森田療法について
○精神療法「森田療法」について 森田療法は、1919年(大正8年)に東京慈恵会医科大学精神神神経科初代教授の森田正馬先生 がいろいろの事実や自分の体験から編み出した神経症に対する精神療法です。
森田正馬(もりたしょうま)略歴 1874年 高知県香美群富家村兎田(現野市町)に生まれる 1902年 東京帝国大学医学部卒業(28歳) 1919年 森田療法考案(45歳) 1925年 慈恵医大精神神経科教授(51歳) 1937年 慈恵医大名誉教授(63歳) 1938年 肺炎で死去 (64歳)
○森田療法の適応となる神経症(森田正馬の分類) 1)強迫神経症 人前で緊張し、人の視線や自分の視線が気になり、動作がぎこちなくなり、赤面・ふるえ 表情のこわばりなどのいろいろの症状が出るもので、そのために人前に出るのを避けるように なる対人恐怖症、癌や成人病、感染症、精神病などの病気が気になり日常生活に支障をきたす 疾病恐怖、戸締りやガス栓・水道栓などを何回も確かめないと不安になる不完全恐怖、雑念や 雑音が気になる雑念恐怖・雑音恐怖、汚いと思うものに触れると何回も手を洗ったり、服を洗 ったりする不潔恐怖、何か物がなくなると、自分に疑いがかけられていると思う嫌疑恐怖、数 や名前や道順や方角に縁起をかつぐ縁起恐怖、刃物や針などの尖ったものが気になる先端恐怖、 その他、高所恐怖、自己臭恐怖などがあります。 2)発作性神経症 発作的に心臓が早く打ち、呼吸が苦しくなったりして、死ぬのではないかという強い不安 に襲われます。精密検査を受けて異常がないと言われても安心できず、外出や乗り物に乗れな くなったり、日常の生活での行動範囲が狭まります。 3)普通神経質 不眠、頭痛、疲労、胃腸症状、手の震え、ふらつき、頻尿など自分の体の症状にとらわれ 悩むものです。 以上のように神経質症を分類しているが、いずれにも共通する性格特徴があります。それは @自分の病状についての反省、批判の能力、自己内省性があるA症状を克服して向上したい強 い欲求、「生の欲望」があるB病気でも異常でもないものを病気、異常と考える心配症C執着 性が強く、異常でない症状にこだわり、悪循環を起こす(精神交互作用)などです。この自己 内省性・強い性の欲望・心配症・執着性が神経質者の基本的性格特徴と考えられています。 ○森田療法の基本的な考え方 @人間には、より良く生きたい生の欲望とその欲望実現を阻害する死の恐怖(不安)がある。 A生の欲望と死の恐怖は同じ事実の裏表の関係であり、生の欲望に従って生きる限り、死の 恐怖から逃れることは出来ない。死の恐怖は人間感情の本然である。 B人間は、人間感情の本然である死の恐怖を「あるがまま」に認め、それはそのままに生の欲望 に従って生きるしかない存在である。 神経症は本然である死の恐怖や不安を「あるがまま」に受け入れること出来ず、これを取り除こう と主観的、視野狭窄的、自己中心的な観念と思考の矛盾の迷路(「はからい」の世界)に入りこん でしまうものです。神経症者は自分の観念と理知で作った矛盾の迷路で疲れ、抑うつと煩悶に苦し みます。 森田療法は、矛盾の迷路に彷徨う神経症者に、怯え逃れようとする死の恐怖は、生の欲望の影であ り、死の恐怖はそのままに生の欲望に従う生き方を教えるものです。主観の世界を離れ、客観的な 事実に従って(事実唯心)、生の欲望に従って行動すること(目的本位)を教え、実行させます。
