華麗なるUKロック概論
ゲイがロックを救うのか? ロックがゲイを救うのか?
90年代で最も成功したイギリス出身のバンドといえば、レディオヘッドとかオアシスなんだろうけれども、彼らにはなんだか華やかさが足りないと思いませんか?トム・ヨークはデビュー当時ロックスターを目指していたが、初のアメリカツアーで自信喪失、以降は音楽的深化を目指すようになった(これって、忘れられているし最近ファンになった人は知らないかもしれないけど、今のレディオヘッドを語るのに重要なポイントだと思うよ)。 どちらもやっぱり華がない。それと比べれば、昔のバンド、例えばクイーン。例えばジャパン、デュラン・デュラン、カルチャークラブなど、日本でもミーハー的に愛された人たちには華があった。 もちろん、それはアートに目覚めてしまったデヴィッド・シルビアン(ジャパン)が引きこもりになってしまうとか、セレブリティに疲れたボーイ・ジョージ(カルチャークラブ)がヤク中になってしまうとか、本当のエイズになってしまう(クイーンのフレディ・マーキュリー)とか、そういうリスクを背負うことにもなるのだ。 それはこういうことだと思うのだ、イギリスのゲイの恋、悩み、美意識は世界共通のものなのである。彼らが恋に悩む時、それは恋愛そのものへの疑問につながるわけで、普通の人にとっても届くものとなりえたのである。というか、まあとにかく、クイーンなんかの世界的な伝播力は凄いものがあるよ。彼らの人気は英米だけに留まらないし。 今のイギリスにいるスウェードとかプラシーボとかゲイ・ダッドとかが後継者となるのかもしれないけど、どうも、今ひとつなんである。音楽のアイディア的にも一番生き残る可能性を持つプラシーボなんか実際、アメリカ人とかスウェーデン人だもんな。 で、どの辺が転換期だったかというと、やっぱりザ・スミスの登場に尽きる。モリッシーが以前のゲイのステレオタイプを否定してしまったのだ。それは彼にとって切実なことだったし、それは痛快なことだったけれども、きらびやかで、親しみのあるゲイテイストをさっぱりと切り捨ててしまった。言わばゲイのカジュアル化である。フレディ・マーキュリーやボーイ・ジョージにあったような非日常性でなく、日常の延長線上でのゲイを確立してしまった。オーシャン・カラー・シーンのサイモンもその延長線上にあるだろう。あと、もう一個はペット・ショップ・ボーイズである。確かに彼らの美意識なんかはゴージャスなものだけど、自分の身を削って音楽の道を極めるのでなくイギリスの音楽業界の中でいかに立ち回り、サクセスしていくかという方に能力を使ってしまった。おれはPSBは大好きなんだけれども、ノエル・カワードのトリビュート盤で豪華なアーティストを集め、イギリスの音楽業界の中で政治力を行使していく姿にちょっとした違和感を思えたものである。 そう考えていくとこれは新たな価値観が出来つつある予感なのだろうか?やっぱりイギリスの停滞の諸悪の根源だろうか?もうちょっと様子を見ないと分かりませんな。text by ノブユキ |
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