注意…ここでは,Web Masterの解釈の見解を述べるが,これが唯一絶対の解釈である,などと主張するするつもりはまったくない.あくまでも,一つの可能性として捉えていただければ幸いである.
ただそれでも,単に見解を述べるのではなく,その根拠も提示するように努めた.
| ★ 第1曲「おやすみ」…異様な歌い出し |
| ★ 第3曲「 凍った涙」と第4曲「凍結」…高揚的くり返しと内省的くり返し |
| ★ 第5曲「菩提樹」(基音と五度音) |
| ★ 第8曲「回想」 |
| ★ 第9曲「鬼火」と第19曲「幻」 |
| ★ 第14曲「白髪」の一節と他の曲との関連 |
| ‥‥ 歌主導 ⇔ ピアノ主導 |
| ‥‥ 上昇的くり返しと下降的くり返し |
| ‥‥ 〈死〉をめぐる表現 |
| ★ 第15曲「カラス」 |
| ‥‥ 基音Cの呪縛 |
| ‥‥ 基音(Prim)-五度(Quint) |
| ★ 第16曲「最後の希望」のクライマックス |
| ★ 第19曲「幻」と第20曲「道しるべ」でのPrim(一度)の使い分け |
| ★ 第21曲「宿屋」 |
| ‥‥ 「宿屋」第22小節目のピアノによる拒絶のしぐさ |
| ★ 第23曲「三つの太陽」(『冬の旅』を解くひとつの鍵) |
| ‥‥ 「ミレド(ドシラ)」について |
| ‥‥ 「ミレド(ドシラ)」についての補足…ドレミについて |
| ★ 第24曲「辻音楽師」 |
| ‥‥ 隠された〈平安〉 |
| ‥‥ オクターヴの呪縛 |
| ‥‥ 壊れたライアーと隠された基音 |
「この曲の歌い出しは異様である」と聞いても,ぴんと来ない方も多いだろう.そこで,まず,その点を考えてみよう.
この歌曲集を貫くモチーフとなる感情は一体何であろうか. それは失恋でも死でもない. それは,〈他者から全く隔絶された自分〉ではないだろうか. 実際,主人公は恋人からも人間社会からも隔絶されたものとして表現されている. たとえば,第12曲「孤独」の歌詞を一部みてみよう.
濁った雲が真っ青な空を行くように
もみの木の梢をどんよりとした空気が漂うように,
足を引きずりながら,朗らかで喜びに満ちた営みを通りぬけ,
挨拶を交わすこともなく私は自分の道をあそこへと進んで行く.
〈もみの木〉と〈どんよりとした空気〉と聞いて,どのような感情が生まれるだろうか. もみの木は真っ直ぐに立ち,黒々としたシルエットを持ち,確たる存在感を持っている. それに対し,〈どんよりとした空気〉は見えない存在であり,主人公はまさに透明な空気のような存在で,誰からも顧みられることはない.
ところで,「透明な存在としての自分」というのは,衝撃的な犯罪を引き起こした14歳の少年の言葉である.これは外界からまったく注目されない孤独感を表現してはいないだろうか. ミュラーの詩は「嵐であったら,自分はこんなにも惨めではなかったろう」と続くが,これは嵐=事件と考えると暗示的である.
このように考えたとき,「Fremd(よそ者)」という語がこの歌曲集の全編を代表する一語であるとするのは,決して外れているとは言えないだろう. そして,全曲の冒頭にこの Fremd が冠されている. しかも,冒頭で2回現れた後は,その後,一切現れない.
シューベルトの他の歌曲を概観すると,この曲,いやこの曲集の冒頭が異様であることに気がつく. つまり,アウフタクトに非常に重要な語であるFremdを配しているのである. アウフタクト(はずれた位置)に「よそ者」という語を置くのは,まったく理にかなっているとも言えるだろう. この異様さは,同じメロディーが繰り返される時の歌詞によって,さらに強調される.
くり返しの際には,ドイツ語歌曲でごく当たり前のこと,つまり,アウフタクトに冠詞のDerが来るのである. このように見ていくと,冒頭のFremdの一語に,曲全体の疎外感の重みを乗せて表現できたら,それが理想であるとは思えないだろうか.
それだけではない.よそ者として町に入ってくるときと,よそ者として町をでるときの感情は決して同じであるはずがない. ごく単純に考えても,入ってくるときには,不安を持ちながらも,何らかの期待があるかもしれない. しかし,よそ者として出て行く時には,挫折感,敗北感が強いはずである. 歌い手がこうしたことに意識を向け,さらにはそのための適切な表現方法を見出したなら,歌の世界がさらに広がるのではないだろうか.
ちなみに,このFremdとDerを歌い分けている歌手は少ない. 最も明確に歌い分けているのは,現在のところ,Ian Bostridgeである. 正直に言えば,筆者がこの冒頭の異様さを知ったは,Bostridgeの表現を聴いたからである.
