星野道夫
「森と氷河と鯨」ほか

  目 次

1. はじめに
2. いささか私的すぎる解説
3. 略年譜
4. 著作リスト
5. アラスカの地図
6. 本の紹介


苔むしたトーテムポール。ひっそりとした
森の中でシカがのんびりと草を食む。
 (出典 「星野道夫と見た風景」)

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1.はじめに
 私のホームページには「最近の新聞記事から」という欄があります。2007.4.30に更新した分に画家司修(つかさおさむ)さんの、次の記事を載せました。特に「遠回り」がもたらすものと、池澤夏樹さんのコメント「ものを見るということはどういうことか」に感心しました。
 ホームページに載せるからには、どんな作品を残しているのかを知りたいと思い、図書館で何冊かの本を借りてきました。それまでは「アラスカでクマにやられた写真家」位の知識しかなかったのが、写真や文章、さらにその生きざまを知ってすっかり感激してしまいました。これから何回かに分けて、その作品を紹介し、少しでもその思いを共にしたいと思います。
「遠回り」   司 修
 星野道夫という写真家がいた。
 作家の池澤夏樹さんは彼のことをこういっている。「ものを見るということはどういうことか。星野道夫の写真は改めてそれを考えさせる」
 写真は絵画のように作者による歪曲(わいきょく)が入り込まない。そこにある現実、見えている対象を瞬間的にとらえる。名カメラマンとその写真を称賛する言葉、「決定的瞬間」というのがあるけれど、ぽくは「その通りだなあ」とつくづく思う。
 目の前の景色や出来事は、百人いれば百人が同じ場を見られる。けれど、その瞬間を決定づけるのは、その人の個性であり、主張であり、人生であり、その生をミリ単位で刻み込んでいく作業である。
 星野道夫の写真に「ものを見るということはどういうことか」と「改めてそれを考えさせる」のは、彼の人生観にあるのだと思う。
 星野は1952年に千葉県市川市に生まれた。16歳の時、慶応義塾高等学校に入学し、その翌年、移民船「アルゼンチナ丸」に乗ってロサンゼルスヘ行き、約2ヶ月間一人旅をしている。高校生にして誰にもできないことへの挑戦が始まった。空路ではお金がかかりすぎる。しかし移民船という特殊な船であったら、旅費も少なかったろう。19歳になって慶応義塾大学の経済学部に入り、サークルは探検部に入った。その夏、信州の農家でたまたま置いてあった新聞に、アラスカの地図を見つけた。地図は漠然と星野が持っていた北方願望をかきたてた。彼は東京に戻ると、神保町の古本屋街を歩いて、アラスカに関する資料を集め、『ナショナルジオグラフィック』誌の「ALASKA」特集を手に入れた。そこに航空写真のシュシュマレフという孤島を発見した。彼はその島の住民5人に届くよう手紙を書いて送った。すると忘れた頃になって1通の返事が返ってきた。来てもいいというのだ。星野はさっそく出かけていき、イヌイットの家族に混じって3ヶ月暮らし、その素晴らしさに魅入られた。彼は日本に戻ると大学を卒業。動物写真家田中光常に弟子入りした。2年間の助手生活で、野生動物写真のノウハウを身につけた星野は、アメリカに渡りシアトルの英語学校に入った。なんと、アラスカ大学野生動物管理学部で学ぶため、英語を確実なものにしたのだ。
 星野は、「石橋を叩いて渡る」といいたくなるような遠回りをしている。
 ぽくはここに、星野の写真の「ものを見るということはどういうことか」が創られていったのだと思う。
 3ヶ月の経験を生かして、日本に戻り、高級カメラとレンズを買って、アラスカを撮影しまくれば、写真家として生きる道が開けるだろう。しかし、星野の思いは、写真家になるのではなかった。星野の出会ったアラスカの自然は、星野を驚かせ、驚きから新たな哲学を生んでいつた。彼は、遠回りして、自分の奥底にあった思いへと近づいていった。ぼくは彼のそうした行為を、「すばらしい」のではなく「美しい」と思う。
 星野の写真が、ものを見るという、あたりまえなことを考えさせる理由である。星野はアラスカの自然と、そこに生活するイヌイットの人々を知っていく。観察したり、撮影したりするだけでなく、星野は彼らと共に生活をするのだった。これも外から見れば遠回りである。   (画家)
(出典 日本経済新聞 2007.4.13 夕刊)