○森田についての私見 森田の道を言葉で表現するのは極めて難しく、言葉で表現しょうとすると、かえって言葉の迷路に 入り込んでしまう恐れがある。森田の道を表現するには比喩とか、イメージの方が理解されやすい のではないかと思う。 私は、もりたの道は、心の中の流れを美しくするものでないかと、川がひと筋に海に流れるように 心の流れを自然にすることものでないかと思う。私たちの周囲の事柄をいつも透明な視線で捉え、 自然な心の流れにそのままに浮かべる。水車は回り、何かが生れる。逆流や澱む流れを本流に注ぐ ように変えて、高きから低きにただひと筋に流れる清流。美しい流れは美しく流れることを繰り返 すことにより、ますます美しくなる。高きから低きへ。それだけを守り流れるだけで良い。水車は 回り続け、いつも新しい何かが生れ、あたりに幸せが生れる。 源流の水の音を聴こう。源流の水を集めよう。濁さずにそのまま集めて、美しい流れにしよう。 自分の足で、美しい水を汚さない。 森田療法を車の運転に喩えると解り易いようにも思う。生の欲望はアクセル、不安はブレーキ、 目的本位の行動はハンドルであろうか。ギア-をバックに入れて後退するよりましであるが、 ブレーキを踏んでばかりでは前に進まない。目的本位にアクセルを踏むことが大切である。 人間の意志の自由は、大変限られている。意志の自由になるのは、@行動すること(よく見る・よく 聴くなど五感をしっかりと働かせることも含む)A考えるB腹式呼吸・筋弛緩などでリラックスさせる ことなどだけであろう。
○森田療法理論を説明するいくつかの言葉について、森田先生の著書から抜粋してご紹介致します。 【精神交互作用】 神経質において神経交互作用というのは、ある感覚に対して、注意を集中すれば、その感覚は鋭敏 となり、この感覚鋭敏は、さらにますます注意をその方に固着させ、この感覚と注意とがあいまっ て交互に作用して、その感覚をますます強大にするという精神過程に対して名づけたものである。 神経質の症状には、たとえば次のようなものがある。 頭痛、立ちくらみ、神経がぼんやりする感じ、心悸亢進、注意散乱、不眠、胃部膨満感、伝染病に 対する恐怖、衆人環視に対する羞恥の情、異性を見てふとみだらな連想を起こすなどの種々な感情、 その他偶然に起こる不安発作、麻痺発作、疼痛発作あるいは神経痛様症状にいたるまでいろいろあ る。しかし、これは初めて症状が出はじめた時にさかのぼってよく調べれば、全て本来健康者でも 平素体験する普通の感覚や感想で、疲労後や、寝過ごした時の頭痛感、飽食した時の胃部不快感、 恋愛時の赤面、急病で死んだ人を見た時の恐怖にともなう悪寒、心悸亢進や、かけ足をした時にわ き腹が引きつれることなど、だれもがよく経験することなのである。 ところが神経質者は、これを病的異常と考え、これに対する恐怖と予期感情とを起こして、精神交 互作用により、その感覚をますます増進し、これに執着していつまでも長く症状を固定するように なるのである。過度の勉強とか、頭部外傷とか、流行性感冒などの場合に起こる頭痛、不眠、めま いの感は実際に起こる症状であるが、神経質の感覚敏感は実際の過敏ではなくて、自らこれに執着 して起こった自覚というにすぎない。だから、これは仮性感覚過敏である。 そして、他の疾病や災害などに随伴して起こってくる神経質症状は、その病気が治り、事実は経過 し、実際の症状はとっくになくなった後にも、主観的な感覚や感情の執着が残って、実際の病気と 同じような症状を呈するものである。すでに精神交互作用によって、病状が発展してしまった後で は、たとえば常習頭痛であっても、めまいであっても、強迫観念であっても、患者はちょうど夢の 中で、その実在を信じているように、常に主観の内に閉じ込められ、これに対する絶え間ない苦悩 に悩まされるようになる。 (「神経質の本態と療法」森田正馬・白揚社) 【自然服従】 神経質の療法については、この思想の矛盾を打破すべきことが、一面の着眼点でなくてはならない ことを知るべきである。それなら、この思想の矛盾は、どうしてこれを打破することができるか。 一言でいえば、いたずらに人工的の拙策を放棄して、自然に服従すべしということである。人為的 の工夫によって、随意に自己を支配しようとすることは、思うままにサイコロの目を出し、鴨川の 水を上に押し流そうとするようなものである。