ドイツ語は一音にFremdという一語を当てることができるし,シューベルトはその特性を芸術表現に活かしている. これは,仮に訳詞によって歌ったら,表現しえないことになる.
失恋は誰しも経験をしているだろう. その時,人間の内面では二つの要素がせめぎあっている. 相手のことをどうしても忘れられない思いとその自分の気持ちに整理をつけ,先に進もうとする気持ちである.
ここでは,仮に恋人の名を「マリア」としよう. そして,失恋の後,その相手の名を呼び続けると仮定しよう. そして,これを用いて簡単な実験をしてみよう.
相手のことがどうしても忘れられない状態で名前を呼んだとするのである.
「マリア,マリア,マリア,マリア.....」
それができたら,今度はそれに続けて「やっぱり,諦めるしかない」という思いで相手の名前を呼んでみる.
「マリア,マリア,(諦めが内面に湧いて)マリア.....」
その変化は確実に語調に現れる. 単純に言って,相手への思いが込み上げてくるときには,しだいにクレッシェンドがかかる. しかし,「諦めよう」と思った瞬間に,呼び声は内面に向かい,自分を納得させようとする.
もちろん,一旦は諦めても,未練の情は波のように繰り返し現れてくるであろうから,諦めの後に未練の表現が現れることもあるだろう.
さて,上記のことを前提に『冬の旅』の冒頭の5曲を見てみよう.
● 第1曲「おやすみ」
恋人に別れを告げる
● 第2曲「風見の旗」
別れの理由が恋人の裏切りであることがわかる
● 第3曲「凍った涙」
この曲に出てくる温度表現を列挙してみよう. 凍った,生暖かい,冷たい(外界),灼熱(内面),氷をすべて解かすほどに,という順で現れる.
「あらすじ」のところでも触れたが,この詩は後に行けば行くほど〈熱く〉なっていく.
そして,シューベルトの曲もそれに対応している.つまり,曲全体にクレッシェンドがかかったような表現になっている.
また,詩の最後の部分を繰り返すにあたっても,明らかに音楽的に〈熱い〉表現をとっている.
つまり,この曲では込み上げてくる未練の思いがくり返しのなかでしだいに高まっていくと考えられるだろう.
● 第5曲「菩提樹」
順序は前後するが,「菩提樹」を先に検討してみよう.
この曲では主人公の旅立ちが歌われる.
つまり,この曲に入る前に,何らかの形で自らの未練に,一時的なものではあっても,決着をつけているのである.
● 第4曲「凍結」
このように考えてくると,この「凍結」で主人公の気持ちが〈未練〉から〈諦め〉に切り替わっているはずである.
もっと具体的に言うと,
Ich will den Boden Küssen,...
(私は大地に口付けしたい)
この部分のくり返しに当たって,2回目(下段)の方が内面化された表現になっている.
さて,この旋律は後にまったく同じ形で現れる.
Mein Herz ist wie erstorben(erfroren)... (私の心は死に絶えて(凍りついて)しまったかのようだ)
の部分である. ちなみに,3.凍った涙,では「灼熱のように熱い」と表現された〈心〉が,ここでは凍りついたものとして表現されている.
1番では「大地にくちづけしたい」という意志表明であったものが,ここでは「死に絶えて」と事実の記載になっている. したがって,その部分のくり返しにあたって,その事実に痛みを覚える,という表現にすることも可能かもしれない.
さて,「内的転換点を明確に意識して表現しているか」に着目して何人かの演奏を聴いてみた.
Ich will den Boden küssen,...
が2回目に歌われるときには,シューベルトの音楽の成り行きで自然に内面化が暗示されている. しかし,
mit meinen heissen Trännen...
の部分では,くり返しの時もメロディーが前出のものと同じで,しかも高音(原調ではAs)になるので,〈歌の勢い〉だけになってしまい,表現がおろそかなものが多いように思われた.
この部分の考察は,小野結実さんから多くのヒントをいただいた.
この曲は,途中で若干の変化があるものの,基本的には8小節単位で構成されている.さらに歌はその8小節の中で4+4の形を取っている.その4小節のフレーズが何の音で終わっているかを追ってみよう.
( e & e )( fis & e )
( e & e )( fis & e )
( g & h )
( e & e )( fis & h & e )
このように見ると,「冷たい風が顔に吹きつける」と歌う中間部を除けば曲全体が基音eへの安定を志向していることがうかがわれる.ところが,誰もがe音を予想する最後の部分で,五度音であるhが歌われるのである.この五度音は,基音とは違って終わりとしての安定感はない.半ば安定し,半ば動いている音である.歌詞をみていくと,この「菩提樹」で主人公は物質的現実と夢(憧れ)とを行きつ戻りつしていることがわかる.

