碓氷峠文学散歩道


ひなくもり 碓日の坂を 越えしだに 鉄路恋しく 忘れえぬかも

2003年の年頭に、このような替え歌をトップページに掲示したので、 勉学に勤しむ受験生が間違って覚えて試験に臨むといけないので、以下に元の歌とその意味を記す。 ついでに、碓氷峠を詠んだ一連の作品と碓氷峠近辺に存在する歌碑や文学について調べてみたので紹介する。
碓氷峠には、古くは日本書紀や万葉集の時代から、中世、中山道時代、夏の軽井沢の文士たちの近代文学の時代まで、 他の地域に比類無いくらい多くの歌碑や文学碑、碓氷峠を頂点とした山麓に多くの文学作品が残されている。 ここに紹介するものは碓氷峠付近のものに限っている。
鉄道ファンの皆さんも、天気の良い日には、車を降りて山路を歩いて詩情に浸ってみては如何でしょうか。




碓氷峠の呼び名の起源について

『万葉集』では「宇須比」と訓じているし、『和名抄』では碓氷郡の訓としておなじく「宇須比」である。 また『日本書紀』の景行天皇紀では「碓日坂・碓日嶺」とあり、ウスヒを示している。 比較的古い時代の文献にウスヒが多いとすれば、まずウスヒから考えてゆかなけれぼならない。 『上野志』という江戸時代中期頃の地方誌によると、碓氷川の説明に、 「源鼻曲山の麓なり。 此所水たまり侯処あるなり。 東南向にて日向故日当能き所なり。 如何様の寒き時にも薄い氷なり。 依りて名づけしと。」 と説明し、ウスヒはウス(薄)ヒ(氷)だとしている。 またウスヒは薄陽ではないかということが考えられる。 関東平野の平坦部から一気に信濃国の高原になるいわば陸上の階段のような碓氷峠は、気流の関係から暖く 熱せられた気流と、冷えた気流との関係で濃霧の発生することで知られている。碓氷峠の東北一帯を霧積山 と称し、霧積温泉のあることでも知られている。 この霧積という地名がいつ頃からあったかはっきりしない。 しかし、この峠一帯がガスの発生しやすいところであることは現に知られている。ガスの多発地として昔か らそうであったから、つぎの日本武尊伝説が発生Lたのである。峠の熊野神杜の縁起によると、日本武尊が この峠を越えようとしたところ、山の神が邪魔をし、雲霧が立ちこめて一寸先も見えなくなった。そのとき、 紀伊国熊野の八沢烏が現われ、朴(ほう)の葉をくわえて尊の前に落としながら道案内をし、ぶじに峠の頂上 に出られたというのである。(二六〇貫、広説の項参照) この話も、碓氷峠一帯がガスの発生地であることが背景になっている。ガスが発生すれば太陽すなわち 「ひ(陽)」は薄く見える。そのために薄日の山といわれたのではないかということも考えられる。 もとはウスヒで、ウスイとはいわなかったとすれぼいっそうウスヒに起源をもとめなくてはならない。 とすれぼ、薄陽説も一つの根拠にはなる。                (萩原進著 碓氷峠 より)

 碓氷峠近辺は確かに霧が多い。昔、霧積山塊の鼻曲山に登った時も霧に囲まれて山頂で一夜を明かしたことがある。 また、国道18号旧道の碓氷峠や碓氷バイパスを車で走っていて、数メートル先も見えないような濃い霧に取り囲ま れた経験をお持ちの方は多いと思う。何となく薄氷説より薄日(ウスヒ)説のほうが実感が湧く。  余談であるが、このように地名一つであっても名付けられた根拠があり、古来より伝えられて来たものである。 昨今の自治体合併の流れで、古来より伝えられてきた歴史有る地名を安易に捨て去って良いものだろうか。 合併による地名の改名は古来より伝えられてきた一つの文化を破壊するに等しい行為である。合併奨励の中で地名 文化に対する保護のあり方も議論していく必要がありそうである。





万葉集に見る碓日嶺(碓氷峠)