思う通りにならないで、いたずらに煩悶を増し、力 及ばないで、いたずらに苦痛にたえなくなるのは当然のことである。 それなら自然とは何であるか。夏暑くて、冬の寒いのは自然である。暑さを感じないようにしたい。 寒いと思わないようになりたいというのは、人為的であって、そのあるがままに服従し、これにた えるのが自然である。 ある時、ある僧が洞山禅師に、「寒暑到来、いかに回避せん」といって避暑、回寒の法を問うたこ とがある。すると洞山は、「無寒暑のところへ行けばよい」という。それはどんなことかと問えば、 「寒の時はなんじを寒殺し、熱の時はなんじを熱殺せよ」と答えたとのことである。これは寒いと きは、そのままに寒いさむいになりきり、暑いときはまた暑いことそのままになりきるという意味 であって、その時にはじめて寒さも暑さも忘れてしまう。 すなわち「心頭を滅却すれば火もまた涼し」ということになるのである。これが「自然に服従する」 ということである。 死を恐れ、不快をいとい、災いを悲しみ、思う通りにならないことを嘆くなど、すべて人の感情の 自然であることは、ちょうど水が低きにつくと同様である。さらにまた、朝寝過ごしては頭が重く、 食い過ぎをしては胃の不快を覚え、驚いて心悸亢進を起こすなどのようなことも、すべて自然の法 則に支配されるところであって、因果の理法であることをまぬがれないのである。すなわち、いず れも自分の都合のよいようにばかりはできない。自然に服従するよりほかに仕方がない。 (「神経質の本態と療法」森田正馬・白揚社) 【感情の法則】 私の神経質に対する精神療法の着眼点は、むしろ感情の上にあって、論理、意識などに重きを置か ないものであるから、さらに感情のことについて、少し説明を加えておかなければならない。まず 感情の法則、すなわち感情の事実として、およそ次のような場合を考えることができる。 第一、感情は、そのままに放任し、またはその自然発動のままに従えば、その経過は山型の曲線を なし、ひと昇りひと降りして、ついに消失するものである。 たとえば苦痛、煩悶も、これを自然に放任して、これに耐えしのんでいれば程なく、次第に消失す ることは、私の臥褥療法によっても、これを見ることができる。古い教訓の中に、「もし怒って喧 嘩しようと思うときには、三日考えたのちに、はじめてこれを決行するがよい」ということがある。 これはその三日の間に、感情が自然に消失するということを応用したものである。 その他、悲しい時に泣いて悲哀を発散し、あるいは腹をたてた時に怒鳴って気が晴れる、とかいう ようなことは、感情はこれを表出し外にあらわせば、急に静まるものである。これを次の第二の法 則により代償的に、その衝動を満足させたものと見ることができるようであるけれども、またこれ を感情の自然の経過とも解釈できる。 ジェームズは、「私たちは、悲しいから泣くのではなく、泣くために悲しいのである」といって、 悲哀の情と表情との前後の関係を反対に見ている。けれども、私は泣く表情と悲しみの自覚は、同 一の事実を客観的と主観的との二方面から見た相違だけであって実は同一の現象と見なすものであ るから、これらの発情が自然の経過によって、放散するものと理解してもよいと思うのである。 第二、感情はその衝動を満足すれば、急に静まり消失するものである。 たとえば飢えた時、食事をとればその苦痛が消えるように、あるいは「結婚は恋愛の終結なり」と か、いうようなものである。神経質の患者は、しばしば刺激性の心情や悲観的の感情に対し、その 衝動を発散して、その苦痛を脱しようと試みることがある。患者はこれによって、一時の快を得る ことができるけれども、その結果、理性的自責感が起こって、後悔し、かえって煩悶を増すように なるものである。