スピルバーグは甘く危険な香り

「プライベート・ライアン」は,本当に反戦映画か?

-美術批評誌[INFANS]より転載-


 昨年の秋に公開され,大ヒットした「プライベート・ライアン」.「戦争はいけない!」と真面目に感銘を受けた方.いやいや,「反戦映画としては甘すぎる!」とお怒りの方.このどちらかの反応をする観客が多かったようですが,まじめに反戦映画として捉えている感想を聞くにつけ,「さすがはスピルバーグ.映画作りのプロだなあ」とつくづく感心してしまうと同時に,その反面「スピルバーグは危ないヤツだなあ」と心配したりしてしまうのです.スピルバーグほど甘く危険な作品をつくる監督はいないだろう.少し長くなるが,ここではその理由を語ってみたい.

 そもそもスピルバーグはなぜ映画を撮るのか.彼が映画でやりたいことは二つ.「暴力」と「ヒューマニズム」の描写.「激突」「ジョーズ」のころから,ヒューマンなタッチと同時に,彼の作品の中には激しい暴力描写が常に存在している.デビューの頃から最近作「プライベート・ライアン」まで,彼のこの二つの興味は一貫している.変化したのは,作劇的なものからドキュメンタリー的なものへと変わっていった手法.
 この手法の変化は,スピルバーグには大きな意味がある.それは,「暴力描写」と「ヒューマニズSpielberg in  Saving Private Ryan 1ム」を盛り込んだ,かつての彼の作品は,常に「子供だまし」「大人の鑑賞に耐えない」といった批評を浴びせられた.あの興行新記録を出した「E.T.」でさえもそういった批判で否定をされた.そこで,彼は心に誓った.大人の鑑賞に耐えるヒューマニズム作品をつくろうと.そこから,「カラーパープル」「太陽の帝国」の文芸路線が出てきた.しかし,それは「暴力描写」と「大人のためのヒューマニズム」の融合においてまだ完成されたものではなかった(アカデミー賞も取るに至らなかった).どうしても,彼の体にしみこんでいた作劇的な手法が「暴力描写」と「大人のためのヒューマニズム」の融合の邪魔をした.そこで,何本かの試行錯誤の後,彼はその呪縛から逃れることに成功した.それが「シンドラーのリスト」である.その融合を果たすことが出来た手法こそがドキュメンタリータッチだったのだ.「プライベート・ライアン」は,「シンドラーのリスト」より一歩進んで,ドキュメンタリータッチの中に作劇的なタッチも取り入れることに成功している.これは,スピルバーグが本当の意味で作劇的なタッチから解放され,ドキュメンタリータッチと作劇的なタッチを自在に扱える監督になったことを表していると言えるだろう.
 スピルバーグは,「E.T.」以後,「大人のためのヒューマニズム作品」の形を模索を続けるとともに,「レイダース・シリーズ」「フック」「ジュラシック・パーク」などの「子供のためのヒューマニズム作品」も撮り続けた.現在,彼のその両方の路線をつくれる監督となり,巨匠という名をほしいままにしている.(しかし,彼の作劇的なタッチは細やかさを失い,「子供のためのヒューマニズム作品」において「E.T.」以前のような娯楽作品をつくりあげることが出来ない監督になってしまったが).そして,ここ最近のスピルバーグの作品を振り返ると,「大人のための作品」においいても,「子供のための作品」においても,アトラクション化が進んでいることに気づかされる.これは,作品を当てなくてはビジネスとして成立せず,大作を完全に自由に撮り続けるためにはやむを得ない方策なのだろう.もともと,エンターテーメント指向の強い監督だから,そういった作品を撮ることはそれほど苦痛なことではないと思われるが.そんなわけで,スピルバーグの作品を観るとき,「暴力」「ヒューマニズム」「アトラクション」の三つをキーワードとすると,とても観やすくなる.

 そこで,「プライベート・ライアン」について話を戻すと,この作品も,今挙げた三つのキーワードの要素を成立させるためにつくられていることが容易に分かるだろう.
 では,「『プライベート・ライアン』が反戦映画なのか」について考えてみよう.結論から先に言うと,お察しの通り,私の答えはNOだ.そのことは,「プライベート・ライアン」を批判する観客の反応を見るとよく分かる.彼らの感想を大まかにまとめて書いてみるとこうだ.

