戦国時代の山城 松井田城

    

松井田城北側

昭和37年に廃止された旧松井田駅の北側に連なる山の尾根には、戦国時代の山城である松井田城が築かれていました。
松井田城についての書籍を調べると以下のような記述がありました。一般に広く行き渡っている書籍ではないので、目にする機会は無いと思います。貴重な文献の一部をここに紹介します。 誤植と思われる部分は原文のままとしました。
松井田城には以下のように五つの時代がありました。

  ①青竜山松ヶ枝城 → ②安中氏の時代 → ③武田氏の時代 → ④織田氏の時代 → ⑤北条氏の時代
    1262年(伝説?)   1566年落城     1582年武田氏滅亡     撤退放棄     1590年落城



1.青竜山松ヶ枝城 (青竜山霞ヶ城)
  伝説によれば、松井田城は北条時頼が諸国を巡検の折、烏泊村(現在の烏留地区?)から北の方にこの山波を見て、
  「竜が雲に浮かぶ如し」として、その霊気ににうたれ、その家臣青砥左衛門藤綱に命じ、弘長二壬辰年(1262年)
  築城させ、青竜山松ヶ枝城と名付け、水の手が欲しいので信濃の国諏訪大明神より大荒目尊を勧請し、碓村神社を
  創建したといわれる。

 
↑ヘッダー部の写真は、高梨子側から見た松井田城趾
  写真中央部手前の山から尾根までが松井田城趾
  奥に見える尖った山は妙義山
 
 
 ← 烏泊村(現在の烏留地区)から眺めた松井田城跡
 中央の尾根が松井田城跡
 (アートフィルター使用)
 北条時頼が「竜が雲に浮かぶ如し」と言った霊気が
 感じられるでしょうか?






2.安中氏
  長享元未年(1487年)越後国新発田から安中出羽守忠親、伊賀守忠清がやってきて、兄忠親は松井田に住み、小屋城
  を修築、弟忠清は原市に榎下城を築いて住んだ。この子越前守忠政は永禄二巳年(1559年)   安中城を築き、その子
  左近太夫忠盛をここに住まわせ、忠政は忠親の跡を継いで小屋城に入った。忠政は、小田原北条氏の配下にあった
  ので小屋城は信州方面への守りを主にして小屋城を改築していった。
  当時の城下町は高梨子で、現在も高梨子には立町、横町、水組、百人町、与力町などの地名が残っている。
  城は高梨子と新堀の境の丘陵を数郭に分けたもので安中曲輪と呼ばれる「東の御殿」とその東の郭とを築いたものの
  ようである。
  永禄9年(1566年)武田父子の率いる大軍に攻め立てられ遂に忠政は切腹を命ぜられ、安中氏による支配は終わり
  をつげた。
  この戦いで安中勢はせいぜい6~700人と思われるので城の規模もそう大きいものでなく、安中曲輪といわれる
  「東の御殿」と、その東の郭から成っていたものであろう。


3.武田氏
  安中氏を攻め落とした武田勢は、ここに小宮山丹後守をおいて支配させているが、箕輪城という大きな勢力に備えて
  のつなぎの城としての役目しかなかったために、さほど重要視されずにいたので、城は拡張もされず、小修復が繰り
  返されていたのみと思われる。 
  天正10年(1582年)武田氏は天目山で敗れ滅亡した。


4.織田氏
  武田氏に代わって織田氏の勢力下に入り、滝川一益が厩橋城に入るや、その寵臣津田小平冶政秀を松井田城において
  信濃の国との連絡にあたらせたが、天正10年(1582年)6月に本能寺で信長は討たれ、滝川一益、津田小平冶
  ともども上州から引き上げてしまった。


5.北条氏
  引き上げて行く織田軍を追って北条氏の家臣大道寺駿河守政繁が松井田城に入るや、天正11年より北条氏の西辺の
  守りの地として大きな築城にかかった。
  本丸、二の丸を築き、さらに本丸の西方に防御戦をひろげ、西の主尾根に五~七条の堀切があり、如何に西方からの
  攻撃に備えたかがわかる。
  二の丸には東北隅に虚空蔵を祀る小社があり、1月14日が祭日になっている。
  本丸は二の丸の西側にあり、東西に長い。
  (展望状況から見て本丸と二の丸は逆になるのではないかという意見もある。)