それ故患者は、常に感情にたえ、衝動を自制することをけいこした方が得策であ る、ということを知るようになる。 これに反して、意志薄弱性素質者は、同じく衝動を達した時の快感を得ても、神経質のような道義 的観念による後悔と抑制力とが欠けているから、経験を重ねるほど、ますます快感だけをむさぼっ て、衝動を制することができないようになるものである。 第三、感情は同一の感覚に慣れるに従って、にぶくなり不感となるものである。 たとえば寒さも暑さも、これに慣れると共に感じなくなる。あるいは子供がいつも叱られてばかり いると、ついにはその叱責の言葉にも、慣れっこになって気にもとめなくなるようなものである。 神経質患者に対する冷水浴も、感覚的苦痛に慣れることを目的とし、頭重その他の不快感でも、作 業によって、これにたえることを学べば、その苦痛が消失するようになるものである。 以上は感情の消失する場合の条件についてあげたのであるが、なおこれに、種々の条件の加わった ときに、感情は持続し、あるいは強盛となるものである。 第四、感情は、その刺激が継続して起こる時と、注意をこれに集中する時とに、ますます強くなる ものである。従来、感情はこれを表出するに従って強くなる、といっているのもこの条件によるも のである。たとえば喧嘩なども次第にはげしくなるのは、怒りの刺激が継続して加わるためである。 もしはじめの一言を注意することができたら、喧嘩にいたらずに終ったであろう。神経質者が、そ の家人や他の人に自分の症状や苦痛を訴えるのは、それが細密にわたるほどますますその症状に対 する自己の注意を深くし、その上他人の自己に対する同情の不足をうらむなどの条件が加わるため に、いっそう症状を重くするものである。それ故私は、常に神経質患者に対して、まず第一にその 家人に対して、自分の症状を訴えることを禁ずるのである。 第五、感情は、新しい経験によって、これを体得し、その反復によって、ますます養成される。 たとえば飲食することによって、初めてその味を知り、実行によってその趣味を理解することがで きるようなものである。 私たちが努力と成功との経験を反復することによって、はじめて勇気と自信とを養成するのは、努 力による苦痛に慣れ ると共に、一方には成功による快感を体得するためである。 これに反して、努力、失策、不成功を反復、経験すること によって、その人がますます臆病、卑屈 となるのは、その努力、失策、不成功による不快感を忘れることができないから である。これらの ことは神経質の体験的療法において、もっとも注意しなければならぬ事柄である。 (「神経質の本態と療法」森田正馬・白揚社) 【思想の矛盾】 思想の矛盾ということについて、少し説明を加えておきたいと思う。およそ思想というものは、私た ちの体験的、主観的事実を外界に投影し、模型的に客観化したものであるから、ちょうど私たちの顔 を鏡にうつしたようなもので、単に表面のかたちにとどまり、右と左の錯誤、矛盾のことが多い。 それ故私たちは、思想をそのまま事実と信じて、これにとらわれるときには、しばしば鏡に向かって ヒゲをそるのに、カミソリの向け方が思うようにならないと同様のことが多いのである。 だから私が常に神経質患者に対して注意するところは、私たちはその思想にとらわれて、直接に、そ の行為を当てはめようとするときには、いたずらにくい違い、矛盾におちいることが多いから、思想 は行動の見当をつけるにとどまらなければいけない。 それはちょうど鏡に対して、単に顔の局所の見当をつけるにとどめ、カミソリは自然の手の運動にま かせるようにしなければならないようなものである、ということである。 患者は眠る工夫をして、ますます不眠となり、苦痛を忘れようとして、ますますこれに執着するよう になり、強迫観念を抑圧しようとして、ますますこれに悩まされるようなことは、すべてこの思想の 矛盾にとらわれるためである、ということができる。 