として生まれた。半屋が生まれてすぐに母親は死に、父は元より誰なのかわからない。
 抜けるように白い肌、銀色の髪、金茶の瞳を持ち、一目で異形とわかる半屋は、遊郭で生まれた他の子供のように養子として引き取られることもなく、次々と病んで死んでゆく遊女たちに育てられた。
 他人にこびへつらうことのできない性格で、幇間(たいこもち)や若い者にも向かない。幸い武芸の才があったので、歩いて一刻ほどかかる道場に通うことになった。

「どうだ、見つかったか」
 会うたびに何かやりたいことを見つけろと言われ、初めのうちは反発していた半屋も、郭で過ごす一人の時間にふとそれを考えてみるようになっていた。
 郭の中で半屋ができることはほとんどない。寺子屋も数日でやめてしまい、芸事も続かない。女なら花魁の身の回りの世話をして、芸はなくともそれなりの花魁になることができようが、男ではそれもかなわない。
 たまに店を手伝うと、特異な外見が人目を引き、客にからまれて喧嘩になったり、酔客に血迷ったことをされそうになることさえあった。
 やることのない半屋は、道場に行くとき以外は小さな部屋で誰にも会わずぼうっとして過ごしていた。
 そんな自由が許されているのも、半屋がいずれは腕の立つ武芸者になって、なぜか嫌がらせをうけることが多く、警備のものも居着かないこの郭を守ってくれるだろうと期待されているからだ。
「別に………ねぇ、けど」
 梧桐に言われ続けて、だんだんと心に浮かんできたものがある。でもそれを梧桐に言うのはしゃくだと思った。
「したいことができたのなら早く言え。俺はもう遠くに行かなければならん」
「あぁ?」
 いつもサルだなんだとわけのわからないことを言って半屋をからかって、稽古の後には一方的に喧嘩につきあわされて、半屋は梧桐のことが大嫌いだったし、いなくなってくれればせいせいする。
 ただ、道場の中で半屋に話しかけてくるものは梧桐だけだった。他の者は初めの頃のように半屋の外見を奇異の目で見ることこそなくなってきたが、半屋の性格の問題もあり、誰も話しかけてはこない。
「俺がここにいるうちに言え。でないと貴様は妙なことになりそうで―――」
 珍しく梧桐が眉をひそめて言葉を止めた。
 半屋は怪訝そうに梧桐を見た。
「ここに来るのも今日で最後だ。早く言え。でないと向こうでもバカなサルがのたれ死にして人に迷惑をかけるのではないかと気にかかる」
「わけわかんねぇこと言ってんじゃねぇよ」
 梧桐は厳しい目で半屋の言葉を待っている。 
 今日で最後なのだ。この日々が終わるなんて思っていなかったのに、いきなり終わってしまうのだ。
「てめェ、どこ行くんだよ」
「気になるか」
「誰が」
「遠いところだ。しばらくは戻ってこれない。戻ってきてもここには来んだろうな」
 なにか苦いものが胸にこみ上げてくる。半屋は梧桐から顔を背けた。
「別に………したいことなんてねぇよ。ただ………もっと強くなって、店は俺が守る」
 半屋は梧桐に背を向けたまま、ほとんど聞こえないような声でつぶやいた。
「そうか。ならば精進しろ。江戸に戻ってきたらまた相手をしてやる」
「いらねぇ」
「大黒十字だったな」
「んでてめェがそんなこと知ってんだよ」
 大黒十字というのは半屋がいる郭の別名だった。正式には十字屋というのだが、同じ店が何軒もあるため、大黒十字と呼ばれていた。

 気がつくと梧桐が強い瞳で半屋を見ている。 
「やりたいと思ったことを覚えていろ、半屋。決して忘れるな」
 去ってゆく前に梧桐は、それを半屋に言おうとしていたのかもしれなかった。
 半屋はそれに気づかないふりをした。いつも通りでいたかった。
「江戸に戻ったら手合わせをしてやる。俺に勝てるようにはならんだろうがな」
「てめェなんて今でも倒せる」
「なら今度倒してみろ」
「バカが。さっさと消えろ」
 半屋がそう言うと梧桐はそのまま去っていった。
 別れの言葉も約束もなかった。





 またあの夢を見た。
 半屋は眉間に手を当てて頭痛をやりすごそうとした。
 繰り返し同じ夢を見る。
 幼い頃通っていた道場にいた梧桐という子供の夢。
 それが想い出と呼べるたった一つの記憶なのだと、半屋は気づかないままでいた。

 こんな朝には必ず夢を見る。
 近頃夢を見る回数も増えてきて、半屋を煩わせていた。
 思い出したくもない、苦痛を感じるだけの記憶なのに、最近は白昼でさえ思い出す。
 しかしこんな朝に見る夢が、一番生々しく半屋を苦しめた。
 こんな―――男に抱かれた次の朝の夢が。

つづく


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