フジロック01で、ロン・セクスミスに心奪われた人は多かったのではないだろうか?かくいう私もその1人。フラ〜と入ったレッドマーキーで流れる美しいメロディーが、大自然の中で浄化された心とピタッと出会い、その場に立ち尽して気がつくとポロポロと泣いていた。その時の感覚はどう説明したらいいんだろう?悲しかったり、切なかったりしたわけじゃない、なんだか無性にうれしかった。この場所に存在してて、音楽を聴いて、感動できている、そんな自分がうれしかったんだと思う。そして今日もまたライブを聴けた嬉しさを感じていた。


 「かっこよく言えばオープニングアクト、まぁ前座ですね」とか言いながら、ぬる〜く始まったキセルは一度見たかったバンド。1曲目の「はなればなれ」から、全編ゆるゆるとした不思議な空気感を持った音が会場を浮遊していた。昔感じた、“ほんのちょっとした違和感”を感じる音だなぁ〜なんて聴きながら考えてた。子どもの頃とかに遠足に行って、みんな楽しそうなんだけど、でも自分はみんなほど楽しくない…みたいなちょっとした違和感や取り残され感?そんな日常の些細な感情を拾い集めたような身近で懐かしい音楽だった。(わかりにくい説明でごめんなさい。)でも、少し懐かさを感じるアナログな音なんだけど、その中にデジタルのアクセントをセンスよく配置していることろは、今どきな感じか。半音外れたようなボーカルも独自の世界観を表現していた。

 生温いキセルの空気が消えていった頃、ロン・セクスミスがラフに登場。日本ツアーも最終日とあってかバンドもロンもリラックスしいる様子で、はにかみながら「来てくれてありがとう」というロンの笑顔はオーディエンスを一気に和ませた。

 先程のキセルがワンルームの日常の唄とするなら、ロンの唄は大きな時の流れの中で地に足をつけて生きている力強くあたたかい唄。ロンはデビューする前、家族を養うためにトロントで6年間郵便配達員をしていたそうだが、そんなありふれた、それでいて逞しい生活の中で、大きな愛を育んでいったのだろうか?“愛の唄”なんていうくっさい表現をしてしまうが、ロンの唄を聴いてると、愛の形にもいろいろあることに気づかされる。男女の愛、家族の愛、友達の愛、自分への愛、例えば通りすがりにすれ違う人々にも、今私がテキストを打ってるPCにも、愛は形を色々変えて存在している。(とはいえ、残念ながら現実の世の中は愛で溢れてないように感じるけどね。)ロンの優しい唄を体に染み込ませながら、多くの人にこの温かさが届けばいいなぁと思った。そんなきれいごとウソ臭い、って斜に構えて聴くこともできるけど、実直なロンの声は知らずしらずに纏ったそんな殻を静かに剥がしてくれる

 そう、このライブですごく感じたのは声の威力。人の声の力って、どんな楽器にも勝てないんじゃないかな?なんて思うほど体中に染み込み、響きわたる。決してロンの声は個性の強い特徴的な声ではないし、歌唱法もオーソドックスだ。だからこそ身近に感じるのかもしれない。大好きな人が側で囁いているような、いつまでも聴いていたい心地よさが広がる。それは会場の人たちも同じだったのだろう、曲が進むにつれ声援が大きくなり、そして笑顔が増えていった。

 多分、今回も泣こうと思えば泣けたライブだったと思う。繊細で優しいメロディーは、これでもかってほど寒い夜に響きわたり、心を癒していった。だけど、それよりも笑顔がこぼれる。ロンは回りにいたバンドのメンバーやオーディエンスとコミュニケーションをとりながら素直に音楽を届け、ライブを幸せな気持ちで満たす。それは、雲間に顔を出す太陽のような温かさだと私は思った。 text by 浦山

 
 ロン・セクスミス

 2002.1.20.sun

心斎橋クラブクアトロ


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