碓日嶺鉄道碑



 この碑は数ある鉄道碑のなかでも最古最優のものといわれている。 碑文の内容について、八木富男著「碓氷線物語」(あさお社刊)の解説の一部を以下に紹介する。

碑文は明治の大学者重野安繹の撰文であることとて、名文流麗であり、その道の専門家でなくては正しく解読することが困難である。 よって東京教育大附属高校教諭 中川浩一氏の訳文を掲載させていただくことにする。

       碓日嶺鉄道碑
  陸軍大将従二位勲一等伯爵山県有朋篆額

 碓氷領は、信濃国と上野国の境にそびえたっている。奥州山脈がながながと西南にのびて、わが国の背骨をかたちづくって信濃国に至り、重なりあって高山地域となっている。 碓氷の地はその東の境にあるために、その険しさは五幾八道の中に比較するものがないほどである。
 明治になって鉄道が各地に敷設され、東京から上野国、信濃国を経て越後国直江津に達する鉄道が計画されたが、碓氷峠のある横川・軽井沢間の数哩の問だけはどうすることもできなかった。
鉄道庁もしばしば技師を派遣して測量したが、施工をあきらめる状態であった。二二年になって、入山・中尾山・和美峯の三つの経路が得られたが、入山は工費は少ないが地形がけわしく、和美は地形はおだやかだが工費がかさむことが判った。
中尾は地形も工費も前二つの中問でしかも路線は最も短い。
 これらについて、利害損失をいろいろ考えた結果、中尾経由と定まったのである。


   −−−中略−−−


橋は一八、碓氷川にかけたものが最も規模が大きく、三つの橋脚を煉瓦でつくり、アーチ形の経間は六〇余呎に達している。それらはちょうど長い虹が深い谷間にかかっているようにみえ、すばらしい眺めである。 二六年一日二二日アプト式機関車を用いて試運転を行った。アプトはドイツ人で、かつてドイツ国ハルツ山に鉄道を敷くにあたって、けわしい地形に適応させるため、この形式をとったのである。
今から僅か八〜九年前のことであり、他国ではまだあまり用いられていません。
 工費はおよそ二〇〇万、技師は本間英一郎、監督技師は吉川三次郎・渡辺信四郎であり、技手の井上清介・佐藤吉三郎・林通友が助けている。
わが国のけわしい坂道に鉄道を敷いたのは、これが最初である。思えば碓氷峠のけわしさは天が造ったものであり、真に天下の険であった。 進んで切り開かねば、どうすることもできないところである。
 さきごろ軽井沢に住む佐藤万平・小川勇二などがこの大事業を碑に刻んで世に伝えようと考え、川上陸軍中将を頼って私のところに来て、文を書くことを依頼してきた。
私もこの工事が全国の標準になるのを喜び、さらに鉄道が人びとに大きな恵みをあたえることを考えて引きうけたのである。
 失った妻を思い出し、はるか彼方を眺めてなげき悲しんだ古人は今はどこにいるのだろうか。けわしい峠道のために旅人を苦しめたこの土地も、今は開かれて砥のようになり、そこを汽車が矢のように通っている。 これによって物産は開かれ、文化は交流し、長く後の世まで続くことであろう。

明治二六年四月   

従四位勲四等文学博士 重野安繹撰




皮肉なことに、今日、矢のように通っているのはモグラ新幹線のみとなってしまった。 先人が、長く後の世まで続くことであろうと碑に刻んだ峠の鉄路が廃止され、地域文化の交流が阻害されるようになったのは、大変残念なことである。

碓日嶺鉄道碑は明治二六年、軽井沢駅頭に建てられたが関東大震災で倒壊した。昭和一五年に復元模造碑が軽井沢駅前わきに再建されたが、当初のものは草むらに放置されていた。これを発見した当時の横川保線区長、小山五郎氏が熊ノ平に移設した。 現在、熊ノ平駅上り線ホームの山側に古レールとコンクリートで補強されて建っている。

尚、熊ノ平駅構内は、めがね橋や丸山変電所と同様、一般者の立ち入りは禁止されている。トンネル通路のゲートも通常は閉ざされている。将来的には、熊ノ平周辺を公園化することも考えられているようである。碑文を見たい方は、軽井沢駅近くにある復元模造碑での観賞をお奨めする。

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