幸福大国ブータン
王妃が語る桃源郷の素顔

  目 次

1. まえおき
2. 概 要
3. 本の目次
4. 本書を読まれる前に
5. 内容(一部)
6. 訳者あとがき
7. 著者・訳者紹介
8. この本を読んで


ドルジェ・ワンモ・ワンチュック著
今枝由郎訳
発行所 日本放送出版協会

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1.まえおき
 札幌に住んでいる小学校の同級生A君から紹介された本です。国民総所得(GNI=Gross National Income)の代わりに国民総幸福(GNH=Gross National Happiness)を国の進歩と発展を量る尺度とするというユニークな政治理念を持つ国として知られており、また新婚の新国王が来日され、同国に対して関心が高まっています。
 まず、図書館で借りて読み、今回新たに購入して読み直しています。

2. 概 要
 王妃のブータン素描は、彼女の個人的な視点から、彼女自身の経験に基づいて描かれています。本は3部に分かれており、第1部「ブータンに生まれ育って」は彼女の子供時代、学生時代と国王との結婚の個人的な回想です。第2部「ありのままのブータン」は彼女の個人的な経験から、化身(トゥルク)、伝統医療、伝統建築、環境保全にたいする信仰の役割といった、基本的な信仰や習慣を描いたものです。第3部「ブータン人と仏教」は、佛教大学アジア宗教文化情報研究所公開講演で、主として同国の宗教を取り上げています。

3. 本の目次
                010  日本の読者によせて
                015  本書を読まれる前に

序章 雷蔵の国ブータン 019  国土と国民
                035  歴史
                045  王制
                047  近代ブータン
                053  この本について

第1部 ブータンに生まれ育って 061
第1章 「宝の丘」の村  063  わたしの生まれた村
                065  ノプガン村の風景
                069  流転の歴史─父の家系
                073  すばらしい祖父母たち
                079  家事と娯楽

第2章 年中行事と祭り  085  我が家のチョク
                089  プナカ・ドムチョ
                093  タロ僧院のツェチェ

第3章 馬に乗って     099  故郷から旅立つ
                104  タロ初めてのドライブ
                107  寄宿学校での生活
                118  新しい世界へ

第4章 新しい家の落慶法要   123  国王との結婚
                125  「タロの王様」と和解する
                127  生まれ変わった家
                131  現在のノプガン村
                134  落慶法要の朝

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第2部 ありのままのブータン  137
第5章 聖なる風景       139  四朋獣図と六長寿図
                144  「湖の精」の住まい
                148  聖なる洞窟
                152  ゴムコラの聖地
                155  王立マナス自然公園

第6章 温泉と湯治       161  待ち遠しい年次湯治
                162  ドゥンマン温泉
                166  ガサ温泉
                170  ドゥル温泉
                172  ブータン式石風呂
                173  「南の薬草の国」

第7章 「ここは、いつか来たことがある」 179輪廻する生
                181  「夢に見た家」を訪ねる
                186  デシ・テンジン・ラブギェの化身
                193  タンゴ僧院での即位式

第8章 ゾンとチョルテン    197  「天空の城塞」ゾンと「仏塔」チョルテン
                202  タンゴブナカ・ゾン
                209  タンゴワンディ・チョリン・ゾン
                213  タンゴ第4代ブータン国王勝利記念チョルテン

第3部 ブータン人と仏教    223  〔佛教大学アジア宗教文化情報研究所公開講演より〕
                225  はじめに
                226  グル・リンポチェの伝道と仏教流布
                228  仏教国としてのブータン
                230  民間での仏教信仰
                235  トゥルク(化身)信仰
                237  勤行と法要
                240  ブータン人の死生観
                242  本当の幸せとは─これからのブータンと仏教

                248  訳者あとがき

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4. 本書を読まれる前に
 著者は「序章」で、ブータンの概略を語るのにかなりの紙幅を割いている。それは、日本に限らず世界一般的に、ブータンはまだまだ神秘のベールに包まれており、1国・1民族を理解するのに必要なごく基礎的なことも含めて、ほとんど知られていないという現状を踏まえての配慮からである。しかし、本書で初めてブータンに接する読者には、逆に詳しすぎてブータンの全体像が描きにくい面があるであろう。
 また、本書に述べられている最後の出来事は2005年12月のことであり、執筆時期はそれから間もないころであろう。ところがブータンでは、それ以後「革命的」な改革・変化が始まっており、現在も進行中である。そのために、本書の執筆時点では、誰も予想・予測できなかった展開が見られる。
 それゆえに、ブータンをまったく知らない人にも本書が抵抗なく読み始められるように、そして本書を現在進行中のブータンの大きな流れの中に位置づけるために、以下に「まえがき」的な一言を記すことにする。
 ブータンは、ヒマラヤ山脈のほぼ東端の南斜面に位置する人口約55万人の小王国である。面積は4万6500平方キロメートルで、九州(4万2000平方キロメートル)を一回り大きくした程度であり、緯度的にはほぼ沖縄と同じである。17世紀前半に、チベット系大乗仏教の一派であるカギュ派の化身高僧によって国として統一されてから、カギュ派を国教とし、その歴代化身系譜を聖俗両面での最高権威者・権力者とする、いってみれば「神権」ならぬ「仏権」政治体制が続いた。そして1907年からは世襲王制となったが、仏教が国教であることには変わりなく、現在でも国民の大半は信心深い仏教徒であり、ブータンはチベット系仏教最後の砦ともいえる。
 著者は、1972年に弱冠16歳で即位し、31年の親政の後、2006年暮れに51歳という若さで自ら譲位した第4代国王ジクメ・センゲ・ワンチュック(1955年生まれ)の4人の王妃のうち最年長者(同じく1955年生まれ)である。「第1部 ブータンに生まれ育って」は、ブータンのかつての冬の首都、ブナカの谷の小村に生まれた娘が王妃となるまでの半生を綴った自伝ともいえるものであるが、一人の女性の足どりというフィルターをかけた20世紀後半から21世紀初めにかけてのブータンの変遷・歴史そのものである。
 現在ブータンでは、父王に比べれば10歳年上でとはいうものの、世界的に見れば例外的といえる26歳の若さで即位した第5代国王ジクメ・ケサル・ナムギェル・ワンチェック(1980年生まれ)の治世が始まったところである。今まで4代国王のいわば「親政」体制から完全な政党議会制立憲君主制への革命的移行が進行中で、来年(2008年)には最初の総選挙が行われ、初の国民選出政府が発足し、新憲法が制定・発布され第5代国王の戴冠式が盛大に催される乙とになっている。これは、ある意味でまったく新しいブータンの誕生である。
  今枝由郎