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2. いささか私的すぎる解説                池澤夏樹
 今年の夏が来ると、星野道夫が死んで三年の歳月が過ぎたことになる(この文は1999年に書かれています)。
 これは彼が生きている間にできあがった本だから、彼が死んだという事実とこの本の意味との間には直接の関係はない。それでも彼の死のことからこの文章を書き始めたのは、ほとんどぼくの私的な事情による。それを少し説明しよう。
 彼が若かったから、彼の友人たちもみな若かった。ぼくは彼より七つ年上だが、それでも3年前の夏には51歳になったばかりだった。普通には若いとはいえない歳だけれども、しかし、まだ友人の死に慣れていないという意味で、ぼくたちはみな若かった。親しい者の死を受け止めるすべを知らなかった。
 彼はクマに襲われて亡くなった。つまり事故である。事故には偶然が大きく関わる。ちょっとした時間と位置のずれ、条件のわずかな違い、自然の気まぐれがあれば、別の結果になっていたはずだ。だから遺された者にとって、彼の死という事実は受け入れがたかった。彼が次の冬にアラスカで撮ったはずの写真、次の夏にシベリアのモンゴロイドの人々について書いたはずの文章、フェアバンクスで、あるいは東京で、あるいは沖縄で自分と会って過ごしたはずの時間、一緒にできた旅、などなど、奪われたものを心はまだねだっている。
 本当を言えばそれは奪われたのではない。ことのなりゆきのどこにも悪意はなかったのだから、奪われたというのは意味のない悪しき擬人法である。星野と会うこと、話すこと、彼の新しい写真を見て新しい文章を読むこと、その喜びは恩寵ではあってもぼくたちの権利ではない。それが失われても、ぼくたちにはただ嘆くことしかできない。
 この本に話を戻そう。星野道夫はアラスカが好きで、わずか22歳の時にアラスカに行って暮らすという人生の方針を決め、そのために写真の修業をした。そして26歳で実際にアラスカに渡り、以後18年間暮らした。人の住まない荒野に入っていって、風景や動物のいい写真をたくさん撮った。撮る前に、まずもってすばらしい光景をたくさん見た。厳しくて、公正で、恩恵に満ちた自然と、自然に拠って正しく暮らす人々を見た。そして、自分がそれを見られたこと、その人々に出会えたことの幸運を何度もくりかえし書いた。
 書物にできることはいろいろある。知識や情報を授け、一時の楽しみを与え、ことの道理を示し、見知らぬ土地に案内し、他人の人生を体験させ、時には怒りを煽る。しかし、結局のところ、書物というものの最高の機能は、幸福感を伝えることだ。
 幸福になるというのは人生の目的のはずなのに、実は幸福がどういうものか知らない人は多い。世の中にはこうすれば幸福になれると説く本はたくさんあっても、そう書いている人たちがみな幸福とは限らない。実例をもって示す本、つまり幸福そのものを伝える本は少ない。つまり、本当は誰もわかっていないのだ。
『旅をする木』で星野が書いたのは、結局のところ、ゆく先々で一つの風景の中に立って、あるいは誰かに会って、いかによい時間、満ち足りた時間を過ごしたかという報告である。実際のはなし、この本にはそれ以外のことは書いてない。
 最初の方にある書簡体の文章がいちばんわかりやすい。「頬を撫でてゆく風の感触も甘く、季節が変わってゆこうとしていることがわかります。アラスカに暮らし始めて15年がたちましたが、ぼくはページをめくるようにはっきりと変化してゆくこの土地の季節感が好きです」という一文を成す言葉の一つ一つが真正なもので、読む者は星野の頬を撫でた風を自分の頼に感じることができるし、雪解けから短い初夏を経て短い夏まで大急ぎで変わるアラスカの、その一日ごとの変化を想像することができる。それを体感する幸福というものを心の中でなぞれる。

