三週間くらい前だが、
秋田魁新報に「先細る秋田弁」という社説が載っていた。
よくある、方言衰退を嘆く文章である。
読んでびっくり。
「
たとえ日常生活では使われなくなろうとも、若い世代が秋田弁を理解して継承できるように」対策を講じる必要がある、らしい。
日常的に使われない言語が残ることはあり得ない。使われることを諦めるのであれば、理解も継承もされない。それは“Endangered Language (危機に瀕する言語)”についてちょっと調べれば解るし、現に、秋田弁を使う人が減っている、高齢者と若い世代で会話が成り立たない、ということもその社説に書いてある。
勿論、日常的に使われてはいないが、理解され、継承もされている言葉はある。古典である。学校の授業に組み込まれ、あるいは、趣味でやってる人もあろう。短歌や俳句も盛ん、原形をとどめていないのかもしれないが時代劇の言葉遣いもある。
この社説が言うのは、そういう残り方なのだろうか。
辞書を片手にうんうん唸りながら解釈し、自分で書こうなんてとんでもない、というようなことを考えているのではあるまい。
大体、この文章の日本語にはひっかかりを感じる。
「
テレビやラジオの普及に伴う標準語の拡張」
そういう意味だろうか、「拡張」って。もともと広さの概念を持った語につくんじゃないのかな。「標準語の使用範囲の拡張」というのならまだわかるが。「標準語の拡張」って、標準語に含まれる語彙が増えるとか、そういう意味になっちゃわない?
「
長い年月をかけてその土地に根付いた方言」
これもなんだか。「根付く」ってのは、種からの連想なんだから、よそから持ってきたものが定着する、という意味だろう。秋田弁って、ほかの場所から持ってきたものなのか? たしかに、方言は言語の変種だから、大元が他の地域にある、と言えない事もあるまいが。
沖縄の「しまくとぅばの日」、豊後高田市の「方言まるだし弁論大会」、青森の「
津軽弁の日」などを取り上げた後、県教育庁がそういう構想を持っていないことを紹介する。
お役所頼みなのである。
「津軽弁の日」は「津軽弁の日やるべし会」がやってるんだがな。
そもそも冒頭で、秋田弁での朗読会や演劇などのイベントを取り上げている。教育庁が、「意欲的な動きが出てきたら支援を検討したい」と言った、ということは、そういうイベントは意欲に欠ける、ということだろうか――と勘繰らせるような構造の文章なんだよな。県外も視野に入れた活動、というような但し書きがあるけどさ。
役所に対抗するのは神様、というわけでもあるまいが、次に取り上げられたのは「
超神ネイガー」であった。「
んだがらしゃ」もお忘れなく。
最後は、継承の要は子供たち、ということで、「教育現場で関心を喚起する創意工夫も必要」と締めている。
流行はメディアが取り上げたときにはピークを過ぎている、というような揶揄を聞くことがあるが、学校で教えるようになった時点でそれはもう生きていない、と言ってさほど的外れでもないような気がする。
学校で教えなければならない状態になってしまうのは、家庭に存在しないからじゃないんだろうか。言語形成期の内、子供が学校に通っているのは後ろ半分である。その前は家庭と、保育園・幼稚園ということになる。その時期に方言に触れることがなかったとすれば、後から机に座らせたところで遅い様な気がするのだがどうか。
何で読んだか忘れたが、確か大阪での話だったと思う。
大阪弁は強い、と考えている人も多いはずだが、実は大阪弁も地元では苦しい。幼いときに大阪弁を使わずに育つ子供も少なくない。その彼らが大阪弁を使うようになるのがいつかというと、小学校に通い始めた時期だ、という文章だった。つまり、子供達にとっての最初の外部社会で大阪弁を吸収するわけだ。
そのことが秋田で起こらないのはなぜか、というより、起こってないのかどうか、ということを、学校に押し付ける前に確認するべきなのではないだろうか。
この社説に応じた読者からの投稿が二週間ほど後に掲載されている。
その投稿は、日常の会話も軽視できない、と言っていて、結果的に社説を補完している。
この社説だが、使われなくなることを容認していること、お役所頼みであること、家庭のことが触れられていなくて、話を学校に持ってっていることから考えて、当事者意識が希薄なのではないか、と思った。
そうじゃないとすると、新聞社が、言葉を役所に任せるという発想を持ってしまっているかもしれない、というおっかないことになってしまうんだが。