  東北にのびる尾根にもいたるところに堀切を作って要塞堅固の城としたが、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原
  征伐に東山道軍の前田・上杉さらには信濃軍の猛攻の前に落城した。
  落城以来、松井田城は夏草の茂にまかせ、城下町であった高梨子もやがて中仙道が松井田村を通ることにより繁栄は
  失われた。しかし、草木の茂るままになっていたため、城跡は大道寺氏築城のまま残り、群馬県下で原形を残す最大の
  山城として最も貴重な存在である。


     (1~5までの文章は「松井田町の文化財」昭和49年刊から引用)



 

国道18号線松井田バイパスから高梨子に抜ける山道の途中に松井田城趾入り口があります。入り口の脇に「松井田城趾案内板」が立っています。案内板は汚れてひび割れていましたが、松井田城の詳細な縄張り図が書いてあります。大道寺駿河守政繁が修築した大規模な山城です。
縄張り図は、山崎一氏著「群馬県古城塁跡の研究」下巻にある図面を元に松井田町が作成したものと思われます。

案内図のpdfデータはこちら





松井田城遠景

空から眺めた松井田城跡   松井田城は中央部の尾根の東西と奥(北側)へ続く三筋の尾根に築城されていた。

 


松井田城全体

松井田城跡の拡大   正面の山の尾根から奥に見える高梨子地区までが城跡

 

 


松井田城高梨子

松井田城跡を西側上空から見る   左側(北側)が高梨子地区、右側(南側)が松井田地区、手前の山の下を貫くのは天神山トンネル

 


松井田城高梨子拡大

高梨地区側の拡大   松井田城の時代には高梨子が城下町であった。

 


松井田城ゴルフ場

松井田城趾の東側の眺め   東側はゴルフ場が出来て開発されてしまっている。広大な松井田城は戦国時代のままの姿で保存していただきたい。

 


松井田城紅葉

松井田側上空から見た紅葉の時期の松井田城跡   中央部のトンネルが天神山トンネル、山の中腹の道路は国道18号松井田バイパス

 


城跡地図

松井田町付近の城跡地図
城郭放浪記の上野・松井田城に掲載された地図を引用

 

 


北条氏の落城日

秀吉の小田原征伐のときの北条方の落城日(歴史街道2011年6月号記事より引用)
豊臣秀吉の命で前田利家、上杉景勝、真田昌幸らを中心とする北国勢約3万5千が松井田城を攻撃したが、総攻撃でも落城せず持久戦となった。しかし約1ヶ月間持ちこたえた後に大道寺駿河守政繁は降伏して開城した。地元の通説では、山城なので水を止められたことが致命的だったと聞く。

 

 

大道寺駿河守墓所

松井田町の補陀寺(ほだいじ)にある大道寺駿河守政繁の墓所

政繁は、降伏開城した後で豊臣方の先鋒となり北条方を攻めたが秀吉の命で切腹させられたという。そのため後世の評価は分かれているが、前田利家、上杉景勝、真田昌幸らそうそうたる武将が率いる大軍を約1/10の寡兵で引き受けて約1ヶ月間も持ちこたえたのであるから武将として知力胆力のあった人物だと想像できる。


 

【松井田城に関するリンク】
 松井田城に関するホームページやブログは沢山あります。優れた解説記事がありますので諸兄のサイトを参照して下さい。

余湖くんのホームページ 松井田城(松井田町虚空蔵山他)  詳細でわかりやすい鳥瞰図があります。

碓氷郡のお城  松井田城  詳細な解説あり。写真も豊富。

城郭放浪記 上野・松井田城  松井田城の解説と詳細な写真が沢山あります。日本全国の城郭が載ってる凄いサイトです。

武田調略隊がゆく 松井田城  北条流築城術を解説してます。

タクジローの日本全国お城めぐり 上野 松井田城  道順に写真が沢山あります。

秋田の中世を歩く 松井田城  歴史/沿革の解説あり、写真も豊富。

武田家の歴史探訪 松井田城  各部の写真に解説あり。

シニアライフ  小説 松井田城落城記が掲載されています。






【参考資料】
「松井田の文化財」  昭和49年3月刊 松井田町教育委員会発行 上原印刷所 
              (誤植と思われる部分も原文のまま掲載しました。)

「歴史街道」     2011年6月号 

【写真】 上空からの写真は真下さんに提供していただきました。





Since 2013/03/25
Last Update 2013/03/26





2013.03.25 松井田城のコーナーを新規開設




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