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 これはまだ、日本人の季節感の延長上にあることだから、わかりやすい。では、マッキンレー山の南面、ルース氷河のクレバス帯でオオカミの足跡を見たことがなぜ幸福感につながるのか。そこは標高4,000メートルから6,000メートルの稜線を越えなければ来られないところで、餌となる小動物もいないそんな氷ばかりの世界にオオカミが来る理由はない。生きるものたちはそれぞれ自分の生命をまっとうした上で子孫を残すという原理に忠実だから、余計なこと、無駄なこと、無理なことはしない。しかしそのオオカミはそこまで来た。日常の原理を超える特別の力がそこに働いた。「ぼくは日々の町の暮らしの中で、ふとルース氷河のことを思い出すたび、あの二本のオオカミの足跡の記憶がよみがえってくるのです。あの岩と氷の無機質な世界を、1頭のオオカミが旅をしていた夜がたしかにあった。そのことをじっと考えていると、なぜか、そこがとても神聖な場所に思えてならないのです」。
 この世界は合理だけではない。目に見えるものだけではない。ある場所に立ったとして、その風景の背後にあるものまで見なければ、その場所と本当に親しくはなれない。自然と対面して生きる、自然の中で生きる、自然に拠って生きるとは、目前の雪原の上にいつか見たオオカミの足跡を重ねて見ること、オオカミが雪の上を歩いていったその時を自分の中に持ちつづけることである。それが、より大きな枠の中にいる自分という安心感をもたらす。
 星野は読書家だったから、神話学者ジョセフ・キャンベルを引用してそこのところを上手に説明している−−「人は聖地を創り出すことによって、動植物を神話化することによって、その土地を自分のものにする。つまり、自分の住んでいる土地を霊的な意味の深い場所に変えるのだ」。
 星野とアラスカのことを言う時は、自然の力の中で生きる安心感について少し詳しく話した方がいいかもしれない。人間は文明を作ることで自然の厳しさから逃れ、安楽に暮らすようになった。それはそれで結構なことだが、そのために生きるということは鮮明な喜びではなくどこかぼんやりとした曖昧なものになった。
 早い話が、ぼくたちは雪原を歩いてゆくオオカミの姿を遠くから見ることがなくなった。地平線にかすかに見えている飢えの恐怖によって日々の暮らしを引き締めることがなくなった。生きることの手応えを失った。目前の風景の向こうに霊的な風景を見ることがなくなり、それを補うために怪しい宗教をたくさん発明した。つまり、代替物ばかりの、無理に無理を重ねた生活をしている。すべて自然に任せていれば安心だったのに、小ざかしい知恵でそこから出てしまった。そして、こんなはずではなかったと思っているが、どこでどう間違えたのかどうしてもわからない。
 旅をする木の話がいい。トウヒの種子が一つ、気まぐれなイスカのふるまいのおかげで川べりの湿った土地に落ち、根を生やす。やがて木は大きくなるが、しばらくたつうちに木を支えている地面は少しずつ川に浸食されて、春の雪解けの洪水でトウヒは根こそぎ倒され、川によって運ばれる。いってみれば事故によってこの木の人生は中断されたのだ。普通ならば、普通の人生観ならば、話はここで終り。しかし、流されたトウヒの木はユーコン川からベーリング海に入り、北極海流のおかげでずっと北のツンドラの海岸に流れ着く。木というものがまったくないツンドラの海岸で、打ち上げられたトウヒの木は目立つ目印になる。キツネがやってきて、エスキモーの猟師がやってきて……。
 つまりトウヒにとって、枝を伸ばして葉を繁らせ、次の世代のために種子を落とすという、普通の意味での人生が終った後も、役割はまだまだ続くのだ。死は死ではなかった。最後は薪としてストーブの中で熱と煙になるのだが、その先も、形を失って空に昇った先までも、読む者は想像できる。トウヒを成していた元素は大気の中を循環し、やがていつかまた別の生物の体内に取り込まれるだろう。トウヒの霊はまた別の回路をたどつてたぶんまた別の生命に宿る。人は安易に永遠のいのちとか、不老不死とかいうけれども、本当はこういう意味だ。みんなこのトウヒになれればいいのだが。