赤で囲んだ部分:はじめは五度音h(非現実,憧れ)が歌われ,次に基音e(現実)が歌われる.
五度で仮終止した後に基音で終止する形は,全曲を通して,もう一箇所で現れる.第11曲「春の夢」の終止形である.この曲の内容もまた,現実=非現実を行きつ戻りつする点は注目に値する.

Es brennt mir unter beiden Sohlen,
Tret' ich auch schon auf Eis und Schnee,
Ich möcht' nicht wieder Atem holen,
Bis ich nicht mehr die Türme seh'.
朗読の表現もたくさんありうるが,普通,行間で若干の間をとることが多い. ところが,シューベルトは〈普通〉に反した表現をとった. つまり,行間にあたる部分に間を取るどころか,速い拍で言葉尻をひったくるような曲にしたのである. (下の楽譜の12小節第1拍後半の16分音符を参照). もちろんそれは,この詩の内容からきている.雪の中を転げるように逃げ出している様子を表現しているからである.
ピアノは1拍おいて歌のメロディーを追いかけている.
また,メロディーの1拍後にピアノが同じメロディーを追いかけている. それはあたかも,意識(歌)が先走り,身体(ピアノ)が着いて来られない状況を思わせる.
ピアノで歌のメロディーのすぐ後ろ追いかけている.
さて,歌とピアノの追いかけっこは終盤で違った様子を見せる. ピアノが16分拍後まで追いついてくるのである. 8分音符を1拍とすれば,直後の裏拍にピアノのメロディーが続くことになる. これはいったい何を表現しているだろうか. この曲の全体の流れでは,転げるように走っていた若者が最後には速度を緩め,昔のことを思う余裕ができたと考えるのが妥当だろう. 意識(歌)に身体(ピアノ)が追くのである. しかし,この部分の歌とピアノのかけあいで,そうした〈落ち着き〉を表現するのは容易ではないようだ. 私が聴いた中では,フィッシャー=ディースカウを伴奏したバレンボイムが歌声を包み込むように表現していて,思わず唸らされた.
曲の速度指定は「Nicht zu Geschwind」つまり「速過ぎず」である. しかし,決してもたもたした感じになってはいけないだろうし,ある程度の〈あせり〉を感じさせる表現は必要であろう. 実際に進む速度は,深い雪の中を重い外套を着て進むのか,整った道を急ぐのかで随分異なるはずである. つまり,「速過ぎず」という指示を,「主人公はあまり軽装ではない」という意味に置きかえることも可能かもしれない.
『冬の旅』全24曲の中で,第9曲「鬼火」と第19曲「幻」の2曲は「若者を誘う幻の火(光)」というモチーフが共通している. そして,若者は非現実からの誘いに乗る.
まず第9曲「鬼火」の前奏を見てみよう.
まず,h-fis,e-h,という形で2回の下降で1オクターヴ下がる. 次に基音に対してQuintであるfis音をくり返し,そこからずり上がるようにgis-aisを経過してhまで上り,今度は跳躍的な h-fis-h の動きを見せる. ここでは特に,Quintの音から基音へとずり上がって行く点に注目しよう.
さて,第19曲「幻」では,どのような音形が見られるであろうか. まず冒頭から平行オクターヴでe音が奏される. その後,eisでやや停滞したのち,fis-gis-a を経てhに至るが,すぐにa音に戻るが,次の瞬間には再びe音に下がる. ここで調性はA-Durであるから,e音は基音に対してQuintに当たる. つまり,ここの音形でもQuint音から基音に向かって少しずつ上昇し,次にはQuint音に戻っている.
このように見ると,第9曲「鬼火」と第19曲「幻」では,音楽的にも非常によく似たモチーフが現れると言えるだろう.
これらの音形を見ると,シューベルトが『冬の旅』の中で,基音(Prim)=現実,五度(Quint)=幻想・非現実,という意味づけをしたのではないか,という可能性が考えられる. ただこれだけでは根拠薄弱であろうから,とりあえずこれは作業仮説に留めておこう. また,便宜上これを「Prim-Quint仮説」と呼ぶことにする.
| Prim(基音) | 物質的現実 |
| Quint(五度) | 幻・幻想 |
この曲で主人公は頭に降りた霜を白髪と見て,老いを喜ぶ. しかし,それが解けて「棺まではまだなんと遠いことか」と嘆く. そして,この「棺まではまだなんと遠いことか」の部分には興味深い点がいくつか見られる.
赤で囲んだ部分=ピアノ主導で始まり,歌は後から追いかける.
また,黄色の下線,水色の下線部では,同じ歌詞が繰り返される.
そして,2回目は1回目より長三度低い.
否定的な事実を前にして途方に暮れる状況を表すに当たって,三度低い音程でフレーズが繰り返されるのは理にかなっている.
