沈 黙

  目 次

1. まえおき
2. 粗 筋
3. 目 次
4. 解 説
5. この本を読んで


遠藤周作著
新潮社

「遠藤周作 深い河ほか」に戻る

トップページに戻る

総目次に戻る

1.まえおき
 遠藤周作氏の二番目の作品として「沈黙」を採り上げました。この本は「深い河」に次ぐ氏の傑作であり、プロテスタント的な考え方は、カトリックの世界で問題視されたと聞いています。神は何故沈黙するのか、または神は本当にいるのか、問題を投げかけています。

2. 粗 筋[「遠藤周作 深い河ほか」の5. 参考文献(1) 「代表作ガイド−上総英郎」]
 昭和41年3月、書下し長編として新潮社から発行。この作家の作品で、これほど世にセンセーションを捲き起こしたものはそれまでにはなく、賛否両論が喧騒をきわめた。またこの小説の魅力は、幾度読み返しても尽きることはない。当時の話題作なのだが、作者がどれだけ渾身の力をこめたか、無論それがよく伝わるからこそ反響も高まるのだが。
 17世紀中葉、ローマ教会に一つの報せが届けられる。それは日本において20年間布教活動に力をつくしてきたクリストヴァン・フェレイラ神父が、長崎で「穴吊り」の拷問を受け、キリスト教を棄てたというのである。16世紀の終わり、豊臣秀吉が禁教令を発してから、日本での布教活動が厳しい状態に置かれ、秀吉から徳川家康に政権が移ってから、弾圧が増したということはローマ教会でもすでに察知していた。幾多の神父や修道士、それに無辜(むこ)の信者が国外追放され、後には残忍な拷問にかけられ、処刑されたという。しかし、わけても信仰心の厚いクリストヴァン・フェレイラ神父が棄教するとは考えられない、と彼に幼時教えを受けた神父たちは耳を疑った。
 こうした情勢のもと、フェレイラ帥にかつて教えを受けた三人の司祭がポルトガルのリスボンを出帆して、苦しい船旅の挙句、澳門(マカオ)にたどりついた。彼らの目的は二つあった。まずフェレイラ棄教の真偽を問い、その消息をたしかめること、第二に司祭が根絶やしにされようとしている禁教令下の日本で、厳しい弾圧のもと、信仰の火を守り続けているであろう日本の信徒たちを助け、潜伏布教を行なうことであった。澳門では三人は巡察帥ヴァリニアーノから、日本に通う船はもはやないときかされて絶望するが、潜行したい情熱は依然燃え続け、ついに一隻のジャンクを手に人れることができた。そして支那人町で、日本に帰りたがっている男、キチジローという正体不明の青年を見つけ出す。水先案内人が必要だからである。