5. 内 容(一部)
[地 形]
 わたしたちの生活様式および歴史は、ブータンの地形に形作られたといえるでしょう。ブータンを、標高150メートルの裾野から7,000メートルを超す雪山までの巨大な急階段にをぞらえることは的を射た喩えでしょう。南北240キロメートルの間に、亜熱帯から温帯、そして凍りつく高山帯へと変化します。ブータンは東西に走る三つの地帯に分けることができます。平野から標高1,500メートルまでの南部の丘陵地帯は、常緑の広葉樹が茂る森林と、肥沃な耕地であり、人口密度も高い地域です。またインドとの国境沿いに、ゲレフ、プンツォリンといった通商で栄える町がいくつかあります。裾野地帯は高温多湿な気候で、標高が高くなるに従ってもやや霧が発生します。
 中央の温暖地帯は、南の丘陵地帯とはインナー・ヒマラヤ山脈の高峰で遮断されており、標高1,500メートルから3,500メートルの谷が東西に連続しています。首都ティンプをはじめ、主な町、ゾン(大きな城塞)、寺院はこの地帯に位置しています。この地域の山の斜面は、ヒマラヤ杉、松柏類、樫(かし)、モクレン、楓(かえで)、樺(かば)、シャクナゲなどに覆われています。谷によく見られる木には、柳、ポプラ、胡桃(くるみ)、花ミズキなどがあり、米、きび、麦、蕎麦(そば)、とうもろこしといった穀物とならんで、アスパラガス、きのこ、じゃがいも、いちご、りんご、桃、みかん、カルダモンといった換金作物が栽培されます。

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 温暖地帯を越えると、標高3,500メートルから5,500メートルまでは亜高山・高山地帯で、ジョモ・ラリ(7,315メートル)をはじめ、ブータンの最高峰ガンカル・プンスム(7,541メートル)といった万年雪を頂くグレーター・ヒマラヤ〔大ヒマラヤ〕山脈の峰々につながります。この山々は、聖なる神々の座であり、ほとんどは未踏の処女峰です。高山地帯には美しい氷河がいくつもあり、放牧地は雪が解けると一面が、小形のシャクナゲ、エーデルワイス、バイモ、アネモネ、プリムラ、デルフィニウム、そしてブータンの国花である、かの伝説的な「青いケシ(ブルーポピー)」メコノプシスなどの野生の花畑と化します。夏の間は、あちこちにヤクが放牧され、ヤク飼いたちの特徴ある黒いテントが点在します。この高山地帯はまた雪豹(ゆきひょう)、麝香(じゃこう)鹿、ブータンの国獣である風変わりなタキンの生息地でもあります。
 ブータンの川は、標高の高い山中に源を発し、深い渓谷や谷を造りながら南に流れます。インドに輸出される水力発電の電力が国家の主要な歳入源であるブータンにとって、川の水は「白い黄金」です。ティンプ・チュ川〔またはワン・チュ川。チュは「川」を意味する〕の下流には、チュカ、タラの水力発電所があります。この他には、南東部を流れるアモ・チュ川があり、ポ・チュ川とモ・チュ川はブナカで合流して、プナ・ツァンチュ川〔ツァンチュは「大河」を意味する〕となります。中央のトンサを流れるマンデ・チュ川は、東部から流れるブータン最大のマナス川に合流します。ブータンの河川はすべてインド平原に流れ込み、最終的には滔々たるブラフマプトラ川に合流します。
 グレーター・ヒマラヤ山脈は、東西に走っていますが、インナー・ヒマラヤ山脈の多くの峰々は南北に連なっていて、ブータンの中央地帯をいくつもの谷に区切る障害物として立ちはだかっています。ブラック・マウンテンと通称されるペレ・ラ峠山系がその一例で、西ブータンと中央ブータンを分割しています。自動車道路ができる以前、ベンガル平原からブータン南西部を通り抜け、ティンプ、ブナカ、パロなど西ブータンの伝統的に権力中枢となってきた地域に辿り着くのは1週間行程で、非常な困難を伴うものでした。据野はマラリアが蔓延するうっそうとした多湿な密林で、野生の動物に襲われる危険が高く、その先は荒れ狂う急流を渡り、険しい峠を越えねばなりませんでした。それが、1960年代初めにべンガル平原に隣接するブータン南西部のブンツォリンから標高の高いバロと首都ティンプをつなぐ184キロメートルの自動道路が建設され、今では6時間の快適なドライブとなりました。
 ブータンを西から東へと歩いて横断するには、谷と谷の間にそそり立つ険しい峠を少なくとも2週間に渡って上り下りしなくてはなりませんが、むしろ容易な道のりでした。というのは、主要な谷はすべて、道がよく整備されており、ラバや馬を連れて通ることができたからです。1975年に東西横断ハイウェーが完成し、今日ではブータン横断は3日の快適な旅となりました。以下にこの道沿いに見られる風景、史跡、文化伝統を簡単に紹介しましょう(地図参照)。
 首都ティンプから東に向かうと、まずは最初の山系の頂にある標高350メートルのドチュ・ラ峠〔ラは「峠」を意味する〕にさしかかります。天気がよければ、ここからマサガン(7,194メートル)やブータンの最高峰ガンカル・プンスムといったヒマラヤ山脈の白い峰々が眺望できます。この辺らの森には、春になるとモクレン、シャクナゲが咲き乱れ、紙の原料となる沈丁花(じんちょうげ)の甘い香りが漂います。峠には109基からなる威風堂々としたドゥク・ワンギェル・チョルテン(第4代ブータン国王勝利記念チョルテン、第8章参照)があり、それを通り過ぎると、ロベサまで一気に下ります。ここで左に折れるとブナカ谷で、少し北上したところの二つの川の合流点に巨大なプナカ・ゾンが建っています。ロベサで、左に折れずに、東西横断ハイウェーをまっすぐ進むと、絶壁のように突き出した急な尾根を跨(また)いで17世紀に建立されたワンディ・ポダン・ゾンが、ブナ・ツァンチュ川を見下ろしています。ゾンの下手の急な斜面は、棘(とげ)だらけのサボテンに覆われていて侵略者を寄せつけない珍しい効果的な防御装置となっています。ティンプからここまで70キロメートルで、2時間半の行程です。
 ワンディ・ポダンを過ぎると、長い上りとなりますが、40キロメートル地点で脇に入る道があり、分岐点から13キロメートルで氷河によって削ら取られてできた、大きく開けた美しいポプジカの谷(3,300メートル)に着きます。ポプジカは、世界的に珍しいオグロヅルの越冬地であると同時に、ブータンでもっとも有名な僧院の一つである1613年に創建されたガンテ・ゴンパ僧院があります。オグロヅルは聖なる鳥で、谷に到着するときおよび谷から飛び立つときは、ガンテ・ゴンパ僧院の上空を3回転すると信じられており、ポプジカの谷の人々はその到来を毎年心待ちにしています。東西横断ハイウエーに戻って、さらに14キロメートル進むと標高3,360メートルのペレ・ラ峠に達し、ここでブラック・マウンテン山系を越えます。早春にここを通ると、高地の夏の放牧地にまだ移動していないヤクの群れを見ることができます。運がよければ、この峠近くに生えている笹を好んで食べるヒマラヤレッサーパンダも見かけます。