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 最近ぼくは星野の死を悼む気持ちがなくなった。彼がいてくれたらと思うことは少なくないが、しかしそれは生きているものの勝手な願いでしかない。本当は彼のために彼の死を悼む資格はぼくたちにはないのではないか。彼の死を、彼に成り代わって勝手に嘆いてはいけない。
 たとえば彼の人生が平均よりも短かったとしても、そんなことに何の意味があるだろう。大事なのは長く生きることではなく、よく生きることだ。そして、彼ほどよく生きた者、この本に書かれたように幸福な時間を過ごした者をぼくは他に知らない。三年近くを経て振り返ってみて、あんないい人生はなかった、とぼくは思えるようになった。彼の人生があの時点でクマとの遭遇によって終ったについては、たぶん自然の側に、霊的な世界の側に、なにか大きな理由があったのだ。たぶん彼自身、よく納得していることなのだ。あの時点での彼の死はどんな意味でも理不尽なものではなかったのだ。
 今となると、ぼくには旅をする木が星野と重なって見える。彼という木は春の雪解けの洪水で根を洗われて倒れたが、その幹は川から海へくだり、遠く流れて氷雪の海岸に漂着した。言ってみればぼくたちは、星野の写真にマーキングすることで広い世界の中で自分の位置を確定して安心するキツネである。彼の体験と幸福感を燃やして暖を取るエスキモーである。それがこの本の本当の意味だろう。          (作家)
(出典 「旅をする木」 星野道夫著 文春文庫)

3. 略年譜 星野直子編
この年譜では、星野道夫の生涯における主要な出来事を中心に、星野が特に印象深く記している撮影旅行や、その足跡をたどるうえで欠かせない主な著作、写真展などをまとめています。
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1952(昭和27)年  9月27日、千葉県市川市に生まれる。
1968(昭和43)年  慶応義塾高等学校日吉校入学。
1969(昭和44)年  移民船アルゼンチナ丸に乗船して横浜港を出航。ロサンゼルス到着。
            約40日間バスやヒッチハイクでアメリカ、メキシコ、カナダを一人旅する。
1971(昭和46)年  慶応義塾大学経済学部入学。探検部に入る。
1973(昭和48)年  シシュマレフ村でエスキモーの家族と3か月ほど生活をともにする。
1974(昭和49)年  岩登りを主体とした社会人山岳会に入会。
1976(昭和51)年  慶応義塾大学経済学部卒業。写真家・田中光常氏の助手を約2年間務める。
1978(昭和53)年  1月、アラスカ大学受験のため日本を出発。5月末に入学が決まる。
            鳥類学者デイブ・スワンソンのケープトンプソンヘの海鳥調査に同行。
            9月、アラスカ大学野生動物管理学部入学。
1979(昭和54)年  グレイシャーペイを1か月ほどカヤックで旅する。
1982(昭和57)年  1か月間、厳冬期のアラスカ山脈トコシトナ氷河でオーロラを撮影。
            ポイントホープ村のクジラ漁キャンプに参加。
1985(昭和60)年  トヨタ財団より助成を受ける。研究題目「北極圏油田開発により変貌しようとするカリブーの季節移動と、その狩猟生活にかかわるアラスカ原住民の記録」
            『グリズリーアラスカの王者』(平凡社)刊行。

