かんのんと遊ぼう高野文子との出会いは、「田辺のつる」(1980)だった。くせのある作品が多かった雑誌「漫金超」の中でも、いちばん印象に残った作品だ。あらためて初期の作品集『絶対安全剃刀』を読むと、そのバラエティの豊富さに驚く。一作ごとに作風を変えているのだ。中でも「ふとん」(1979)と「玄関」(1981)は、私好みだな。 『おともだち』の中では、なんといっても「春ノ波止場デウマレタ鳥ハ」(1983)がピカイチだ。まるで宝塚の世界。 「ユリイカ」では、大友克洋と対談している。 本を読むってことは、馬鹿を治すために読むものだと思っているところがあるんですよ。道中楽しいのはそりゃ勝手だけれど、でも目的は、馬鹿を治してりこうになるため。りこうになって人生に失敗しないようにするため。小説だろうが何だろうがハウツーものとして読む。(p68)まったく同感。無意味に長い小説は読めないし、もたついた文章のコラムもつまらない。でも彼女の作品は、それとはちょっと違うんじゃなかろうか。「私を高野ワールドへ連れてって」という感じだと思う。 漫画なんてあぶくだよ。(中略)自分の仕事があぶくみたいなものだと思うのは、どうしても看護婦さんには頭が上がらないというのがあるのよ。現実のほうがやっぱり勝つよ、という感じがあるんだよ。(p164)わかるなあ。看護婦は実業で、マンガ家は虚業。でも、いったん作品になってしまえば、それはもう読者のものだ。作者の実感とは別のところで生きていく。いつでも看護婦に戻れるように準備しているという高野の生き方は、あくまでも作品を生み出すための心のゆとり、保険であってほしいと願うのが読者というもんだ。観音のお迎えがくるまで、何年でも次作を待っている。 (2003-08-10) <戻る>コマンドでどうぞ
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