この曲の一つの特徴は,ほとんどのフレーズが歌主導で始まることである. つまり,フレーズの歌い始めに際し,ピアノは沈黙している. しかし,わずかに例外がある. それがまさに「棺まではまだなんと遠いことか」の部分なのである.
歌主導で進んできた曲が,急にピアノ主導に変わるとき,私たちはそこに何を感じるであろうか. もちろん,それは主導するピアノの音形に大きく左右される. しかしながら,ここでのシューベルトの表現では,落胆し,首をうなだれる者が何かに促され,振り絞るように声を出す様子が見えてはこないだろうか.
さて,歌主導,ピアノ主導という観点で『冬の旅』全曲を見渡すと,一つ,非常に興味深い現象に出会う. この第14曲「白髪」がほとんど歌主導であり,一部だけピアノ主導になっていることは述べた. それに対し,まったく逆な構成を取っている曲があるのである. つまり,ほとんどがピアノ主導であるものが,一部だけ例外的に歌主導になっている曲である. 第16曲の「最後の希望」がそれにあたる. さて,その例外部分を見てみよう.
赤で囲んだ部分=歌主導で始まり,ピアノは後から追いつく.
歌詞は,「私の希望が葬られた墓」
ここで,歌詞が「私の希望が葬られた墓」であるのは,興味深い. その理由は,後に述べる.
先に,この「白髪」では「棺まではなんと遠いことか」というフレーズが下降的に繰り返されることを述べた. つまり,長三度低い音程で同じフレーズが繰り返されるのである. ところが,それと反対の例が第20曲「道しるべ」で見られる.歌詞は「ある道を私は行かねばならない」であるが,ある道とは「まだ誰も戻ったことのない道」つまり死へとつながる道である.そして,ここでは実際,いよいよ死が近づいている.次の第21曲「宿屋」では死と出会うのである. したがって,「道しるべ」のこの段階で,主人公の死への期待はますます高まる. ここでシューベルトは同じフレーズを短三度上で繰り返す.
黄色の線,青の線の部分では「ある道を私は行かねばならない」という同じ歌詞が繰り返される.
しかし,音程は短三度上である.
ここでは第14曲「白髪」第16曲「最後の望み」第20曲「道しるべ」のそれぞれの一節を取り出して比較検討した. つまり,「白髪」⇔「最後の望み」では,歌主導⇔ピアノ主導を軸に関連が見られ,「白髪」⇔「道しるべ」では三度の下降・上昇を軸に関連が見られたのである.
| 曲 | 歌詞 |
| 第14曲「白髪」 | 棺まではまだなんと遠いことか |
| 第16曲「最後の望み」 | 私の希望が葬られた墓に(涙する) |
| 第20曲「道しるべ」 | (死への)道を私は行かなくてはならない |
ここで取り上げたフレーズが,肯定的否定的のいずれにしろ,すべて〈死〉を暗示しているのを偶然と考えることはできるだろうか. むしろ,主人公と死との関係を,シューベルトが音楽的に表現しようとした結果と考える方が自然ではないだろうか.
この曲では,歌のメロディーとピアノ伴奏のメロディーが同じである部分が多い. しかし,それでも微妙に意味が違っている. 前奏部では,ピアノの音はc”から始まる. ところが,歌と一緒に推移する部分では,その1オクターヴ低いc'から始まる. また,後奏では,メロディーは歌のある部分と同じくc'から始まる. ただし,後奏の部分の印象はそれ以外とかなり違う. 後奏以外は全曲を通じて,装飾的に奏されるアルペジオが主メロディーよりも高い音であるのに対し,後奏ではメロディーより低い音で装飾している.
伴奏と歌がまったく同じメロディーを演奏する,というのは,この曲の内容,つまりカラスが忠実に旅人にまつわりついてくることと一致する. しかし,曲の最後でカラスはどこへ行くのだろうか. 旅人について来るのか,それとも飛び去ってしまうのか?
この答えももちろん,音楽的に与えられている. 若者は旅を続ける. しかし,ピアノの音で表現されるカラスは若者から離れていき,やがてどこかに留まってしまう. 「若者の墓」ではない場所に.
譜例(第29-30小節)に示した部分で,人の心は何を感じ取るだろうか.
歌のパートに出てくる音はc(オクターヴ)とdes だけである. また,ピアノ・パートは2小節まったく同じ音を繰り返す. 歌でもピアノでも軸になる音はcである. そして,ピアノではc-cの2オクターヴの外側で音形が揺れるように動いている. 歌のパートではc-des-cという動きでc-cのオクターヴ圏から微かに出ているだけである. しかも,ピアノは頑固にcを奏で続けるので,desはcの重力圏から逃れられない. あたかも,獄につながれた者が,虚しくも精一杯手を伸ばすかのようである. しかし,次の一瞬,心はくびきから放たれ,基音から少しずつ上昇し,Quint音であるgに達する. その最高音で歌われる歌詞は「Grabe(墓)」である. その後にe音が現れるが,そこには安定はなく,すぐにまたc音に引き戻される.