目次に戻る

 こうして幾多の困難の待ち受けている日本にフェレイラの弟子たちはたどりつく。三人のうちの一人ホアンテ・サンタ・マルタが病臥し、潜行を企てたのはセバスチャン・ロドリゴとフランシス・ガルペである。
 ジャンクは途中、嵐に見舞われ、その時キチジローは祈りの中で「聖母(サンタ)マリア」の名を口にするので信者であるとわかる。ロドリゴたちにとって、小心で狡そうなキチジローは彼らの抱いている「死さえ恐れない民」のイメージとは著しく異なっていた。
 一行は九州の北西部、トモギという部落に漂着する。意外にもここはかくれ切支丹たちの部落で、ロドリゴとガルペは歓待され、役人の詮議の目が届かぬように庇護を受ける。
 しかし厳しい詮議の目を隠れおおせることはできず、誰か訴人するものがあって、部落の男、老いたイチゾウと若いモキチとが海の中に十字架を立て、そこに縛りつけられて悶死する、むごい〈水磔〉の刑を受ける。
 華々しい殉教ということばに目を昏(くら)まされていたロドリゴは、この水磔で死んでいくモキチとイチゾウの死に衝撃を受ける。「こんなにみじめで、こんなに辛いもの」だとは彼は思わなかったのである。この時、人間のこの悲惨な状況を、ただ見つめているだけの神の〈沈黙〉に、恐ろしさと疑問とを、ロドリゴは感じとるようになる。
 トモギの農民や漁民たちに迷惑をこれ以上かけてはならぬというので、ロドリゴとガルペとは別れて村々をさまよいはじめる。一人になったロドリゴに、「万一、神がいなかったならば……」という疑問が心の奥に芽生えてくる。この国までたどりついた情熱も、すベて神が沈黙を守っているならば、無意味なものになつてしまう。
 さすらううちにキチジローにめぐり会い、ロドリゴは結局、キチジローの訴人によって捕縛されてしまう。しかし船で護送されてゆくロドリゴが暗い夜の中、横瀬の浦で、ひとり不安におののいている時、闇の中に近づいてくる夜釣りの舟から、キチジローらしい声をきいたのである。
 やや解説じみるが『沈黙』でもっとも大切な場面がこの暗示的な横瀬の浦の場面であると私は思う。これ以後もキチジローは絶えずロドリゴを追い、司祭としてのロドリゴの〈ゆるし〉を求めるが、キチジローあってこそ、ロドリゴは司祭と見なされるのだ。つまりキチジローの存在によって、ロドリゴはこの国での司祭の地位を自覚できるのである。キチジローは否定的(ネガティヴ)な存在であるだけではなく、ロドリゴに司祭としての自覚を回復させる〈水先案内人〉の役を、この小説の最後までつとめているのである。
 ロドリゴは同僚ガルペの殉教にまで立ち会わされ、役人たちから罵りと侮辱を受けるが頑なに殉教を待望している。
 しかし井上筑後守との対面、さらにいまは沢野忠庵という名で反キリスト教の書物を書いているという昔日の面影のなにひとつないフェレイラとの対面で、ロドリゴの不安は次第に深まり、強まっていく。結局はロドリゴを牢に閉じこめ、三人の百姓を逆さに穴の上に吊るして、ロドリゴが踏絵を踏むなら、百姓たちは解放し、手当てもしてやろうとフェレイラは牢の外からロドリゴに言う。司祭の〈思いやり〉つまりは〈愛〉に通ずる感情を刺戟して、転びへと追い込むこのクライマックスは圧巻であり、またその時になって、ロドリゴが常に心の中でその顔を思い描き、その行ないに学ぼうとしていたロドリゴのキリストは、日本のイエス・キリストとして、ついにロドリゴの耳にのみ、沈黙を破るに到る。文字通りの代表作の一つとして、是非読まれるべき優れた小説であると思う。

目次に戻る

3. 目 次(作品には付いていないが作成した)
    まえがき……………………………3
 T セバスチァン・ロドリゴの書簡………13
 U セバスチァン・ロドリゴの書簡………27
 V セバスチァン・ロドリゴの書簡………37
 W セバスチァン・ロドリゴの書簡………59
 X ………………………………………104
 Y ………………………………………134
 Z ………………………………………159
 [ ………………………………………203
 \ ………………………………………226
   長崎出島オランダ商館員ヨナセンの日記より………  233
   切支丹屋敷役人日記…………………………………249
   あとがき………………………………………………  256