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1986(昭和61)年  『グリズリー』で第3回アニマ賞を受賞。『アラスカ 光と風』(六興出版)刊行。
            アサバスカンインデイアンのムースの狩猟に同行。
             「アラスカたんけん記」を「月刊たくさんのふしぎ」に発表。('90年に福音館書店より単行本化)
1987(昭和62)年  「National Geographic」誌8月号に「Alaskan Moose」発表。
            トヨタ財団より2度目の助成を受ける。
            北極圏野生動物保護区にてカリブーの大群を撮影。
            『GRIZZLY』(英語版、Chronicle)刊行。1988(昭和63)年  『ムース』(平凡社)刊行。
            「National Geographic」誌12月号に「CARIBOU」発表。
            『MOOSE』(英語版、Chronicle)刊行。
1989(平成元)年  写真展「Alaska 北緯63度」をオリンパスギャラリー(旧)で開催。
            アラスカ野生生物局のラリー・オーミュラーとマクニール川にてグリズリーを撮影。
            南東アラスカ、フレデリック海峡周辺、ブラザーズ島で、クジラや森を撮影。
1990(平成2)年  「Alaska風のような物語」(「週刊朝日」連載)で第15回木村伊兵衛写真賞を受賞
            写真展「Alaska極北・生命の地図」をオリンパスギャラリー(旧)で開催。
            後に、札幌、函館を巡回。『Alaska極北・生命の地図』(朝日新聞社)刊行。
            フェアバンクスに家を建てる。
1991(平成3)年   写真展「Alaska 風のような物語」をオリンパスギャラリー(旧)で開催。
            後に、札幌に巡回。『Alaska 風のような物語』(小学館)刊行。
            北極圏ターナ川の河口にてカリブーを撮影。
1992(平成4)年   『Das Baren-Kinder-Buch』(ドイツ語版、Michael Neugebauer Verlag)刊行。
1993(平成5)年   萩谷直子と結婚。
            念願のクィーンシヤーロット島にてトーテムポールを撮影。
            写真展「Alaskan Tapestry:Photographs of Alaska」をアメリカのピッツバーグ、カーネギー自然歴史博物館で開催。
            『イニュイック〔生命〕』(新潮社)刊行。
            「森へ」を「月刊たくさんのふしぎ」に発表('96年に福音館書店より単行本化)。
1994(平成6)年  『ARCTIC ODYSSEY』(新潮社)刊行。
1995(平成7)年  『アラスカ 光と風』に新たに1章を加え刊行(福音館書店)。
            ボブ・サムとクィーンシヤーロット島を訪ねる。
            『旅をする木』(文藝春秋)刊行。
1996(平成8)年  『ナヌークの贈りもの』(小学館)刊行。10月には『NANOOK'S GIFT』(英語版、CADENCE BOOKS)が刊行される。
            6月末〜7月、ロシア連邦チエコト半島に遊牧民の暮らしを訪ねる。
            8月8日、カムチャツカ半島クリル湖畔でヒグマの事故により急逝。享年43歳。
                       *
            『森と氷河と鯨 ワクリガラスの伝説を求めて』(世界文化社)刊行。

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1997(平成9)年  『ノーザンライツ』(新潮社)刊行。
1998(平成10)年  『GOMBE』(メディアファクトリー)刊行。
            「クマよ」を「月刊たくさんのふしぎ」に発表('99年に福音館書店より単行本化)。
            写真展「21世紀へのメッセージ Alaska風のような物語『星野道夫の世界』」を東京・松屋銀座で開催。後に、横浜、大阪など全国18会場を巡回。
            『星野道夫の仕事(全4巻)』(朝日新聞社)刊行開始。
1999(平成11)年 『長い旅の途中』(文藝春秋)刊行。
            前年開催の写真展「星野道夫の世界」に対し、1999年度日本写真協会特別賞が贈られる。
2001(平成13)年 『Michio's Northern Dreams(全5巻)』(PHPエディターズ・グループ)刊行開始。
2002(平成14)年 『星野道夫の世界』2巻組(日本通信教育連盟)刊行。
           『Alaskan Dreams(全3巻)』(阪急コミュニケーションズ)刊行開始。
2003(平成15)年 『星野道夫著作集(全5巻)』(新潮社)刊行開始。
           『魔法のことば−星野道夫講演集』(スイッチ・パブリッシング)刊行。
           『アラスカ 永遠なる生命』(小学館文庫)刊行。
2004(平成16)年 『ぼくの出会ったアラスカ』(小学館文庫)刊行。
2005(平成17)年 『未来への地図』(朝日出版社)刊行。
2006(平成18)年 写真展「星のような物語」を東京・松屋銀座で開催。後に全国を巡回。
(出典 「森と氷河と鯨 ワタリガラスの伝説を求めて」[世界文化社 2006.8.15])