繰り返しの際には,c-cのオクターヴ圏からもはや逃れることはできない. ただ,1回目の名残として,1オクターヴ低いg音を歌うだけである.
前出のときよりピアノパートの音域が1オクターヴ狭くなている
ここでも,Prim-Quit仮説を元に,曲の意味を考えてみよう. Primは目に見える物質界を表し,Quintはなんらかの非現実界を表すと見るのである. すると,c-cのオクターヴ圏というのは,監獄としての物質界を表していることになるだろう. そして,心はそこからもがき出ようとし,仮初めには非現実界(実現されない死 )を見る. しかし,結局はまたその現実界につながれてしまうのである.
ここで,第31-32小節目の歌のメロディーについて一言付け加えておこう. これは非常に単純なc-d-es-f-g の音階である. しかし,「基音からQuintにはい上がって行く音形」と見ることもできるだろう. そう考えると,その逆の音形,つまりQuint音から基音にもがき上っていくような音形があったことを思い出すかもしれない. 第9曲「鬼火」の前奏に見られるピアノの音形である.
この曲の詩を簡単に紹介しよう. 秋の色づいた葉を前にして,主人公はそこに自らの希望を投影する. そして,それが風に震えるのと同時に自分自身も全身で震える. やがて,葉は地面に落ち,主人公は自らの希望が葬られた墓に涙する.
さて,この状況に自分自身を置いてみよう. すると,詩の表現にどうしても不自然なところが見つかるはずである. 刑事コロンボなら「どーも気になるんですがね……」という感じだろうか.
枝にしがみつく枯葉に自らの希望を投影し,それが風になぶられる様子を見ていて,一番,心に痛みを感じるのはどの瞬間だろうか. 果たして〈葉が地面に落ちた時〉だろうか. それよりも,葉が枝から離れた瞬間の方が痛いのではないだろうか. 少なくとも私にとっては,その瞬間に何かがプツンと切れ,後,葉が地面につくまでは単なる成り行きに過ぎないように思われる. そして,不思議なことにミュラーはその瞬間を言葉に表さなかった. むしろ,それを言葉で表現しないことで,その痛みを表現しようとしたかのように思われる.
さて,シューベルトがこの点をどのように表現したか,は検討しておく価値があるだろう. 実際,楽譜を丹念に見て行くと,シューベルトは枯葉が枝から離れるという最も緊張感をはらんだ瞬間を非常に明確に音楽で表現している.
赤で囲んだ部分=歌が伴奏から突き放されているし,またフラットがつけられている.
青で囲んだ部分=葉がひらひらと落ちる音形.
譜例でも明らかなように,zittr ich, was ich zittern kann の太字部分ではピアノの音が途切れ,歌が一瞬剥き出しになる. しかも,音符にはフラットがつけられ,聞き手の予想よりも低い音で歌われる. これは〈離れ・落ちる〉状況を見事に表現していないだろうか. さらに,ここで葉が離れることは音楽の後の推移を見ても明らかだろう. ピアノが〈風にひらひらと舞う葉〉の様子としか思えない音形を奏でるからである.
この曲の最後の部分,つまり「私の希望が葬られた墓に涙する」という部分は音楽的にも大変に盛り上がる. したがって,曲の解釈として,最後の部分をクライマックスと捉えられることは当然ながら,非常に多い. しかしながら,〈枯葉が枝から離れる瞬間〉のドラマを無視することはできないだろう. むろん,どちらに重きを置くかは,個々の演奏家の裁量に任される事柄である. ただ,一つ言えるのは,〈枯葉が枝から離れる瞬間〉を真に緊張感を持ったドラマとして表現するのは,非常に難しい,ということだろう.
〈枯葉が枝から離れる瞬間〉の緊張感を意識的に捉えて表現していると思われる演奏は少ない. ここでも,あの歌手の偉大さを見せつけられることになる. フィッシャー=ディースカウ&バレンボイム盤である. もし他に,それを感じさせる演奏があったら,ぜひお知らせいただきたい.
順は逆になるが,先に第20曲「道しるべ」を見てみよう. この曲の終結部,つまり「道しるべを身じろぎもせず凝視する.ある道を私は進まねばならない.まだ,誰も戻ったことのない道を」という歌詞が歌われる. その入り口部分の4小節すべてがg音だけが歌われる. そこには,道しるべを凝視する若者の姿が見える. つまり,一度(Prim)の連続において,その後,メロディーが上に向くのか下に向くのか,まったく予断を許さない状況にある. 全身全霊をかけて,自らの道を決めようとしているのである. その意味で,この部分には非常に張り詰めた緊張感がある.