4. 解 説             佐 伯 彰一
 遠藤周作は、わが国で類の少ない、ドラマチックな小説家である。『海と毒薬』、『沈黙』、『侍』など、いずれを取っても、ドラマチックな緊迫と力感があふれている。
 まず、不気味な緊張をはらんだ状況があり、あれかこれかの選択をするどく突きつけられる作中人物がいる。そして、次第にドラマチックな対立、葛藤(かっとう)がもり上ってゆき、一気にカタストローフへとのめりこむ。アリストテレス流の悲劇の伝統的な定義が、そっくりそのまま当てはまりそうなほどに、ドラマチックな骨骼(こっかく)が、どの作品にも透けて見える。
『沈黙』は、中でも、いかにもドラマチックな小説で、読みかえしてみるたびに、ぐいぐいとドラマの渦巻のなかに誘いこまれてゆく気がする。
 もっとも、ここにおけるドラマの仕組みは、むしろ簡明率直なものだ。切立丹禁制のあくまできびしい鎖国日本に、三人のボルトガルの若い司祭が、潜入をくわだてる。島原の乱が鎮圧されてから間もない頃のことで、一きわ取締りの目もきびしく、何とか無事上陸を果し、日本人信徒との連絡もつけたものの、もちろん、間もなく捕われて、苛酷な拷問を加えられ、ついに背教の止(や)むなきにいたる。そもそもの当初から、失敗、敗北はほぼ明白な、いわは絶望的な挑戦のくわだてであり、果して事態は予測された通りに進行する。思いもうけぬ不意打ちは、まったく起らないというに近いのだから、ドラマとしては、わき道なしの直線的展開が一きわ目立つ。
 これほど一本道の、見通しのよすぎるほどの筋立てで、われわれ読者を一気に作中に誘いこむとはと、改めて小説家遠藤の力量のほどに感心させられるのだが、この際、導入部における作者の語りの工夫に眼をむける必要があるだろう。

目次に戻る

 まず「ローマ教会に一つの報告がもたらされた」と書き出された「まえがき」が、歴史書かノンフィクションのようなスタイルで、客観的かつ簡潔に、事態を伝えてくれる。ポルトガルのイエズス会から以前日本に派遣され、その「稀(まれ)にみる神学的才能」と「不屈の信念」の強さで、かねて信頼厚かったフェレイラ・クリストヴァン教父が、ついに拷問に屈して、棄教したという。このニュースの生み出した大きな衝撃が告げられ、ローマから四人の司祭、またポルトガルからも三人の司祭が、こうした衝撃をのりこえ、打ちかとうとするように、日本渡航を決意した。ポルトガルの三人にとっては、フェレイラは、かつての恩師でもあったのだ。
 この「まえがき」は、戯曲における舞台の説明にも似ているが、乾いた、飾り気のない語調で、後につづく物語の時代背景、歴史状況を手際よくのみこませてくれる。事実『沈黙』は、一種の歴史小説でもあって、扱われている事件や人物の大方は、史実にもとづいている。日本潜入を敢行した三人の司祭にも、はっきり「モデル」のあることは、遠藤自身が、「あとがき」でふれている。『沈黙』の主人公であるロドリゴ改め岡田三右衛門は、じつはジュゼッペ・キャラ改め岡本三右衛門であったといった具合で、もちろん小説的な変改が加えられている。イタリーの、シシリヤ生れというキャラを、セバスチァン・ロドリゴと変えたのは、フェレイラと同じポルトガル出身として両者のつながりを強め、後の獄中での出会いを、一層ドラマチックなものにしようという用意であろうか。歴史上の三人の司祭は、拷問にかけられて、三人ともひとしく棄教した由であるが、『沈黙』の作者が、この点を作り変えているのも、ロドリゴの棄教に焦点をしぼって、彼の内心のドラマを浮きぼりにしようというねらいに違いない。ただ、三人と澳門(マカオ)で会い、日本の事情について説ききかしてくれた「巡察師ヴァリニャーノ神父」を歴史上の人物とすると、1606年の始めに澳門で没したはずだから、勘定が合わない。彼自身、三度まで日本の土をふみ、信長と親しく交わり、史上名高いあの「天正遣欧使節」の同伴者ともなったこの人物は、かっての日本における切支丹隆盛期の象徴として、あえて作中に取りこむことにしたのだろうか−ロドリゴたちの日本潜入の暗さと絶望性を、対照的に浮び上らせるために。
 さて、「まえがき」の後には、「セバスチアン・ロドリゴの書簡」四通がつづいて、読者をじかに主人公の内側に誘いこむ役割を果している。これが、小説の前半、四章をなし、あと、三人称描写の7章が来るという構成であるから、「まえがき」をもふくめて、全体が、語りの上からは、三部仕立てとなっている。まず純客観の視点とそれから純主観、ついで半客観、半主観とでもいうのか、いく分の距離は保ちつつ、主人公に即して、たどり、描いてゆく。この三段構或は、読者を無理なく作中のドラマに導き入れる上で、見事な効果をあげているのではあるまいか。まず、舞台、背景を離れて大きく眺めた上で、いきなり主人公の内面につれこまれ、やがて、主人公からいくらか身を引き離しながらも、すぐ間近で棄教に立らいたる劇的破局のプロセスを、一歩一歩見守ることになる。
 かりに、終始一貫、純客観体で押し通したとしたら、そもそも主人公の企図の向うみずな絶望性と、日本の当局側のやみくもな禁圧政策、あまりに頑(かたく)なで非人道的な拷問の手口ばかりが、読者の前面に大きく立ちはだかる羽目になったろうし、また他方、冒頭からひたすら主人公の手紙や独白だけて押し通そうとした場合は、主人公の投げこまれた状況が、あまりに特異かつ極限的であるので、読者としては少々息苦しすぎ、ついてゆくのが困難になったのではあるまいか。その意味で、距離と密着とを組み合せつつ展開してゆくという遠藤流戦略は、『沈黙』の成功を確保する上で、大きな役割を果したように思われる。