・ストーリーが破綻している.
・アメリカ兵の視点からでしか描かれなく,アメリカ万歳映画になっている.
・冒頭とラストの墓参りのシーンが戦闘シーンと噛み合っていない.
・リアルな映像を駆使しながらも,結局,お涙頂戴映画にまとめてしまった.

 他にもまだまだあるだろうが,実際,これらの批判はすべて当たっている.これらの批判はどれも,反戦映画としての体裁が単なるお飾りに過ぎないことを指摘している.スピルバーグ作品のボロを見抜いてしまったと言ってもいいだろう.
 では,「暴力」「ヒューマニズム」「アトラクション」の三要素を取り込みつつ,もっと真面目に反戦映画をつくればいいじゃないかと思う人もいるだろう.しかし,彼は意図的にそうした作品をつくらない.その答えは簡単.優れた映画監督なら誰でもそうだろうが,自分の興味ないショットなど撮る気がしないのだ.説明的なショットなどの興味のないショットを撮るのは最低限に抑えたい.そう考える.つまり,「反戦」などにスピルバーグは本当は興味がないのだ(彼のインタビューを真に受けた人は大概惑わされてしまっているようだが).だから反戦映画として,「プライベート・ライアン」の良し悪しを議論することはあまり意味がいないのだ.この作品をアトラクション映画として「タイタニック」よりよかった,よくなかったという感想の方が意外に的を得ているのです.

 だったら,メッセージ性の弱い純娯楽作品を撮ればいいじゃないか.「ジュラシックパーク」「インディ・シリーズ」みたいな作品だけを撮っていればいいと.下手に反戦映画とか人種差別の作品とかを題材に選ぶのが誤解を生むんじゃないかと思う人もいるだろう.でも彼は,好んでメッセージ性の強い作品も撮る.なぜか.
 これに対する答えは簡単.先述したように,それでは,「E.T.」までのスピルバーグと同じ「子供だまし」の評価した与えられないから駄目なのだ.スピルバーグは,映画を通して愛されたいのだ.「E.T.」までの厳しい評価で彼が受けた傷はトラウマとなり,「E.T.」以後の彼の作品は,それを乗り越える闘いだったのだから.Spielberg in  Saving Private Ryan 2

 そんな訳で,「プライベート・ライアン」を反戦映画と呼ぶのは,あまり意味がないということがお分かりいただけただろうか.反戦メッセージは,「暴力」を正当化する見せかけに過ぎない.温かいミラー軍曹のキャラクターも,スピルバーグの「愛されたい」と願うがための見せかけに過ぎない.アパムや神に祈りながら狙撃するスナイパーなど矛盾を内包するキャラクターも,「大人ためのヒューマニズム」に仕上げるためのギミックなのだ.単純なキャラクターでは大人は騙されないことを彼は知っているのだ.しかし,そんなまやかしに惑わされてはいけない.「プライベート・ライアン」を反戦映画として捉え,感動したり文句を言ったりして議論を重ねていくことは,彼の術中にどんどんはまっていくことに他ならないのだ.
 これで,私がなぜスピルバーグを評して「甘く危険な監督」と言うのか分かって頂けただろうか.オリバー・ストーンのように真面目に観客を洗脳することもできず,ヴァンホーベンのように正面から暴力を描くことに徹することもできない.しかし,語り口の巧みであるがゆえに,彼の信者は今後も増えることは間違いない.社会は,彼がヒットメーカーである限り,この危険な確信犯的詐欺商人を野放しにしておくだろう.
 けれども,私はそんなスピルバーグを愛していきたいと思うのです.自分の才能を十分に発揮しつつも愛されず,それを乗り越えようと努力している彼を認めてあげたいのです.才能ある監督には,自由に作品を撮ってもらいたい.だから,もう彼の布教活動を真に受けるのは止めるのでなく,ただただ彼を優しく愛してあげて欲しいと私は願うのです.



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