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 ペレ・ラ峠を越えると、中央ブータンです。風景、植生ががらっと変わり、開けたルクプジ台地が広がりますが、季節により芥子(からし)の花で黄金色に染まったり、じゃがいもの花で真っ白に染まったりします。さらに下って、谷底でニッカ・チュ川を渡ると、トンサ県です。ペレ・ラ峠から27キロメートルで、大きなネパール様式のチョルテン〔仏塔〕が建っているチェンデプジに着きます。ここからは山肌を削りながらのカーブの連続が42キロメートル続き、ブータン建築の最高傑作の一つである、王家ゆかりのトンサ・ゾンの雄姿が現れます。
 トンサ・ゾンは、東西横断ハイウェーと、南の国境の町ゲレフからシュムガン県を通って北上する道がTの字に合流するところです。東西横断ハイウェーを、途中標高3,400メートルのユト・ラ峠を越えて東に進むと、68キロメートルでブムタン県の最初の谷であるチュメー谷に到着します。ブムタンは、ヤタとよばれる毛織物で有名ですが、スゲ村では観光客の目に留まるように、道ばたにヤタが掛けてあります。ことに目を引くのが、色彩豊かな手の込んだ模様の毛布で、すばらしく暖かく防水性もあります。ヤタはまたコート、ジャケット、敷物、クッションカバーにも用いられます。織り手はすべて女性で、彼女らは道沿いに高機(たかはた)を並べて織っています。
 ハイウェーはさらにキキ・エラ峠を越え、ブムタン県の中心地であるジャカルの谷に到ります。谷を見下ろす丘には、白鳥に似た美しいゾンが建っており、谷底には初代および第2代国王の夏の宮殿であったワンディ・チョリン・ゾンがあります(第8章参照)。ブムタンはしばしばブータン文化の故郷とよばれ、ジャカル〔あるいはチョコル〕、チュメー、および隣接するタンの谷にある聖なる僧院・寺院やお堂をすべて参拝するには少なくとも1週間はかかります。もっとも重要なのは、3つのお堂が並ぶ壮大なクジェ・ラカン、貴重な壁画のあるタムシン僧院、7世紀に遡るジャンパ・ラカンです。プムタンはまた、スイス開発プロジェクトにより導入された技術で現地生産されているゴーダチーズとはちみつが有名なので、ぜひ味わってみてください。
 ブムタン県を過ぎると、東西横断ハイウエーはトゥムシン・ラ峠(3,740メートル)を越えますが、上り下りが急で、切りたった絶壁の連続ですから、高所恐怖症の人は下を見ないほうがいいでしょう。途中に、この道路建設で命を落とした人たちの慰霊碑があり、心が痛みます。道路はシャクナゲ、針葉樹の森を抜けて行きますが、道沿いに目を瞠る滝がいくつもあり、ときには美しいジュケイやニジキジなどの鳥を見かけることもあります。高度が下がると、ブータンでもっとも人口が多い県の一つであるモンガル県に着きます。ティンプから450キロメートル旅したことになり、ここからが東ブータンです。
 東西横断ハイウエーはモンガル・ゾンに向かって再び上り始めますが、分かれ道で70キロメートル北上するとルンツィ県に到ります。この自動車道が1980年に完成するまでは、このブータン東北部のルンツィに到るのには、ブムタンからの馬道しかありませんでした。ですから、ルンツィとブムタンの間には、長い間にわたり文化的、歴史的な結びつきがありました。この辺りの風景は典型的な東ブータンのそれで谷は狭く、平地が少なく、村落は多くの場合、稜線上にあり、谷底に向かう斜面に棚田があります。森には、シダ類、そしてさまざまな種類のみごとな蘭が群生しており、主要作物はきびととうもろこしですが、その大半は家々で醸造されて東ブータン人の好むアラ酒となります。
 ルンツィの自慢は、クリ・チュ川を見おろす突き出した岩の上に建っている17世紀に建立された壮観なゾンが、織り手の技術の高いことでも知られています。また王家発祥の地でもあり、初代国王の父ジクメ・ナムギェルはルンツィのドゥンカルという村に1825年に生まれました。かれは15歳のときに親元を離れ、出世し、1870年にはブータンの実質上の支配者であるトンサのペンロプ(領主)となりました。現在では自動車道がありますが、わたしが1999年に訪れたときには、ルンツィ・ゾンから、王家の先祖の立派な館が2軒建っているドゥンカルまでは歩いて2日かかりました。ルンツィに織物の伝統が打ち立てられたのには、初代国王の王女アシ・ワンモの貢献があります。彼女は尼になりましたが、遺言で自分の貴重な織物コレクションを自らが数年過ごしたルンツィ・ゾンの上手のチャンチュプリン寺院に寄贈しました。今日でも、ブータンでもっとも高価な織物は、白地に色彩豊かで鮮やかな模様が織り込まれたルンツィ産のクシュ・タラです。ルンツィ以外で名の知られた織物の産地としては、南東部のペマ・ガツェル県と、タシガン県のカリンがあります。