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4. 著作リスト
*星野直子氏協力の下、星野道夫公式ホームページ、小社刊『星野道夫著作集1〜5』などを参考に作成しました。
『GRIZZLYグリズリー アラスカの王者』1985年11月 平凡社刊
『アラスカ 光と風』1986年7月 六興出版刊(絶版)
『MOOSEムース』1988年6月 平凡社刊
『アラスカたんけん記』たくさんのふしぎ傑作集1990年2月 福音館書店刊
『アラスカ 極北・生命の地図』1990年5月 朝日新聞社刊
『Alaska 風のような物語』1991年7月 小学館刊
『イニュニツク〔生命〕』1993年12月 新潮社刊(絶版)
『アークティック・オデッセイ 遥かなる極北の記憶』1994年6月 新潮社刊
『アラスカ 光と風』福音館日曜日文庫1995年5月 福音館書店刊
『旅をする木』1995年8月 文藝春秋刊
『ナヌークの贈りもの』1996年1月 小学館刊
『森へ』たくさんのふしぎ傑作集1996年9月 福音館書店刊
『森と氷河と鯨 ワクリガラスの伝説を求めて』1996年12月 世界文化社刊
『ノーザンライツ』1997年7月 新潮社刊
『GOMBEゴンベ』1997年9月 メディアファクトリー刊
『イニュニツク〔生命〕』新潮文庫 1998年7月 新潮社刊
『星野道夫の仕事第1巻 カリブーの旅』1998年9月 朝日新聞社刊
『星野道夫の仕事第2巻 北極圏の生命』1998年12月 朝日新聞社刊
『アラスカ風のような物語』小学館文庫 1999年1月 小学館刊
『星野道夫の仕事第3巻 生きものたちの宇宙』1999年2月 朝日新聞社刊
『旅をする木』文春文庫1999年3月 文藝春秋刊
『星野道夫の仕事 第4巻 ワタリガラスの神話』1999年4月 朝日新聞社刊
『長い旅の途上』1999年5月 文藝春秋刊
『アフリカ旅日記 ゴンベの森へ』1999年8月 メディアファクトリー刊(『GOMBE』普及版)
『クマよ』たくさんのふしぎ傑作集1999年10月 福音館書店刊
『ノーザンライツ』新潮文庫 2000年3月 新潮社刊

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『アラスカ風のような物語(1)』大活字文庫 2001年8月 大活字刊
『アラスカ風のような物語(2)』大活字文庫 2001年8月 大活字刊
『Michio,s Northern Dreams 1 オーロラの彼方へ』2001年11月 PHPエディターズ・グループ
『Michio,s Northern Dreams 2 ラブ・ストーリー』2001年12月 PHPエディターズ・グループ
『Michio,s Northern Dreams 3 最後の楽園』2002年2月 PHPエディターズ・グループ
『Michio,s Northern Dreams 4 森に還る日』2002年5月 PHPエディターズ・グループ
『長い旅の途上』文春文庫 2002年5月 文藝春秋刊
『Michio,s Northern Dreams 5 大いなる旅路』2002年7月 P H Pエディターズ・グループ
『GRIZZLYグリズリー アラスカの王者』平凡社ライブラリーoffシリーズ 2002年11月 平凡社刊
『Alaskan Dream 1 星の物語』2002年11月 阪急コミュニケーションズ刊
『Alaskan Dream 2 風の物語』2002年12月 阪急コミュニケーションズ刊
『Alaskan Dream 3 愛の物語』2003年2月 阪急コミュニケーションズ刊
『星野道夫著作集 1』2003年4月 新潮社刊
『魔法のことば 星野道夫講演集』2003年4月 スイッチ・パブリッシング刊
『星野道夫著作集 2』2003年5月 新潮社刊
『アラスカ永遠なる生命』小学館文庫 2003年6月 小学館刊
『星野道夫著作集 3』2003年6月 新潮社刊
『星野道夫著作集 4』2003年7月 新潮社刊
『星野道夫著作集 5』2003年8月 新潮社刊
『ぼくの出会ったアラスカ』小学館文庫 2004年6月 小学館刊
(出典 「星野道夫と見た風景」(新潮社 2005.1.25))

