映画、「舞妓 Haaaan!!!」。
いや、面白かったんだけども、改めて考えてみると、なぜ行こうと思ったのかわからない。確かにクドカンは大人気で、去年の紅白 (あぁすいませんねぇ、「紅白歌合戦」のことですよ、正しい日本語教の皆さん) にグループ魂が出たときには、どれどれって感じで一時、腰を据えて見たりした。
でも、俺って大人計画の舞台は勿論、クドカンのドラマって見たことないのだった――と言い切るのもアレなので確認したら、『ピンポン』と『ゼブラーマン』を見ている。確かに、とんでもねぇ話ばっかりだな。
ケータイ刑事ファンとしては
小出早織を見に行くつもりだったのだが、チラシを見るとなんか扱いが小さくてどうみても脇役っぽく、それは行く理由になっていなかったのだが。実際はバリバリのメインである。
ま、いいか。面白かったんだから。
さて、花街ことば。
京都生まれの小出早織がイントネーションなどを練習したというから、京都弁とは違うものであることがわかる。
これは、結局のところ京都ネイティブではない人たち、色んなところから集まってくる人たちの言語的特徴を消すための、一種の人工言語、というわけである。花魁のことばと同じだ。
その地域の方言の特徴と強い相関を持っている、という点も同じ。我々はよく京都弁と舞妓さんたちの言葉を混同するし、現在の標準語には吉原の言葉が残っている。
*1
舞妓・芸妓のことばだと思うから、「標準の京都弁と違うのは当たり前じゃん」という発想も出てくるが、我々は普段、京都弁と接することはないから、たまに京都方面から入ってくる言葉を京都弁だと思ってしまうのはまぁ無理のないところで、しかも、外から見たらよく似てるわけだし。
これって、漫才の言葉を大阪弁だと思ってしまうのと実はよく似た現象なんじゃないかと思うんだがどうだろう。こっちは、確かに漫才師はどこにでもいる職業ではないけれども、しゃべりの中身は日常会話に近いからさらに誤解を生じやすい。
素性を隠すための人工言語としては、バスガイドの口調もそうだという話を聞いたことがあるような気がする。
Wiki ってみたら、最近は「場面方言」という言葉があるらしい。いわゆる「バイト敬語」など、特定の場面でしか通用しない体系のことなんだそうだ。
バスガイドの口調がそうだ、というのはわかりやすいとして、花街ことばはどうなのか。映画のパンフレットによれば、花街の人々は普段から花街ことばで会話している、ということだから、必ずしも「特定の場面でのみ」とは言えない。むしろ、立派な一方言ということになる。
さて、その花街ことばそのものがどうだったかというと、実はまぁ、もう覚えてない。唯一記憶に残っているのは、見習いが師匠にあたる舞妓のことを「姉さん」と呼ぶ、というあたり。単に「姉さん」ではなく、その人が「駒子」であれば、「
駒子さん姉さん」である。
「
さん」は、全国的には単なる丁寧語だろうが、京都では標準的な敬語表現だから、これってものすごい敬意なんじゃないのかな。
花街で使われる言葉だからって「襟替え (舞妓が芸妓になること)」が「花街ことば」だ、というのもどうかと。「竿灯」が「秋田弁」だ、というのと同じで、ちょっとばかりためらわれる。
Wikipedia によれば、花街ことばには「身振り語」というのがあるらしい。さらにググったところ、堀井 令以知氏の『
京都語を学ぶ人のために』に書かれているそうで、お座敷で舞妓同士が意思疎通するのに使うものらしい。まぁ、一種の暗号みたいなものか。野暮な客の悪口とか言ってるのかもしれんな。
「
おいでやす」と「
おこしやす」については
前に、「
おこしやす」の方が丁寧、と書いたが、そう単純な話でもないらしい。「
おいでやす」は、不意の客や一見の客に使うのだそうだ。だから、「
おいでやす」と言われたときは歓迎されてないと考えるべきだというのだが、では映画のパンフに乱舞している「
おいでやす」についてはどう考えるべきなんだろうかね。
*2
それに、京都の人がやっているらしいホームページで、「
おいでやす」って書いてるところは多いぞ。尤も、ホームページへの訪問者は、大半が一見さんだろうけど。
なお、「
おこしやす」は「
お越しやす」で、遠いところからわざわざどうも、ということらしい。
映画の小出早織は可愛かったけれども、正直言って、ああいう装束の女性がキレイだとはあんまり思わない。結婚式なんかで、花嫁さんを見て「キレイ…」ってため息をつく人がいたりするが、あれも同じく。造作がどうこうじゃなくてあの厚いメークがね。
そんなこと言ってるからダメなんだろうな、俺ってやつぁ。