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 東ブータンの中心地タシガンは、モンガルから92キロメートルで、東西横断ハイウエーでは3時間の道のりです。二つの川の合流点の高い絶壁に建てられた歴史的なタシガン・ゾンは、20世紀初頭まで東ブータンを支配する権力の中枢でした。今日タシガンは、東ブータンの主要都市です。ブータン最初の高等教育機関であるシェルプツェ大学は、ここから20キロメートル南に位置しており、広大で美しいキャンパスがあります。
 タシガンから北に53キロメートルでタシ・ヤンツエ県に着きますが、ここまでの道のりは景色がよく、途中に聖なる岩とお堂があるゴムコラ(第5章参照)と、ネパールのボードウナート・チョルテンを模して造られたチョルテン・コラの大きなチョルテンを通ります。ゴムコラの毎年のツェチェ祭には、インドのアルナチャル・プラデシュ州のタワン地方からも大勢の人が集ります。
 東西横断ハイウェーは次から次へと続くヘアピンカーブの連続で、ここに着くころにはドライブ疲れが激しいことでしょう(冗談ですが、ブータンでもっとも長い直線区間は、パロ空港の滑走路だと言われています)。ですから、自動車道路が行き止まりとなるここで車を降りて、のどかなブムデリン谷まで2時間のハイキングを楽しみましょう。ボブジカと並んで、ここは世界に5千羽しかいない絶滅危倶鳥オグロヅルの越冬地です。ツルは、10月末にここに渡って来て、3月末に夏の生息地である北中国に飛び立ちます。ブムデリンから北に1日行程のところにリクスム・ゴンパ僧院がありますが、仏伝を描いたここの壁画は、わたしが今まで見た中でもっとも美しいものです。タシ・ヤンツェ県は美しい漆塗りの木椀(第5章参照)で有名ですが、ブータン13伝統工芸訓練所もこの県にあり、スレート〔粘板岩〕彫刻、紙漉(す)き、仏画、金銀細工などが教えられています(第8章参照)。クシ・ヤンツェ県はまた、逃げ足の速いイエティ、すなわち雪男の生息地と信じられています。雪男の姿は今まで一度もカメラに捉えられたことがありませんが、この地方には雪男にまつわるすてきな話がたくさんあります。
 タシ・ヤンツェからタシガンに戻り、そこからハイウェーを180キロメートル南下すると、インドのアッサム州に接するブータン東南部の多湿な裾野に位置するサムドゥプ・ジョンカル県に到着します。ここからインドのアッサム、ベンガル平原を西に横切ると、八時間でブータンの南西部の玄関口プンツォリンに戻ります。
 こうして東西横断ハイウエーを旅すれば、ブータンの地勢、風景、気候、人種、言語、文化、伝統の非常な多様性をよく実感できるでしょう。

[近代ブータン]
 1974年の国王戴冠式の際、世界の視線はブータンに注がれました。初めて国際メディアがブータンに入り、見惚(みほ)れるほどにハンサムな若い国王が統治するお伽(とぎ)の王国として、世界の新聞雑誌に写真入りで紹介され攻した。戴冠後まもなく、国王はブータンの発展および進歩の指針・尺度は、国民総生産(GNP)ではなく、国民の総幸福であると声明しました。それは革命的な新しい概念で、当初多くの経済・開発の専門家は懐疑的でした。GNH(国民総幸福)はすばらしいキャッチフレーズだが、それを量る尺度、指標はあるのか、あるとすれば何なのか。多くの人々がいぶかりました。30年後の今日、GNH理念は世界的に注目されるようになり、世界中の経済専門家、計画担当者にとって、一つの新しいモデルとなっています。
 きわめてわかりやすくいえば、GNHの立脚点は、人間は物質的な富だけでは幸福になれず、充足感も満足感も抱けない、そして経済的発展および近代化は人々の生活の質および伝統的価値を犠牲にするものであってはならない、という信念です。GNHを達成するために、政策的にいくつかの優先分野が設けられました。繁栄が、国のすべての地域に、社会のすべての分野に共有される公平な社会経済開発、汚染のない環境の保護および促進、ブータンのユニークな文化遺産の保存および発展、民衆参加型の責任ある良い政治。これが国王の政策の基本的ガイドラインです。
 もっとも奥地にある村々の住民にまで医療と教育をおよぼすことにより、山間部および田舎を開発することが最優先されました。そして、地方の住民の生活を向上させ、新しい生計手段を生み出すために、交通および通信網の建設、牧畜・農業および関連工業の開発計画、伝統工芸の促進といったことが着手されました。

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 ブータンの環境保全措置は、近隣諸国が犯した過ちを反面教師として考案されました。国土に占める森林の割合が60パーセントを下回らないこと、環境を劣化させ、野生の動植物の生態を脅かす工業・商業活動の禁止などが、法律で定められました(第5章参照)。たとえば、ブータンの水力発電は、巨大をダムの建設により村落が水没したり、生態系に危害がおよぶことがないように、ダムを建設せずに、川の流れの落差を利用したものです。この厳しい制約にもかかわらず、ブータンの水力発電事業の収益率は高く、現在でも国家歳入の40パーセントを占めていますし、今後のブータンの経済発展と独立を保証するものです。環境および文化にたいする考慮から、大量の観光客を受け入れることには消極的ですし、銅をはじめとする豊かな地下資源の採掘も、人間および動植物の生息環境の破壊を招くので、控えています。
 ブータン独自のアイデンティティの源泉であるユニークな文化伝統もさまざまな法律により保護されています。たとえば、公式の場での民族衣装着用の義務(これによって、ブータンが誇る伝統的織物技術が生き続けます)や、公私を問わず、すべての建物における伝統的建築の意匠および規定の遵守(これはしかし、建物の内部に近代的設備、器具を設置することを禁じるものではありません)などがあります。伝統工芸の高度な水準も、政府および仏教界からの継続的な支援により、またゾンや僧院の大規模な修復、改装工事によって維持されています。
 精神文化は、政府を含め全国民一人一人の生活のあらゆる面に浸透しています。国直轄の僧院に在籍する僧侶の数は約5千名で、中央僧院によって選ばれるジェ・ケンポ〔大僧正、現在は第70代〕がブータンの精神的元首です。この21世紀になっても、僧侶は地域社会の生活の中で中心的な役割を果たしており、お祭りや年中行事を主宰し、民衆を指導し、助言と安らぎを与えます。国家に扶養されている僧侶以外に、民衆によって支えられている僧侶が、3千名ほどいます。さらにはゴムチェンとよばれる在家僧もいます。かれらは妻帯しており、普通の家族生活を営んでいますが、僧侶としての心得があり、法要や他の宗教行事を行うことができます。かれらはことに東ブータンに多く、村から村に渡り歩き、民衆の要請に応じます。僧侶は高度な教育を受けており、社会的にも非常に尊敬され、民衆の意見を大きく左右する影響力を持っていますから、公衆衛生、家族計画、エイズに関する知識の普及と予防といった分野において、非常に有能な社会活動家としての新しい役割を果たしています。
 GNH政策の成果は、具体的に次のような分野に見ることができます。1985年から2005年の間に、ブータン人の平均寿命は47歳から66歳にまで伸び、識字率は23パーセントから54パーセントに上がりました。現在、小学校の就学率は、全児童の89パーセントにまで達し、全国で病院が30、基本医療施設が176、教育施設は476あります。環境分野では、ブータンは動植物種の豊富さおよび自然資源の模範的な活用という面から、世界の10拠点の一つに数えられています。政策が実際に施行されているかどうかを国王自身が厳しく監視していることが、こうした成果をあげるのに大きく寄与しています。実際、国王は多大な時間を割いて、多くの場合徒歩で国中を回り、計画の実現状況を実地に検証し、民衆の声に耳を傾けています。ブータン人は誰でも国王に面謁を許され、直訴できます。
 国民参加型の責任ある政府作りという目標に向かって、国王は過去25年間に渡ってゆっくりとした、しかし堅実な歩調で、根本的な改革を着実に導入してきました。たとえば1981年には、各ゾンカク(県)に県内の開発優先事項を自ら決定する権限を与えるという地方分権および民主化を始めました。1991年には、この自治権限を各村のレベルにまで広めました。そして1998年には、国会(その3分の2以上は全国20県から選ばれた議員で構成されています)の強い反対にもかかわらず、自ら政府首脳の地位から退き、行政権を閣僚会議に委譲しました。さらには、国家の将来の安泰のために必須な安全装置であることを強調して、第3代国王の時代に認められ、その後いったん廃止された国王不信任動議提出権をあらためて与える法律を可決させました。そして2001年には、立憲君主制の下での選挙に基づく2政党制議会、国王の65歳退位(国王は2005年11月で50歳とならました)を柱とする憲法の起草が開始されました。憲法草案はすでに完成し、国民からの意見を求めるための説明会・公聴会が開かれています。2005年末から、国王は自ら全国の各県を回り、国民の意見を聴き、疑問点を晴らし、新憲法により、立憲君主制の下での議会制民主主義で、国民が自らの運命を決定する主権者とをることを説明しています。そして2005年12月17日の建国記念日に、国王は2008年に退位し、長男で皇太子のジクメ・ケサル・ナムギェル・ワンチュック[1980年生まれ〕が次代国王となり、新憲法の保護者となることを宣言しました。わたしは、歴史がドゥク・ギェルポ・ジクメ・センゲ・ワンチュックの治世にたいして、ブータンの「黄金時代」との判断を下すものと信じています。