ところが,一度(同じ音の連続)は第20曲「道しるべ」の直前の第19曲「幻」にも見られる. 歌のメロディーでは,同じ音が3回連続することはないが,ピアノのパートでは,曲の半分以上でe音がオクターヴで演奏される. リズムは一様に長短・長短である. そして,この一度には緊張感があるかを,自分の心に問うてみよう. ギャロップの歩調のように軽快で,ここに緊張感を感じ取る者は稀だろう.
ここでの事実関係をまとめておこう.
そして,この事実から次のことが推察される. 芸術の演出手法として,〈対比〉は重要である. それを踏まえると,第20曲「道しるべ」での凝縮的作用を強調するために,第19曲「幻」に拡散的一度を配した,とも考えられないだろうか. ただ,シューベルトがそれを意図したかは決して結論は出せない. それでも,もしこの事実関係を重く見るなら,それを反映させた演奏というのはありえるだろう.
この曲のクライマックス,否,この曲集の一つのクライマックスは,死に拒絶される瞬間,つまり
O unbarmherz'ge Schenke, doch weisest du mich ab?
ああ,無慈悲な主人よ,お前は私を断るのか?
の前後である.
それがわかれば,クライマックスがクライマックスになるように表現すればよいことになる. 具体的には,
自分の道を進むうちに,ある墓場にたどり着いた.
ここから立ち去ろうかとも考えた.
死者を弔う緑の輪はきっと一つの印に違いない.
疲れた旅人を冷え冷えとした宿屋へと導く印だ.
この部分は,比較的淡々と進行してもよいだろう.
部屋はすべてふさがっていますか?
私は倒れるほどに疲れ果て,死ぬほどの傷を受けた.
ここは,「やっと死ねる」という期待を持って表現するとよいかもしれない.
ああ,無慈悲な主人よ,お前は私を断るのか?
そうして,ここに至って「嘘だろう!」という内面の変化を表現することができる.
最後の部分で次の歌詞が繰り返される.
Nun weiter denn, nur weiter, mein treuer Wanderstab!
それならば,先へ進もう,ただただ先へ進もう.
忠実な私の旅の杖よ.
1回目と2回目でメロディーがわずかに違う. nur の部分で,1回目はEs音を歌うのに,2回目はF音であり,2回目の方がやや強いエネルギーを持っている. つまり,1回目はその場に立ち尽くしながら,自分に状況を納得させようとしているかのようであり,2回目は,まだ身体的に動き始めはしないものの,実際に足を進める決意をしているとみることもできるだろう.
この曲のピアノ独奏部は一種のコラールである. つまり,何らかの宗教的雰囲気を表している. 文脈,そしてそのコラールのメロディーから,それが葬儀に関係していることはあきらかだろう. そして,主人公はそのコラールに付き添われて歩いている.
ここまでで3回現れるピアノ独奏部を見ると,しだいに緊張感が高まっていることがわかる. つまり,主人公が「死」への期待を膨らませている様子がうかがえる.
前奏で,主人公は墓場の入り口にたどり着く.
間奏1で,緑の輪飾りを見つける.
間奏2で,納骨堂に着く.
上から,前奏部,間奏2,拒絶のしぐさ
主人公が「死ぬほど傷ついている」と告げると,墓場の返事が返ってくるが,それはピアノの旋律でわずかなしぐさとして表現されている.
今,ピアノによるレレ♭ミの音形で,宿屋の主人が若者を拒絶しているしぐさを表す,と述べた.ところが,この音形は,第17曲「村にて」の一節の引用である.それは,以下の楽譜を見ていただければ明らかだと思われる.

〈安らぎ〉とか〈安定〉を現わす音楽的なモチーフは無数に考えられる. その中でも,もっとも単純なものの一つが,三度の音から基音まで順に降りてくる「ミレド」あるいは「ドシラ」のモチーフだろう. シューベルトは,『冬の旅』の曲集の骨組みをつくるにあたって,このモチーフを使ったのではないか,ということに筆者は気がついた.
このモチーフが最初に現れるのは,第1曲の1〜2,そして2〜3小節目である.つまり,この曲集に現れる最初のモチーフが「ドシラ」なのである.
そして,このモチーフは,曲集の後半で大きな役割を果たすことになる.
上述の譜例の最後,第23曲「三つの太陽」を見てみよう. この曲では,「ミレド」のモチーフが「暗闇の方が,私には望ましい」という歌詞で歌われ,さらにピアノで2回繰り返されて,曲を終える. つまり,若者はここで何らかの安らぎをえるといえるだろう.
第21曲「宿屋」では,このモチーフが曲の冒頭から重要な役割を果たしている.この曲で,主人公は死を求めて墓場にたどり着く.死,つまり〈安らぎ〉である. ところが,主人公はその死から見放されてしまうのである.安らぎを求めるものの,それは得られない. それに対応するかのように,曲全体で「ミレド」が何回も繰り返されるにもかかわらず,曲の終わりではこのモチーフは使われていない.
