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ドイツ Deutschland 1986.6〜1989.12 / 1996.4〜1997.3 ・・・東西ドイツでの生活 最初にドイツに住んだときは、旧東ドイツの東ベルリンの南東にあるシェーネフェルト(Schoenefeld)空港から近い、アルトグリーニッケ(Altglienicke)という地区に住んでいました。 ドイツでの生活の中でも最も印象に残っているのは、もちろんベルリンの壁の崩壊でした。 ==================== 通っていた学校は第13学校ルドルフ・エアリヒ(13.Oberschule Rudolf Ehrlich)といい、私は6年生から9年生(日本の中学3年生に相当)に通いました。ロシア語が第1外国語で、7年生(日本の中学1年生に相当)からは国民学(Staatsbuergerkunde)という政治思想の色濃い授業が行なわれていましたが、私は日本人であるということでこれらの授業は免除されていました。 学校では担任の先生、クラスの友達ともにドイツ語のできない日本人をいじめることもなく私にそのときそのときにできることをさせてくれました。国語の授業で、初めてクラスのみんなと同じ課題の詩を暗記して発表したときは、クラスのみんなと先生が拍手して「できたね!」と一緒に喜んでくれました。それからはクラスの友達と同じ課題をこなすようになり、地理の授業では友達に手伝ってもらって日本について発表をするまでになりました。そこまでドイツ語が上達したのも、クラスの友達と先生の後押しがあったことと、特に一番仲良くしてくれた友達イネスのおかげだと思っています。 ==================== 1989年9月11日、ベルリンの壁が崩壊しました。翌9月12日、私がいつも通り学校へ行くと、クラスの友達2−3人がいませんでした。ベルリンの壁が崩れた(らしい)というのは学校でも大騒ぎでしたから、欠席した友達はきっと西ベルリンに行ったんだよ!とうわさしていました。 翌9月13日、学校に行くと、前日休んでいた友達も学校に来ていました。友達は「西ベルリンに行ってきたんだ」と言い、「証拠」として誇らしげにコカコーラの缶をクラスのみんなに見せていました。そのときの友達の目の輝きを忘れることができません。当時、東ドイツの子供たちにはコカコーラは西の世界の象徴だったのです。東ベルリンから壁を隔てて隣の西ベルリンには何でもあり、テレビでも見ることができるのに実際に手にして買うことができない、そんな生活を生まれてからしてきたのに、東西を隔てていた壁が倒れた。友達は、いち早くこれを確かめようと西ベルリンへ行ってみたものの、東ベルリン市民に歓迎金(Begruesseungsgeld)として渡された100マルク(当時8千円くらい)を何に使っていいか分からず、西の象徴だったコカコーラをクラスの友達に見せるために買って来たのでした。 友達が自分で買ってきたコカコーラ缶を見て、クラスの中はさらに大騒ぎになりましたが、いつもならお行儀よく!とたしなめるはずの担任の先生はこの日だけは騒ぎをとめませんでした。 日本に住んでいたら味わえなかった感動的な瞬間でした。 ==================== ところで、今は記念として残されている個所を除けばもう跡形もない「ベルリンの壁」ですが、ベルリン全体をぐるりと囲んでいるのではなく、西ベルリンをぐるりと囲んだ壁でした。ドイツから帰国して、東ベルリンに住んでいましたという話をしたときによく、壁ってどこにあったの?とか、壁の外には出られたの?という質問を受けて、意外と知られてないことに気付きました。 東西ベルリンが分割されたのは、東ドイツの人が、英・米・仏の統治下にあった西ベルリンを経由して西ドイツ・西側諸国に流出しないように一晩で西ベルリンのまわに鉄条網をはりめぐらしたことに始まり、それからまもなくして高い壁が構築されたのです。東ベルリンは囲う必要はなかったのです。 もうひとつあまり知られていないことは、ベルリンの壁が2重の造りになっていたことです。2重といっても間近に2枚の壁があるわけではなく、1枚はかなり西ベルリンに近いところに、そして2枚目までの間には監視塔などの設置されているスペースがありました。(もちろん2枚の壁の間は一般人は歩けませんので中を実際に見たわけではないですが、壁と壁の間に入らなくても、外からでも、白い無機質な監視塔は見えていました。 私はパスポートを持って親と一緒に週1回西ベルリンに車で出かけていました。でも、それは私の学校の友達にはできないことでした。テレビをつければ西ベルリンの放送も入り、美味しそうなお菓子や面白そうなゲームのCMも見ることができるのに実際にそれらを手にすることはできない、壁の向こうの世界にみんな憧れを抱いていました。「西ってどんなところ?」友達はよく私に尋ねました。私は「よく知らない」と応えるばかりでした。東ベルリンではお金はあっても西で手に入るような素敵なものはお店に並んでいないけど、西ベルリンではかわいい文房具もぴかぴかの自転車もすぐに手に入り、マクドナルドもバーガーキングもあちらこちらにあってコカコーラもどこの売店でも売っていると言ったところで、友達は一生西に行くことができない(と誰しも思ってた)のに、ますます行きたいと思わせるような説明をすることがどうしてもできなかったのです。ベルリンはテレビやラジオの情報が入る分、子どもたちには酷だったと思います。 ==================== 東ベルリンでの生活の後、もう一度ドイツ語をしっかり勉強したいと思い、1995年4月〜1996年2月、ドイツの南西のテュービンゲン(Tuebingen)という街に1年間交換留学生として住みました。 日本語に方言があるようにドイツ語にも方言がありますが、テュービンゲンのあるシュヴァーベン地方はドイツの中でも有名な方言の強い地方でした。ドイツ語を学ぶ目的が強い交換留学の先としてなぜ?という気もしますが、兎に角、ドイツ人でも北ドイツ出身の人には分かりにくいと言われるほどの分かりにくさが「売り」の言葉でした。 最初に驚いたのはお店を出るときに声をかけられたのですが、何を言っているか分からなかったことでした。しばらくして店員さんは”Ade!”と言っていることに気付きました。次の疑問:”Ade”ってなんだ?ドイツ語でさようならは正式には”Auf Wiedersehen”(アウフ ヴィーダーゼーン)か、もっとくだけた表現では”Tschuess”(チュス)。Adeなんてどこにもつかないのです。私の疑問は地元の学生に聞いて初めて分かりました。Adeはシュヴァーベン地方の言葉でさようならを意味するものでした。フランスとドイツで取り合いっこをした土地柄、フランス語の影響を受けた言葉があるとのことでした。確かにフランス語のさようならはAdeu(アデュー)。似ている!こんな調子で私はメロディーどころか言葉まで全然違うシュヴァーベン地方の方言の洗礼を受けたのでした。 私自身は子どもの頃はベルリン訛りをしゃべっているとよく言われました。日本人の女の子がベルリン訛りでべらべら話している様子はどうも非常に奇異にうつったらしく、たくさんの人から言われました。時に旅行に出ると、旅先で知り合った人がすぐにあなたはベルリンから来たでしょうと指摘してきたのには驚きました。でもその後ドイツ語の勉強を続けるに連れ、ベルリン訛りは抜け、どこの訛りもないドイツ語を話していると言われるようになりました。訛りがあるほうが本物っぽいような気が個人的にはするので、訛りが全然ないと言われるとちょっと複雑な気分ですが、きれいなドイツ語というよい評価なようなので、素直に有り難うと受け止めることにしています。 (C) Schali's Homepage 2004/2005/2006 |
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