この思想の矛盾のために、私たちは日常、これにあざむかれていることが非常に多い。 神経質患者はしばしば、「他の病気ならば仕方がないけれども、この病のためには死にたくない」と か、「他の苦痛ならば、どんなことでも忍耐するけれども、ただこの苦しみだけは、がまんができな い」とかいい、あるいは不潔恐怖患者が、その手を洗う苦痛にたえかねて、「むしろこの手を切って しまいたい」などということがある。 みんな目前の自分の心をみずからあざむいている思想の矛盾であって、本当は自分が他のどんな苦痛 にもたえられず、どんな病気にも死ぬことはいやである、ということに自分から気がつかないのであ る。これと同じ意味で、患者は常に自分の安逸、怠惰や責任の回避などを求めるために、この思想の 矛盾によって、自分をあざむき、いろいろな口実をもうけて、自己弁解をしつつあるものである。 (「神経質の本態と療法」森田正馬・白揚社) 【恐怖突入】 強迫観念の単純なもので理解がよく、従順で、勇気のある患者は、上にあげた着眼点によって説得し ただけで、治ることがあるのは、前の発作性神経症におけるように、すぐに恐怖のうちに突入するこ とによって治るのである。たとえば赤面恐怖の患者であって、電車に乗ることのできないのに対して、 「勇気を奮い起こし、電車に乗って、自分の張り裂けるような赤面を衆人の前にさらしなさい」とい うふうに命じ、患者にすぐこれを実行させるようなものである。ある患者はこれによって、わずかに 三、四日の間に多年の赤面恐怖を征服したことがある。これは一面から見れば、懺悔の心理にも相当 したものであって、自分を赤裸々に衆人の前に告白発表するということによって、自我執着を去るも のである。およそ強迫観念の患者は、常に自己の恐怖に対して、もしこれに反抗し、あるいは、これ をそのままに持ちこたえているときには、ますますその恐怖をたかめ、精神の葛藤をいよいよ重くす るものにも相当したものであって、自分を赤裸々に衆人の前に告白発表するということによって、自 我執着を去るものである。 長年の不眠患者に「今夜は、眠れぬため当然徹夜で苦悶し悩むだろうから、その覚悟で寝なければな らぬ」といって聞かせておいた。ところがその夜はしばらくして、思いがけず、いつの間にか安眠す ることができた。患者は翌朝私のところにきて、初めて恐怖突入の心境を体験しえたことを感謝した のである。この患者には、その前にも次のようなことを実験させたことがあった。それは夜寝るとき に、「今夜、自分でもっとも心持よく寝られる姿勢はどんなものであるか、仰臥、足の位置、腕の置 き所、枕と頭部との関係などを詳細に考えて、もっとも安楽に眠る工夫をしてみなさい」といいつけ て実行させたところが、その夜は苦しくて、まったく安眠ができなかった。次にその翌晩は、今度は、 「今夜は、はじめ寝たままに、どんなにきゅうくつな気持の悪い寝方でも、そのまま忍耐してけっし て良い姿勢を選ぶことはしないで、夜通し眠らないでいる修業をしてみなさい」といいつけて、やら せた。翌朝、患者は喜びに満ちた顔つきで私のところにきて、昨夜は思わずぐっすりと眠って、はじ めてその心持がわかったといって喜んだのである。つまり患者の予期し思想することと、事実すなわ ち、その主観的心境とはまったく反対であるということがわかる。これが思想の矛盾と呼ぶ理由であ る。なお、このような患者に対しては、多数の強迫観念中、その軽いものからだんだんと、訓練療法 をほどこし、その後ある時期を見て患者が最も苦痛とするものを選び、その恐怖に突入することを実 行させるのである。ひとたび感じがその心境を体得すれば、他の種々の強迫観念は自然に消散するよ うになるのである。患者は従来できなかったことを、思いきってやることにより容易にできることを 知り、このたびごとに大きな喜びを感じ、次第に勇気を増してゆくのである。