さらにもう1曲前の第20曲「道しるべ」ではこれがわずかに暗示されるにすぎない. つまり,「まだ誰も戻ったことのない道」という歌詞を最後に繰り返すさいに,その強拍にのせて「ミレド」を暗示しているのである. ただし,この曲の歌の最後の部分は,〈つけたし〉のような形になっているのは興味深い. ここで曲は,それまでとはまったく違った雰囲気になり,何かの念を押しているようになる. 言いかえると,「誰も戻ったことのない道」=「安らぎ(死)への道」ということが暗示される.
| 20.道しるべ | 最後に死へのベクトルが定まる | ミレドが暗示される |
| 21.宿屋 | 死と出会う.しかし,拒絶される | ミレドで始まるが,終曲は別な形 |
| 23.三つの太陽 | 安らぎを得る | 曲の終わりでミレドが繰り返される |
このように見ると,冬の旅は第23曲「三つの太陽」で,主人公がある種の〈憩い〉をえて終わることになる. そうなると,第24曲目「辻音楽師」は〈新たな始まり〉を現わしていることになる.
結論を明確にするために,強い表現をすれば,「三つの太陽」で主人公は一旦死ぬのである. ただ,肉体的な死ではない. 内的な意味での死を迎えるのである. 儒教的な表現を借りれば,「自分を殺す」とも言えるだろう. そして,自分が非常にみすぼらしい姿であることを知って,そこから新たな一歩を踏み出すのだ.
私は,第24曲「辻音楽師」の「こわばった指で自分のできることを回しつづける」という表現が好きだ. シューベルトは「自分にできること」として3つの旋律を辻音楽師に与えた.たった3つである. しかし,無ではない.何かができるのだ.
ここでは,ミレドが安らぎを暗示するモチーフであると論じた.それでは,その反対の「ドレミ(ラシド)」は『冬の旅』の中でどのように使われているだろうか.まず,その例をいくつか見てみよう.

第17曲「村にて」:赤で囲んだ「ドレミ」はよく耳に残る音である.この曲の内容は,明け方に村にたどり着いた主人公がそこには居場所がないことを知り,先へと追いたてられる情景である.

第22曲「勇気」の歌の出だし:五度音である d を足がかりに,「ラシド」が歌われる.この曲の内容は,風にあおられ,虚勢の中で先へと進むことである.
まず,もう一度,この曲集の最後を飾るこの曲の歌詞を見てみよう.
村外れに一人の辻音楽師が立っている.
こわばった指で,弾けるだけのものを回している.
氷の上で,右へ左へと裸足の足を踏む.
そして,彼の小さな皿は空のままだ.誰も彼を聴こうともしないし,見ようともしない.
犬たちがその周りを嗅ぎまわる.
そして,彼はそれをなすがままにしている.
回しつづけ,彼の手回しオルガンは止まることはない.なんという年齢だ.
お前のお供になろうか?
私の歌にあわせて,
お前の手回しオルガンを回してくれるか?
この曲の最後で,つまりこの曲集全体の最後で,主人公は最後に自分が共に歩く他者を見つける.一人の年老いた辻音楽師,社会から脱落した者に親和性を感じるのである.いわば,そこに安らぎの希望を見出すのである.このことは詩の内容を見れば明らかだろう.しかし,演奏解釈としては,ある大切な問題を明らかにしなくてはならない.つまり,この主人公が辻音楽師に対し親和性を感じ始める転換点を見つけなくてはならないのである.曲の始めから,辻音楽師と若者を重ね合わせて表現した方がよいのだろうか,それとも,最後の一文だけを共感として表現すればよいのだろうか.私はこの問いから出発した.
それを探るために楽譜を見たら,その答が非常に明確に見えてきたのである.そこでまず,この曲の構成を見てみよう.
ピアノ演奏だけの部分と歌中心の部分が交互に現れ,4行の詩が歌われる.そして,4行目が2回繰り返されて,(歌+ピアノ)×5という形になっている.非常に型どおりの進行で,ピアノが奏でる(壊れた)ライアーの音形も,歌の合間では2通りしかない.