目次に戻る

 それにしても、『沈黙』の主人公は、まったくの異国人であり、布教、伝道の熱情はともかく、ふと外からまぎれこんできた異邦人の眼と意識を中心として長篇小説を書き上げるというのは、かなり危険な文学的冒険であり、賭けに違いなかった。なるはと、ザヴィエル、ヴァリニャーノ、フロイスなど、当時の西欧からの伝道者たちは、じつに筆まめて、また綿密な観察者、表現力優秀な報告者てあったから、これらの残された歴史上の記録を広く調べ、親しむことによって、彼らの内面に近づき、これを小説的に再構成してみる道はたしかに開かれていよう。しかし、長編小説のヒーローとして外国人をえらび取るというのは、やはり一種の文学的離れ業というほかない。ロマンチックな美化、もしくはグロテスクな諷刺をくわだてる場合は別として、『沈黙』の場合のようにアクションのきわめて少ない、純粋にいわば信仰の論理と心理に限定された微妙な動きを跡づけようとする場合、相手が外国人とあっては、いかにも書きづらいに違いない。しかし、遠藤周作は、あえてこの難業にいどみ、物の見事にやりとげたのである。
 一体、何が遠藤を駆り立て、またこの大きな壁を乗りこえることを可能にしたのか。この際、いくつかの要素を指摘することが出来そうだ。一つは、信仰を同じくするものの自信。キリスト教、とりわけカトリックの「普遍性」についての確信が、遠藤を根底で支えていたと言い切っていいだろう。二番目に、状況の極限性が、逆にかえって、作者の側での共感と追体験を可能にしてくれたのではないか、といいたい。これは一見逆説めくけれど、たとえは『沈黙』とほぼ同じ頃、アメリカの南部出身の白人作家W・スタイロンが書き上げて、ひろく話題をよんだ『ナット・ターナーの告白』(1967)の場合を考え合せて頂きたい。これは、いち早い黒人反乱という現実の事件を扱った一種の歴史小説という点でも『沈黙』と一脈通じているが、白人のスタイロンがその際敢えて、黒人主人公の内側に身をおき、終始一貫、この主人公の内的独白体で押し通して見せた所が、かくべつ注目を集めた。とくに黒人側の評者が、この点につよいこだわりを示したのが印象に残っているけれど、第三者としてみれば、まさにこの点、白人のスタイロンが、黒人主人公の眼と心とを通して語り、描いて見せたという点に、この長篇の強烈な劇的迫力の源が存したことは疑いなかった。作者が、全力を傾けて、大きな壁に挑みかけたという迫力がみなぎっていたばかりか、望みなき反乱における指導者の緊張と苦悶(くもん)という極限状況が、かえって人種の壁をこえた「普遍性」を生み出していると感ぜざるを得なかった。ほぼ同じ事情が、わが遠藤の『沈黙』の場合にも、当てはまるのではあるまいか。