万葉集は、我が国最初の歌集で八世紀中頃の編。
碓氷峠は古くは、宇須比、碓日嶺などと表記されていた。


日の暮れに うすひの山を 越ゆる日は 背なのが袖も さやに振らしつ
 (巻第十四 東歌 三四〇二 詠み人知らず)

現代語訳: 日の暮れ時に、碓氷の山の峠を越える日に、我が夫が、別れの時に目につくほどはっきりと袖を振っていた。
峠を越えて去ってゆく夫を慕う妻の心情を表している。



ひなぐもり うすひの坂を 越えしだに 妹が恋しく 忘らえぬかも

  (巻第二十 四四〇七  他田部子磐前 「おさたべの子いわさき」と読む)
現代語訳: ひなくもり(碓氷を導く枕詞)碓氷の坂を越える時は、国へ置いてきた妻のことが恋しくて忘れられない。碓氷峠越えの別れの恋歌。



上記、二首の歌碑は、旧碓氷峠見晴台入り口にある。昭和42年に軽井沢町が建碑。副碑に解説がある。
「ひなくもり」の歌は、碓氷バイパス頂部の路傍にある碓氷バイパス開通記念碑にも中曽根康弘氏筆のものが彫られている。
(ここは車を止めるスペースが少なく交通量も多いので注意が必要。)





碓氷峠数字歌碑


八万三千八 三六九三三四七 一八二 四五十三二四六 百四億四六

(山路は 寒く淋しな 一つ家に 夜ごと身にしむ 百夜置く霜)

碓氷峠熊野神社前より右へ100メートル、谷の中腹。建碑年不詳、現存は四代目とか、初代は寛永年間建、
江戸時代の市川団十郎の作、あるいは板東三津五郎の作とも言われている。 武蔵坊弁慶の歌碑とも言われている。




関橋守歌碑


ありし代に かへり見してふ 碓氷山 いまも恋しき 吾妻路の空

碓氷峠熊野神社より右へ50メートル、碓氷川水源上の路傍。安政6年夏、本人建碑。橋守は、榛名町下室田の国学者、歌人、明治16年没。




相馬御風歌碑


なりなりて おのの清かる 高山の 氷にうつる 空の色かな

碓氷峠碓氷川水源池傍。安政6年夏、昭和18年建碑。御風は、新潟県出身の詩人。




曽根出羽歌碑


四四八四四 七二八億十百 三九二二三 四九十四万万四 二三四万六一十

(よしやよし 何は置くとも み国ふみ よくぞ読ままし ふみよまむひと)

碓氷峠熊野神社右下駐車場すみ。昭和30年、子孫が建碑。出羽は神主近世末期の人。






北原白秋歌碑


碓氷嶺の 南おもてと なりにけり くだりつおもふ 春の深さを

碓氷郡松井田町横川駅南側の東軽井沢ドライブイン(現在は廃業)の庭にドライブイン経営者が昭和42年に建碑。
白秋は福岡県出身の詩人・歌人、昭和17年没。現在も碑が残っているかは不明。。



杉浦翠子歌碑


のぼる陽は 浅間の雲を はらひつつ 天地霊あり あかつきの光

碓氷峠熊野神社境内。昭和42年藤波会建碑。翠子は川越生まれの歌人、昭和35年没。





芭蕉句碑


ひとつ脱て うしろにおひぬ 衣かへ

碓氷峠の麓、松井田町坂本宿の西はずれ、八幡宮の入り口近くの道路北側にある巨大な自然石の句碑、寛政3年頃建碑。


馬をさへ なかむる雪の あした哉

碓氷峠に近い旧軽井沢宿の東はずれにある自然石の句碑。天保14年建碑。
雪の中を馬子に引かれて峠を行き帰りした馬が点景となっている。































参考資料;
 碓氷峠  萩原進著    歴史と風土H 昭和48年発行 有峰書店 
 群馬県の文学碑        昭和46年発行 みやま文庫

BG Photo; 碓氷峠見晴台(サンセットポイント)からみた群馬県側 旧中山道の山路が通う山並みは古来と変わっていない。




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