| 2+3+3 | 前奏 | |
| 2 | 歌 | |
| 2 | ピアノ | |
| 2 | 歌 | |
| 2 | ピアノ | |
| 2 | 歌 | |
| 2 | ピアノ | |
| 2 | 歌 | |
| 2 | ピアノ | |
| 2 | 歌 | |
| 4 | ピアノの中間奏 | |
| 2 | 歌 | |
| 2 | ピアノ | |
| 2 | 歌 | |
| 2 | ピアノ | |
| 2 | 歌 | |
| 2 | ピアノ | |
| 2 | 歌 | |
| 2 | ピアノ | |
| 2 | 歌 | |
| 4 | ピアノ中間奏 | |
| 1 | 歌 | |
| 2 | 1拍おいて歌 | |
| 2+2/3 | 歌 | |
| 3 | ピアノ |
こうした構成は,聴く者に淡々たる「客観的描写」を感じさせる. ところが, Wunderlicher Alter, soll ich mit dir gehn? の部分,この詩の中ではじめて 〈ich〉 という語が現れる部分で小節の法則性が破れる. まず,シューベルトはWunderlicherという語を付点のついたリズムで始めた.それ以前のフレーズは,すべて八分音符で始まっていた. これだけを取り上げても,この小節以降,それまでとは違った雰囲気であることが察せられる. さらに, soll ich mit dir gehn? でははじめて,そして唯一,小節の途中から歌が始まる. さらには,それまで2小節枠の中で歌われた内容が,2小節を越えて歌われる.つまり,詩の内容が客観描写から,主観のとしての内面告白に変わる時点で,シューベルトは曲想を変えている.その意味で,この部分のどこかで歌唱表現も切りかえる必要が生まれてくるはずである.

赤…メロディーでa-moll和音の構成音が歌われる.
水色…〈安らぎ〉のモチーフである「ドシラ」が歌われる.このメロディーが現れるのは,この一箇所だけである.
緑…オクターヴの跳躍の後,〈チューニング〉様の動きを見せる.
黄色…ピアノの音と歌とがユニゾンになる.
緊張と平安を音楽的に表現するとしたら,どのようになるだろうか.和音で言えば,協和音は不協和音より〈平安〉を感じさせるだろう.あるいは,音そのものとしては,基音がもっとも安らぎに満ちている.このように考えると,トニカの協和音こそが一番の平安であることは明らかだろう.この曲でいえば,a-mollが一番の平安なのである.3和音を一人で歌うことはもちろん不可能であるから,和音の構成音が順に現れるメロディーが歌の中では平安の傾向を持っていると感じられるはずである.
そうすると,曲の前半でもc,a,eならびにe,a,cのメロディーが見つかる.しかし,これらは小節線に分断され,詩の言葉においても分断されている.この曲の中で,こうした分断がなされずにa-mollのメロディーが現れるのは,一箇所だけである.つまり, soll ich mit dir gehn の部分だけなのだ.シューベルトはこの部分で,主人公の気持ちが変化した考え,音楽的にそれを表現したと言えるだろう.
Willst zu meinen Liedern deine Leier drehen
の部分のメロディーは,e音を探す身振りをみせる.もちろん,最後にはその音を見つけ,それを歌い,長音として伸ばす.面白いことに,シューベルトはこの部分の2小節のピアノ伴奏にe音を入れている.男声の高いeとユニゾンになる音である.そして,主人公の問いかけにライアーの音はすぐには同調しない.次の小節ではピアノ伴奏からe音が消え,この曲の唯一のフォルテでライアーのモチーフが演奏される.
前に第15曲「カラス」のところで,半音上がって元に戻る動きには,呪縛から逃れられない苦しさ,もがきがあると述べた.第24曲「辻音楽師」の最後に現れるe−d−f−e の動きにはそれと似た表情がある.しかし,行きつく音が基音ではないので,重い束縛感はない.
半音上がって元に戻る動きの表情に気がついてみると,これが第1曲「おやすみ」に頻繁に現れていたことの驚かされる.

半音上昇し元に戻る音形,これは呪縛から逃れようとするもがきにも似ている.

ピアノで演奏されるライアーのモチーフは基本的には3通りしかない.共通点は,a音で始まることである.つまり,はじめにa音が明示される.しかし,gis→hと続いて,当然aで落ち着くべき音形で,シューベルトはわざわざa音を1オクターヴ下にしている.ライアーが壊れているのだろう.音がつっかえた後に,gis音はきちんと鳴るのに,a音は鳴らない.真の意味での安らぎが与えられないことを暗示しているのかもしれない.したがって,ピアノで低いa音を弾くときに,倍音を抑えて,その音の低さを強調できるとしたら,シューベルトの作曲上の意図を反映していることになるのではないだろうか.
さて,隠された音である中域のa音を含んだa-moll和音は,この曲でたった1回しか響かない.曲の最後,この曲集の最後である.これを見れば,シューベルトが〈平安〉に関してどのような回答を示しているかは明らかではないだろうか.
基音に到達する〈安らぎ〉は第23曲「三つの太陽」で実現された.この第24曲「辻音楽師」でも,一度は安らぎのモチーフ〈ドシラ〉を経て基音aに安らぐ(第55小節).しかし,最終的には,憧れのかの地を示す五度音eに達する.しかし,これは死ではない.新しい始まりなのだ.どん底まで堕ちた者が絶望の泥沼の中で微かに見出した光なのだ.
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