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                    ○
 ブータンは、外の世界や21世紀を寄せつけないようにしているわけではけっしてありません。わたしたちは繁栄を欲していますが、今まで育まれてきた伝統と文化を犠牲にすることはできません。わたしたちは近代技術の恩恵を蒙りたく思っていますが、それはわたしたち自身のペースで、わたしたちの必要に応じて、わたしたちがそうすべきだと思ったときに実施しています。ですから、飛行場を建設し、定期飛行機便を就航させたのも1983年になってからですし、1974年に2百人だった観光客の増加も抑制し、2005年には1万4千人と徐々に増やしただけです。テレビ放送も1999年になってからしか導入しませんでした。このIT時代の、ますますグローバリゼーションの進む経済機構の中で、ブータンはいつまで独自のアイデンティティと高度に精神的な文化を保つことができるだろうか、と多くの人は疑問視します。わたしは個人的に、何の疑いも抱いていません。マニ車〔祈祷真言筒〕に納められる、従来は木版で手刷らされていた祈願文が、今ではコンピュータを使って巧みに印刷されているのを見ればわかるとおり、ブータン社会は、深く伝統に根づいていると同時に活気に溢れ、新しいアイデアを評価し、受容し、変容し、それをブータン流の生活の一部に取り込んでしまう並外れた能力を持っています。


[結 婚]
 1979年に、きわめて内々の儀式で、わたしと妹3人は国王の妃として娶られることになりました。これはブータンの伝統で、結婚はあくまで家族の私的な出来事であって、公にお披露目するものではありません。わたしたちの結婚は、王家とかつてのブータンの精神的統治者シャプドゥン・ジクメ・ドルジェとの結びつきから生まれた歴史的運命だったといえるでしょう。少なくとも、家のチョク〔法要〕で毎年唱えられていた父方の祖父の祈願の成就ではありました。長寿の女神ツェリンマに捧げられたその祈りは、自らの子孫から国王が生まれるようにと願ったものでした。
 公の結婚式はそれから9年経った1988年10月に行われましたが、それは国民からの強い要請に応えたもので、国中で祝われました。式は、わたしたちが19年前当時皇太子であった国王を初めて目にしたブナカ・ゾンで、ジェ・ケンポ〔大僧正〕と、もっとも尊敬された精神的指導者ティンゴ・ケンツェ・リンボチェ〔1910〜1991〕によって行われました。国王には、そのときすでに8人の子ども〔現在は10人〕がいましたが、かれらはわけがわからないまま結婚式に出席しました。その後3日間は全国で踊り、ゲーム、祝宴が催され、すべてのブータン人が招かれました。

[「タロの王様」と和解する]
 公式結婚式のすぐ後に、国王は歴史の過ちを償う勇敢な決断をしました。1931年にタロで私の父方の大叔父シャプドゥン・ジクメ・ドルジェが悲劇的に暗殺されてから、ブータン国王がタロに赴いたことはありませんでした。1988年に国王はこのタブーを破る時期が到来したと判断しました。彼の子どもは、暗殺されたシャプドゥンの血を引く子孫であるわけで、国王はタロ・ギェブとよばれるタロの強力な守護神の許しを乞い、和解を誓う決断をしました。僧侶や大臣たちは、このタブーを破ると崇りがあるのではないかと危倶しました。この重大なタロ行きを前に、私も恐怖におののきました。タロの守護神の乗り物は象なので、わたしたちは宝石をちりばめた金属製の立派な象を1対用意しました。これは国王からの奉納品として、私たちが赴く1日前にタロに届けられました。午後わたしは、スーツを着て帽子を被った背の高い男の人が、ベッドの頭板の脇に立ち、ほほ笑んでいる夢を見ました。そして夜の夢には、ノブガンからタロに続く丘の頂上に立って、後をついてくるようにとわたしをさそう、顔だちのいい僧侶が現れました。わたしは子どものときから、タロ・ギェプはときどき、スーツを着て帽子を被った男、あるいは僧侶の姿で現れることがあると聞いていました。ですから私は、この夢は翌日のタロ参りの吉兆と解釈しました。