 しかし、一層切実かつ重大なのは、おそらく次の第三の要素、追いつめられた主人公のうちに生じた信仰上の悩み、懐疑を、どうやら作者自身も底深く共有しているということであろう。信者たらの上に次々とふりかかる迫害、拷問、相つぐ信者たちの犠牲、文字通り人間の気力、体力の限界をこえた苦難にもかかわらず、ついに神の「救い」は、あらわれない。主人公の必死の祈りにもかかわらず、神は頑なに「沈黙」を守ったままである。果して信者の祈りは、神にとどいているのか、いやそもそも神は、本当に存在するのか、と。
 これは、キリスト教徒にとっては、怖ろしい根源的な問いであり、ぼくら異教徒の胸にも素直にひびいてくる悩みであろう。このモチーフを追いつめてゆく作者の筆致は、緊張がみなぎり、迫力にあふれていて、ドラマチックな場面の豊富なこの長篇の中でも、文字通りの劇的頂点をなしている。獄中のロドリゴの耳に、番人の「鼾(いびき)」らしい物音が、執拗(しつよう)にまつわりつく。「あの高く低く唸(うな)っている愚鈍な鼾」、「俗悪な不協和音」と、主人公はやり切れぬ腹立たしさを抑えがたいのだが、その直後にフェレイラから、じつは「穴吊りにかけられた信者たちの呻(うめ)いている声」だと知らされる。この場面の衝撃的な効果は、素晴らしい。「鼾」という、グロテスクで滑稽な、人間のうちなる動物性の露呈ともいえる生理現象の、一瞬の聖なるものへの変容。そして、ロドリゴの棄教の決心、「踏絵」の場面がすぐつづいて描きこまれる。

目次に戻る

 神は果して存在するのかという怖ろしい問いに答えがあたえられた訳ではなかった。しかし、ロドリゴの背教が、じつは神への裏切りではなく、キリストは棄教者の足で踏まれつつ、これを赦していたという信仰の畏(おそ)るべき逆説は、ぼくなど不信の徒の心にも沁(し)みいらずにおかない。『沈黙』は、カトリック教徒のけわしい信仰の隘路(あいろ)をたどり、描きながら、じつは、超カトリック、普遍的な宗教小説たり得ているのではないだろうか。日本人のユダともいうべき卑屈な裏切者のキチジロー、またかっての信徒で、今はキリスト教徒弾圧に、無類の狡智(こうち)を発揮する井上筑後守の描き方など、不信者の読者としては、いささか留保をつけたい箇所も残りはするものの、『沈黙』全体のドラマチックな迫力には、気押されて、その畏るべき結末へとじりじりしと運び去られてゆく他ないのである。                       (昭和56年9月〕

5. この本を読んで
 作者が一生をかけて追求した、神とは何か、日本人にとってカトリック信仰は欧米のそれとは違うのではないか、という疑問が凝縮されているように感じます。作者の考え方は仏教の考え方と似ているように思います。布教のために来日した神父を中心に、素晴らしい物語が展開されています。氏の作品としては「深い河」と同様に代表作として是非読むべき一冊かと思います。

目次に戻る

「遠藤周作 深い河ほか」に戻る

トップページに戻る

総目次に戻る

[Last updated 8/31/2006]