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6. 本の紹介
1. 星野道夫と見た風景 星野道夫・星野直子共著 株式会社新潮社(とんぼの本) 2005年1月25日発行

 星野の実姉の紹介で初めて対面した91年暮れ−星野道夫39歳、萩谷直子22歳。翌3月にはプロポーズの言葉を残し星野は再びアラスカへ発ちます。
 その夏、直子は星野の誘いで初めてアラスカを訪れ、そこが星野と共に自分が生きていく場所であると確信しました。以後、愛息の誕生を経て人々に強い衝撃と悲しみを与えた事故までの短くも、宝石のように輝いていた二人の時間を今、夫人が初めて語ります。
 道夫さんの作品(随筆と写真)が随所に散りばめられ、アラスカの素晴らしい自然・人・動物などに触れることができます。
2. 森と氷河と鯨−ワタリガラスの伝説を求めて 星野道夫著 株式会社世界文化社(ほたるの本)

 主に北極圏を撮り続けてきた著者が、ワタリガラスの神話をテーマに本格的に南東アラスカに取り組んだ写真紀行です。アラスカの自然に魅せられた星野は、現地にすむクリンギットインディアンと親しくなり、彼らの祖先のいくつかの神話を徐々に聞き出し、神話を訪ねる旅を続けます。星野が事故で亡くなったため、本は未完になりました。最後の2回のシベリア取材(ロシア連邦チュコト半島及びカムチャツカ半島)の際に記された著者の日誌を加えてまとめたものです。
 本の最初にはアラスカのシトカで行われた星野氏の追悼会で、クリンギットインディアンのボブが星野氏に捧げた神話が、原文(英語)のまま載せてあります。
3. アラスカ 光と風 星野道夫著 福音舘日曜日文庫

 星野道夫がどのようにしてアラスカを好きになり、素晴らしい多くの写真をどのような環境で、どのように苦労して撮ったかを語っています。冒険家だからこそ初めてできたことだと思います。
 初期の作品のようですが、美しい写真も随所にあり、彼の資質がよくわかります。
 終わりの方にある「クジラの民」は特に好きな章で、エスキモーのクジラに対する執念と、彼がいかにしてキャンプに加わることができたかなどが理解できます。
 彼だけが到達できたアラスカの雪山での生活や、北の海への航海などが、写真や文章で追体験できます。
4. 旅をする木 星野道夫著 文春文庫

 広大な大地と海に囲まれ、アラスカには正確に季節がめぐって来ます。1978年に初めて降り立った時から、その美しくも厳しい自然と動物たちの生き様を写真に撮る日々でした。その中で出会ったアラスカ先住民族の人々や開拓時代にやってきた白人たちの生と死が隣り合わせの生活を、静かでかつ味わい深い言葉で綴った33篇を収録しています。第1部から第3部まで、三つの部から成り、解説は池澤夏樹氏です。
 著者のあとがきにもあるように、福音館「母の友」に載った連載をもとに作られた本です。あとがきの書かれたのは1995年7月で亡くなったのが1996年8月ですから、約1年前に発行されたことになります。

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[Last updated 4/8/2017]