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 1980年代には、タロまでは自動車道路が通じていませんでした。ですから、翌朝国王、子どもたち、妹たちとわたし、そして両親は、わたしたちが子ども時分に歩き慣れた昔からの山道を歩き始めました。雨が激しく降る中、馬は赤い粘土質の土で頻繁に足を滑らせました。馬に背負わせたタロ・ギェプヘの奉納品の中には、巨大な1対の象牙がありました。この滑りやすい山道を、馬が転げて大切を荷物がだいなしにならないように、5人が馬を引いたり、押したりして進みました。人と馬とが、びしょ濡れになって長い一列をなして上りの山道で苦闘している様子は、さぞかしおかしな光景だったことでしょう。タロが見えるようになってから、陽光が射すようになり、雨は霧雨すなわち吉祥の「雨花」となりました。
 タロ僧院に着いてすぐに、国王はタロ・ギェプ廟の中に1時間ほど籠もりましたが、わたしたちはその外で待機しました(ブータンの大半のお寺やお堂にはゴンカンとよばれる守護神の廟があります。守護神は多くの場合、武将の姿をしており、廟の中には鎧兜、盾、武具が奉納されています。女性は中に入ることが許されませんが、これはブータンではごく例外的な女性に対する規制です)。
 どの守護神にも、吉とされる数字があり、タロ・ギェプの場合は18です。守護神廟にお参りするときは、さいころを3度振り、出た目を合計した数字により吉凶を占うのが習わしです。国王がタロでさいころを振ったとき、出た目は最高のものでした。わたしたちはそれがブータン国王と「タロの王様」の和解の印であり、50年以上に渡った不和がようやく終わったと解釈しました。少し後になって国王が特注した1メートル近くもあるシャプドゥン・ジクメ・ドルジェの金像が、ティンプからタロにお練り行列で運ばれましたが、沿道にはそのご加護を求める人が並びました。ブータン史の、そしてわたしの家族の悲しい1頁は、こうして幸せに閉じられました。

[四朋獣図と六長寿図]
(一部省略)
 無垢のままの環境が残っているブータンは、南アジアではむしろ例外的です。ブータンの近隣諸国では、森林は伐採され、河川は濁り、幾種類もの動植物が絶滅し、山は採石や採鉱により傷つけられ、空気が汚染されました。それとは対照的に、ブータンでは森林面積が増えており、現在では国土の72パーセントを占めています。虎、雪豹、サイ、レッサーパンダ、オグロヅル、アカエリサイチョウ、ニジキジといった世界的にも珍しく、絶滅が危倶されている動物たちも、ブータンという保護された好適な生息地で繁殖しています。デリー、カトマンズ、ダッカ、バンコクといったこの地域の都市から、空路ブータンを訪れる人々が最初に目を瞠るものは、ブータンの澄んだ空気と、水晶のように透き通った河川の水です。
 動植物の多様性ということでは世界で十指に数えられるブータンには、2百20種類の哺乳動物と、7百70種類の鳥類が生息しており、そのうち72種類は世界でもっとも絶滅が危倶されているものです。植物も5千種類以上数えられており、その中には50種類ものシャクナゲ、20〜30種類の野生の蘭、そして伝説的な「青いケシ(ブルーポピー)」といったすてきな花があります。近隣諸国では、環境保護を目的とした法律や規制があるにもかかわらず、環境が破壊されたのに、どうしてブータンでは自然がよく保全されているのでしょうか。わたしは、それは人間と環境との関係が、ブータン文化の礎である精神的・宗教的価値観によって打ち立てられているからだと思います。同じことは、ブータンの開発計画、優先事項についてもいえます。序章で説明しましたように、ブータンでは経済的・工業的発展および商業活動が、環境を犠牲にして行われることはけっして許されません。ブータンでは、動植物の多様性を保全するために、全土の26パーセントが国立公園あるいは保護地域に指定されています。この地域には、貴重な鉱石、金属が埋蔵されていますが、その採掘は禁じられています。
 仏教の「生きとし生けるものを敬う」という教えは、ブータン人の信仰、風習に深く浸透しており、スポーツのために、あるいは食に供するために動物を殺すことにたいする強い抑制力として働いています。唯一殺生が許されるのは、わたしの父がノブガン村の庭で熊を殺したときのような自衛の場合です。それともう一つは、高地の過酷な自然状況の中で生活するヤク飼いの場合で、飼っているヤクの群れが生き延びるのに充分を食べ物がなくなったとき、年老いてもはや役畜(えきちく)として使えなくなったヤクを殺します。こうした場合を除いては、いかをる状況下でも殺生が禁じられている結果、問題が起こっていることも事実です。たとえば都市部での野良犬の増加がそうですし、野生の猪や熊による作物や果樹園の破壊は、農民にとって非常な損害で悩みの種です。この道徳的ジレンマは、未だ解決されていません。
 木にたいする尊敬――崇拝といえるもの――は、ブータン人の心に深く根づいています。ブータン人なら誰でも、ブッダの生涯での4大事蹟――ルンビニでの誕生、ブッダガヤでの悟り、サルナートでの最初の説法そしてクシナガラでの入寂――はすべて、1本の木の下で起こったことを知っています。わたしたちのノブガン村の裏手には森がありますが、村の決まりと慣習で、勝手に木を伐採することは禁じられています。たとえば誰かが家を建てる場合、村全体が協議し伐採する木材の量を決め、その量だけの伐採が許可されます。そして、新しい苗木がすぐに植えられます。森の利用に関してははっきりとした規定があり、家畜を放牧したり、ゼンマイ、きのこ、薬草、香草を採ったり、落ち葉、堆肥、そして薪用の乾いた小枝や細枝を集めるのは許可されています。しかし必要な量だけに限られています。というのは仏教では、節制を説くからです。また水源近くの木は、どんなことがあってもけっして伐採してはいけないことは誰でも心得ています。
 ブータン仏教のユニークな点は、木、森に限らず、山、川、湖、岩、洞窟、その他の自然の造形物にも神が宿ると信じる、古くからのボン教の要素を数多く取ら入れたことです。この本にはあちこちに、聖人、天使、悪魔の事蹟をとどめる湖、山、岩、洞窟の話が出てきますが、ブータン人以外の読者は、空想の産物として信じないでしょう。しかしブータン人にとっては、こうした聖なる風景は確たる存在感を持つ現実なのです。わたしたちは、こうした神々の神聖な住まいをかき乱したり汚したりすると、それにたいする神罰として、病気、不運、洪水、不作などがもたらされると信じています。こうした信仰は、共同体全体に影響をおよぼし、法的な規制に代わって、そうした行為がなされないようにする抑制として機能しています。