強迫観念患者でも、こ の喜びと感謝との乏しいものはその治り方も悪く、意志薄弱者には、全くこの喜びがない。 (「神経質の本態と療法」森田正馬・白揚社) 【生の欲望】 生の欲望が大きいほど、ますます死の恐怖も大きく、生の欲望がますます少なくなるに従って死の恐 怖もいよいよ少なくなってくる。死の恐怖のはなはだしいのは生の欲望の盛んなことを示すもので、 死の恐怖がないということは、生の欲望の失われたことを証明するものである。この生の欲望の種々 の程度において、そこに種々の生死の問題が起きるのである。もし生死の無限度の境涯になりきつた ときには、いわゆる数学のプラス、マイナス、インフィニティであって、そこに生死の問題はない。 たとえば忿怒なり愛情なりが、激しいその極に達したときには、全く死というものを忘れ、驚愕、畏 怖もその極度のときには、腰を抜かし、動くこともできないで、全く生を求める心を失ってしまう。 忿怒、愛情は自己の生命発揮の爆発であり、驚愕、畏怖は生命破滅のいきづまりであるからである。 こういうときに、いつも忘れてならないことは主観的と客観的との観測の相違である。この場合には、 主観的に自分の欲望とか自覚の程度を測るのであって、その忿怒 なり驚愕なりになりきつたときに は、もはや生死に対する自覚はない。すなわち光の速度に乗ってしまえば、すべての大きさは消滅し、 汽車に乗っていればその速度がわからないのと同様である。 われわれの日常生活について、美味いものが食いたい、金が欲しい、権勢が得たい。この欲望を充た すためには、必ずそこに、それ相当の努力と苦痛とが相対している。 そしてわれわれは自分の過去の経験を思い出して、将来の成り行きを推測し、これに社会人事の事実 を参考にして、人生における欲望と苦痛との関係を商量思考し、さらにこれを引きのばして生死の問 題に及ぼし、はじめてここにわれわれの人生観が起こり、哲学が生まれるのである。 で、その欲望というものを目標として考えるときに、楽天説となり、苦痛を目標とするときに厭世観 となる。これはちょつと考えると、人生に対する客観的な観察のように思われるけれども、実はその 主なる事情は主観的であり、または主観、客観の混合であり、あるいは欲望と苦痛との関係の計算の 誤謬かも知れない。 その楽天というのも厭世というのも、ともに主観的な気分を現わした言葉である。ジェームズが「積 極的、消極的種々の哲学の現われるのは、皆各々その哲学者の気質から創り出されたものである」と いったのもこのことである。この楽天と厭世との間には、長生きはしたいけれども生は骨が折れるし、 えらい人にはなりたいけれども勉強は苦しいというふうに、生と死、欲望と苦痛との間に、種々雑多 の思想や人生観が出来る。そして客観的に論理的に批判するときに、それが思想となるけれども、人 生の現実にぶっかって欲望と苦痛との間に考慮の葛藤を起こし、身につまされ戸惑いをするときに、 これが主観的に仏教のいわゆる妄想とか煩悩、煩悶となるのである。 この客観的と主観的との観察の結果は、つねにはなはだしく齟齬、矛盾することが多いもので、私は これを思想の矛盾と名づけている。それは当然相違があるはずである。 すなわちまず自分の観察の立場を確定しないからである。相対性原理では、まずその観測者の立場を 確定しなければ、すべての現象の観測は、不可解になってしまうのである。私はつねに「多くの哲学 は思想の遊戯である」というふうに悪口をいっているが、主観と客観とをごったにしたような机上論 的な理論は、われわれが日常の現実生活に対して何の用にも立たない。しかも思想の矛盾により、実 際とはずれるために、はなはだ有害である。 (「神経衰弱と強迫観念の根治法」森田正馬・白揚社)
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