02年07月
【2002/7/6産経 朝 15】
 田中長野県知事に対して県議会の不信任案記事。新聞が県知事に対して批判的であること
が明瞭な記事となっている。なぜ不信任に値するかを不信任決議案の可決理由文とは別に記
載して分析している。また、主文となる記事と別枠で同じ1面でマスコミに対する行動が不適切
な旨を述べているが、紙面のウエイトは県政に対する不適切な論旨とほぼ同じ程度に割いて
いる。記事の真実性は第三者には不明なものであるが、マスコミに嫌われるとこんな目に合う
のかというi印象をうけた。もちろん、それだけの下地が県知事側にもあったのだろうけれど、
新聞の1面記事で扱う重みは、りマスコミが醸成したのものと考える。
【2002/7/8産経 朝 15】
 破綻朝銀に日銀など資金拠出済みの記事。ここでの論点は1)この資金が回収できるのか、
という金融面での課題と2)北朝鮮に不法に資金が流れていないかを監視する政治的課題とで
ある。後者については役員に日本人を据えるよう要求しているが、日本人の役員でなければ
国益がまもれないという理由によると思われる。しかし、前者が解決すれば問題ないわけで、
前者が解決するような仕組みを朝銀に飲ませることで、2)も役員に日本人は送り込めなくても
解決するのではないか。実際の国内での朝銀の運営方法は声高に報道されていないので実
際はよくわからないけれども。
【2002/7/16産経 朝 15】
 田中康夫長野県知事失職の記事。産経抄は何が何でも田中前知事の再選を許さないとの
気負いあふれる文章となっている。「…世間は『田中康夫圧勝』ムード一色になっている。しか
し本当にそうなのか。」との記述は、文章のロジックとしては、ここで、雰囲気だけは圧勝ムード
だけれどそれを根拠付けるものが、なにもないこと示すはずである。しかしその後に続く文章
は「…県議会側は対抗馬に知名人あさりをしては失敗している…」「無名であっても一向に差し
支えない。そういった人物ならいるはずである。」としてまだみぬ対抗馬の存在を、圧勝のムー
ドが虚構であることの根拠としている。
 素直に読むと、誰でも良いから田中康夫に勝てる人物を擁立するようにしろという提言であ
る。
 よっぽど誰でも良いのか「むこうが冗舌なら、こっちは寡黙でいい」とまで断じている。政治家
が寡黙でよいというのはどういうことか?県民に説明しなくても良いからどんどんと重要施策を
実施してほしいということか。田中前知事はしゃべるだけしゃべって脱ダムを行おうとしたが、
次の知事は寡黙に重要施策を中止したり推進したりしてほしいということか。 また、マスコミに
対してや記者会見では寡黙にして良いのか。それともその人物の側近がなんでもかわりにしゃ
べればよいのか。知事はだまって県議会やマスコミのいうとおりにしてればよいということか。
 政治家の本旨は、その理想を有権者に語り支持を求めることではないのか。自らのしたこと
の説明・報告を支持者にするものではないのか。なりふりかまわず、田中前知事を当選させな
いために政治家の条件を緩めるのは言論界の取るべき筋道ではないと考える。そんなに田中
前知事は公職につくのに相応しくなく、産経新聞社あげて落選キャンペーンをしなければならな
いほどの危険人物であるということなのかもしれない。もし、そうならその旨を編集方針として
公にしてほしいものである。
【2002/7/22産経 朝 15】
 長野県知事選の記事。前回選挙で田中氏を支持した団体が、田中氏を支持しないという記
事であるが、これが一様に「対立候補を支持」と記述されているが、まだ他に立候補を表明し
ている人物が見当たらないのにこの表現を使用しているのは違和感がある。現在取りざたさ
れている人物が立候補すればそのひとの支持に回ることを意味しているのであろう。しかし、
候補者名は伏せられておりら、この記事だけを読むと、まだ誰かも決まらないうちから対立候
補を支持している格好となり、どんなに無能でも良いということを表明しているように受け取れ
てしまう。
 無能でも良いからとにかく対立候補を支持するという候補者選びをする団体が信用するに足
るのか疑問である。仮に現在取りざたされている人物のことなら、文章の表面からだけでは読
み取れない記述方法に問題があるように思われる。通常、具体的な名前は出せないけれども
わかる人にはわかる形で報道するというのは、報道の必要性が高いときや公共の関心が高い
ときに行われるものと考える。まだみぬ候補者を田中氏に対置させる形で、あえて報道しなけ
ればならない利益はどこにあるのか?これは産経新聞社がこの候補者に加担する意図があ
るか田中氏にはどうしても落選してもらわなければ困ることがあるものと推測させる。
【2002/7/22産経 朝 15】
1面
 文部科学省教科書検定調査審議会で、自衛隊・原発等にプラス面も記述するよう改善策と
の記事。両面を明記させるということは、事実ではなくその事実の評価にわたる部分のことを
いっているものと思量します。しかし、学校はそこまで教えるものなのでしょうか。
【2002/7/30産経 朝 15】
1面@
  奉仕活動の推進のため、学校での評価項目にボランティア活動をいれるとのこと。「批判も
強かったが…」とのコメントのみで全体的に国の方針に賛成の記事となっている。普通の記事
だと批判の内容まで書くことが多いのにそれに触れてないのは、1面記事の影響力の大きさに
対して反対派にはアンフェアにうつる。奉仕活動をするための枠組み作りややり方を教えたり
思想を教えたりするのはよいとして、どうしてそれを評価項目にするのか?えさでボランティア
をつるなどじつに下賎なことのように思うが、そうも言ってられない事情(無償労働に依拠しな
いとコスト高でやりくりできない日本経済の状況など)があるからか?
1面A
 首都高100円値上げ(12月ごろめど)との記事あり。

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