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 わたしたちのような農耕を基本とする社会では、宗教上の信仰、社会的価値および習慣、民衆の智慧の結晶が組み合わさって、生態系を害する行為が抑制され、人と自然環境の間に密接で調和がとれた関係が保たれています。手つかずの自然の美しさを愛でるのは、ブータン人の典型的な国民性です。ブータン人にとって、聖人や神にゆかりのある景勝地を訪れることは何よりの喜びで、楽しいピクニックと聖なる巡礼は見事に融合されています。休みになると、家族連れでこうした場所を何時間もかけて訪れます。これから、わたしがことに好きな4つの聖なる風景を紹介します(省略)。

[本当の幸せとは─これからのブータンと仏教]
 時間の制約から、次に近代生活、グローバリゼーションとよばれる世界市場経済、そして技術革新といった現象と、仏教との関係について、わたしの考えを述べさせていただきます。仏教の「無常」という考え方は、物事を膠着した静止的をものとはみなさず、恒久的かつ本質的な実体のない、絶えず変容する流動的なものだと認識することです。ですから、仏教的考えで育ったわたしたちには、どんな急激な変化も驚きではありません。しかし、わたしたちが懸念しているのは、わたしたちを駆ら立てている価値観の問題です。世界の人口の大半が、極度の経済的苦しみに直面していることからして、物質的発展が必要なことは自明です。と同時に、いわゆる「富んだ半球」である北半球でも、心配、不安、ストレスといった精神的苦しみが大きいことを考えると、精神的発展が必要なことは、それ以上に明白です。技術革新、世界市場化といった現象は、わたしたちの欲望および消費をますます煽(あお)り立て、わたしたちをいっそう官能主義的にしています。そうした中で、先進国、開発途上国とを問わず、世界の人々および政府はより良い生活と一層の幸福を確保しょうと努力しています。しかし皆様もお気づきのように、現在の経済の主流は個人が消費者であること、そして消費者が強力な支配者であることを正当化し、個人をその快楽に溺れさせています。こうした近代化の中では、人々はいっそう消費に走り、ますます消費の自由を追求します。市場にとっては、それが売り上げを伸ばし、拡張する唯一の道です。こうした近代化の理論は、一般には疑問視されることはありません。しかし仏教徒としては、はたしてそれが倫理的なものなのかどうか、本当の幸せをもたらすものなのかどうかを、考えねばならないと思います。仏教では、わたしたちが幸せで健全な社会生活を送るためには「四無量心」すなわち四つの無限の心、  第一に人に楽を与える慈無量心、  第二に人の苦しみをなす悲無量心、  第三に人の喜びを自分の喜びとして喜ぶ喜無量心、  そして最後に恨みを捨てる捨無量心、 この四つが必要であると教えています。現在進行中の近代化は、こうした仏教の理念に即した社会を実現する可能性を根底から覆すものなのではないのかと、自問せざるをえません。わたしたちブータン人は、本当の意味で開花した人間および社会を実現する、別な近代化の道があるのではないかと模索しています。本当に開花した人間とは、単に開発の主人公としての人間とは別物です。
 ブータンが心がけているのは、仏教に深く根ざしたブータン文化に立脚した社会福祉、優先順位、目的に適(かな)った近代化の方向を見いだすことです。最近になってGross National Happinessすなわち「国民総幸福」という指針が各国でも真剣に取り上げられるようになりましたが、これはすでに20年以上も前に現ブータン国王〔第4代国王、在位1972〜2006〕が提唱したものです。Gross National Happinessすなわち「国民総幸福」は仏教的人生観に裏打ちされたもので、わたしたちが新しい社会改革、開発を考える上での指針です。一部の人々は、仏教をはじめとする哲学的考察と、政治、経済は、異なった次元のものだと考えていますが、けっしてそうではなく、すべてが統合され、総合的に考慮されるべきものです。
 今日もっとも重要な課題は、西洋的政治・経済の理論と仏教的洞察との溝を埋めることです。仏教の活力と仏教社会の将来は、仏教の理想をどのようにして社会の進むべき方向、あるいは取るべき選択に肯定的に反映することができるか否かにかかっています。この意味において、仏教大学のような優れた大学は、貴重な貢献ができる立場にあると思います。
 これでわたしの話を終えさせていただきます。今日は長い間ご清聴ありがとうございました。最後にゾンカ語で、皆様にタシ・デレ〔吉祥あれかし〕、とお祈りいたします。

