私論「小沢健二」

 

 小沢健二が姿を表さなくなって2年以上が経つ。「もう過去の人」と思ってる人も、もしかしたらいるかもしれない。少し前に「新レコード会社、モータウンに決定」というニュースは飛び込んできたが、(これを書いてる現在)新しい音の情報はまだ届いてこない。サミシイコトダ。ここ数年の私は「冬になると小沢にハマる」という癖をもっていて、この冬もやはりアルバム『Life』にハマっていた。そうしたらどうだ、JRのCMソングに『僕らが旅にでる理由』が使われているではないですかっ!「そうなんだよ〜。今こそ小沢が求められてるんだよ〜」と、さらに小沢ブームに加速がかかった、この冬。で、今回「望む!小沢健二復活!」を声高に訴える次第なのです。(以下、あつ〜い超私論がつづきます。)

 『ラヴリー』の中でも『天気読み』の中でも『愛し愛されていきるのさ』の中でも、小沢健二の曲の中にでてくる人間は、どこにでもいるように思えてどこにもいない、架空の世界の夢の少年だ。あのラヴリーな容姿ゆえに、小沢本人とかさね合わせて聴いてしまうリスナーも多いと思うが、はたして小沢が夢の少年か?否か?まぁ、そんなことはどうでもいいことなんだけど・・・。誰もが持っている世界の言葉のうえにいるけど、現実にはほとんど誰も体験してない甘酸っぱい夢物語なのだ。がしかし、それなのに、なぜ、小沢の音を聴くと現実が幸せに感じるのか?それは小沢が「一番わかってもらいたい身近な人間(←といって「本当に身近な人だけ」という意味ではないよ)に対して、自分のキモチを伝えてる」からだと思う。
 話し飛ぶけど、“照れ”というのは人間の正しい自己防衛本能だと思う。なぜ「ワタシハ、アナタガ、スキデス」って簡単なセンテンスを、なかなか口に出せないのか?それは相手も「ワタシヲ、スキデ、イテホシイ」から。でも確信はナイ。「ワタシヲ、スキデハナイカモ?」という恐怖心が頭の中を走りぬけ、拒否されてもその場に立っていられる自信がない自分を保護する。
 だから人は“照れ”というベールにかぶせて自分の気持ちを少しずつ表に出していく。いつでも逃げれるように。いつでもイイワケできるように。でも、伝えたいキモチ・・・。
 そんななか、照れもせず、パンチドランカー気味に“愛の大放出”する小沢は痛快だった。「まぁ、テキトーに」っていう空気をおもいっきり逆流して、愛され憎まれる姿は、“孤高の戦士”のようでもあった。(←我ながらクサ〜イ表現だわ。鼻血ぃ〜(照れ)。)
 そして・・・“「愛されること」は望んでも「愛することは」おっくう”なんて時は終わった。小さな傷を見せびらかして「傷ついてまぁ〜す」って顔する子供にも、もう飽きた。今は、愛したいし愛されたい。夢物語を作りだしたいのだ。今こそ、今こそ、小沢の歌を聴きたいのだっ!

・・・と、思うのは私だけかなぁ!?なにはともあれ「望む!復活!」ホントたのんます。text by 浦山

 

エッセイ

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