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6. 訳者あとがき
 本書は、Treasures of the Thunder dragon :A Portrait of Bhutan (Penguin Books India/Viking, New Delhi, 2006)の抄訳である。著者の承諾を得て、全3部のうち第1部、第2部のみを翻訳し、第3部は割愛した結果、邦訳は原著のほぼ半分ほどの量となった。そして最後に、著者が2004年秋に京都の佛教大学で行った講演の全文を加えた。
 参考までに記すと、原著の第3部「人と土地」は著者がブータン各地を旅した際の記録・省察であり、非常に興味深く、貴重な情報も多く含まれている。それゆえにブータンを深く理解するのには絶好の資料であるが、ブータンの一般的紹介を主目的とした本書の性格上、また紙幅の制約から省いた。
「本書を読まれる前に」で記したように、本書の第一部は、ブータンのかつての冬の首都ブナカの谷の小村に生まれた娘が王妃となるまでの半生を綴った自伝ともいえるものであるが、1人の女性の足どりというフィルターをかけた20世紀後半から21世紀初めにかけてのブータンの変遷・歴史そのものである。
 これにたいして著者の前著『虹と雲 王妃の父が生きたブータン現代史」(平河出版社、2004年)は、1925年生まれの父親の回想を聞き書きしたものである。父と娘という2世代の自伝的証言である両書は、ブータンの20世紀を理解するための最良の1次資料であり、併読を強くお勧めする。
 著者の半生は、はた目には「シンデレラ姫ものがたり」と映るであろうが、けっしてそうではない。著者は第2代国王ジクメ・ワンチェック (1905−1952)に暗殺されたかつてのブータンの最高権威化身高僧シャブドゥン・ジクメ・ドルジェ(1905−1931) の家系に生まれた。そのかのじょが、暗殺者の孫に当たる第4代国王(2人は偶然にも同年1955年生まれ)と結ばれることになったわけである。まさに奇縁であり、ここにブータン近現代史最大の軋轢、怨讐そして和解のドラマの一つが凝縮されている。
 著者は前著『虹と雲』で、それまでタブーとされ、誰1人として明言しなかったシャブドウン・ジクメ・ドルジェ暗殺という悲劇の実相を、勇断をもって白日の下にさらした。そして本書では、両家系間の怨讐を越えた婚姻の後、自らの夫となった第4代国王が、これもまた勇気をもってシャブドウン・ジクメ・ドルジェの怨霊を鎮め、和解に到った経過が述べられている。この慰霊および和解という行為は、ブータン人の生き方を象徴するものである。どの民族、どの国家にも、軋轢、怨讐はある。しかしブータン人には、大乗仏教の慈悲の精神に則り、それを乗ら越え、必ず和解に到るように努める寛容性、包容力がある。ブータン人と接する外国人の誰しもが感じる、かれらのおおらかさ、明朗さの理由の一つは、ここに求められるであろう。
 世界各地で、王制を不満とする民衆による民主化運動により王制が打倒されるというのが、第2次世界大戦後の趨勢であり、王制はもはや政治的「絶滅危惧種」とさえいわれる。その中にあってブータンの場合は、国民のほぼ全員が国王親政の継続を願うにもかかわらず、国王自らがそれに終止符を打ち、主権在民の立憲君主制へと移行することになった。これはまさに特筆に値する例外である。この伏線は、1950年代に自らのイニシアティブで国会を設立し、1970年代に国会に国王不信任動議提出権を与えた第3代国王ジクメ・ドルジェ・ワンチェック(1928−1972、在位1952-1972)に遡る。この動きを継承して第4代国王は1972年の即位以来、「ブータンにとって従来の世襲国王親政が最良の政治形態であるとは思わない」と繰ら返し述べ、自らの権限を徐々に政府に委譲してきた。そして政党議会制による立憲君主制を国体とし、国王65歳定年制といった革新的項目を含む新憲法の草案を作り、2006年末に51歳の若さで皇太子に譲位した。それを受けて2008年春には最初の総選挙が行われ、国民選出の最初の政府が誕生する予定である。新しいブータンの幕開けである。これは第4代国王の最大の業績であり、ブータン人の記憶に長く記し留められることであろう。

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 国内だけに留まらず、対外的、国際的にも第4代国王は大きなインパクトを与え、注目される。それは、Gross National HappinessすなわちGNH(国民総幸福)という標語・理念によってである。第2次世界大戦後ますます顕著となりつつある、経済発展を至上価値とする資本主義経済の趨勢の中にあって「我が国にとって最も重要なのは、GNP(Gross NationalProduct・国民総生産)ではなく、GNH(国民総幸福)である」と宣言し、伝統文化・国民福祉の促進、環境保全を最優先しつつ、独自の近代化政策を貫いたことは高く評価されている。そしてGNHは、地球温暖化、環境破壊、グローバリゼーションといった未曾有の問題に直面する世界の、今後のあり方を考える上での一つの新しい理念・指針としての地位を獲得しつつある。GNHの提唱者である第4代国王自身は、30年余におよんだ治世の間に、類い稀な先見性をもってブータンの近代化、民主化、GNHのめめに一連の改革的政策を敢行したが、GNHについて語ることはほとんどなかった。本書は、妃である著者が国王に代わってGNHの基本的なあらましをわからやすく説明したものとしても、他に類を見ないものであり貴重である。
 夫君である第4代国王の2006年末の譲位にともない、著者は王妃ではなくなった。それゆえに、王妃としての公的任務・職務はなくなったが、著者は自らが設立した夕ーラヤーナ財団の総裁としてまたブータン王立大学の名誉総裁として今までと変わらず活動的な日々を送っておられる。クーラヤーナ財団は、山間部で恵まれない境遇にある人たち?ことに老人と青少年?の生活・就学援助をその主目的として活動を展開しており、本書の印税もその活動資金にあてられると聞いている。
 著者は、邦訳出版をご快諾くださり、日本語版によせて一文をしたためてくださった。さらには私的なアルバムから数枚の写真をご提供いただき、いくつかの質問にも快くお答えいただいた。
 映像のデジタル資料の入手および地図作製に関しては、国立ブータン研究所長カルマ・ウラ氏にご助力いただいた。
 邦訳が順調に刊行できたのは、NHK出版の後藤多聞、井口志保、松原あやか3名の理解と周到な編集作業および進行のおかげである。
 記して深甚の謝意を表するとともに、本書が日本におけるブータン理解の一助とならんことを切に望む次第である。
 タシ・デレ(吉祥あれかし)
 2007年8月、テニウ(フランス)にて                                    今枝由郎

7.
 著者・訳者紹介
[著者紹介] ドルジェ・ワンモ・ワンチュック  Dorji Wangmo Wangchuck
 第4代ブータン王国ジクメ・センゲ・ワンチュックの王妃。1955年ブータン王国ブナカ県、ノプガン村に生まれる。インド西ベンガル州・ダージリンで教育をける。ブータンの歴史・伝脱・民間伝承の研究に深い関心を寄せるかたわら、ブータン国内遠隔地への教育・医療面での支援活動を続ける。前著に、王妃の父の話を通じて家族の歴史を描いた『虹と雲 王妃の父が生きたブータン現代史』(平河出版社)がある。

[訳者紹介] 今枝由郎  Yoshiro Imaeda
 1947年愛知県生まれ。大谷大学文学部卒業。パリ第七大学国家文学博士号修得。1974年からフランス国立科学研究センター(CNRS)に勤務。研究ディレクーター。1981〜1990年ブータン国立図書館顧問として、ブータンに赴任。現在フランス在住。主著書に『ブータン仏教から見た日本仏教』(NHKブックス)、『ブータン 変貌するヒマラヤの仏教王国』、『ブータン中世史』(以上大東出版社)ほか。主訳書に『ダライラマ 幸福と平和への助言』(トランスビュー)、『サキャ格言集』(岩波文庫)、『ブータンの民話と伝説』(白水社)ほか。

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8. この本を読んで
 ブータンについて日本人の書いたものは読んだことがありますが、ブータン人が書いた本は初めてです。しかも前王妃の書いたものですから、国として大事なことが書かれています。同じ仏教国とはいっても、違うことの多さに驚かされます。
 本の口絵にある写真も貴重だと思います。また、各ページに印刷された図柄も印象的でした。珍しい本を紹介してくれた友人にも、この場を借りて感謝したいと思います。

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[Last updated 6/30/2012]