日本語でいいじゃないか



 いきなり孫引きで失礼。『日本人はなぜ英語ができないか』のあとがきから、
八割以上の人にとって、ものにならない英語に甚大な力を注ぐより、東西の名作名著を読んだり日本の文化伝統に触れているほうが、はるかに有意義と思う。全国民が大事な青春の六年間を英語に捧げるのは、国家的損失と言ってよい。(藤原正彦:『言語』1999年1月号)
 著者の言いたいことをずばり表現している。かつてはフランス語を国語にしようという意見もあったし、いまは英語を公用語にしようと主張する人もいる。でも日本語を粗末にするのは、文化的な自殺だ。

 これはナショナリズムとは関係ない。人間、生まれ育った場所の自然環境、習慣、ことば、食べ物、その他もろもろのものを抜きに生きてはいけない。別に英語が好きな人を責めようとは思わないが、たかが英語で、英語を必要としない人まで苦しめるのはやめてもらいたい。

 長い間大学で教えてきた鈴木氏は、あとがきの中で「はたして読者諸氏にそうだったのか、なるほどそれでよく分かったと納得していただけるかどうか、大いに不安である」と語っている。大学生や教育関係者を想定読者として書いているのだろうが、平易な本なのにこんな心配をしなければならないとは、そんなに大学生の知的レベルが落ちているのだろうか。

 著者は、大学の外国語教育のカリキュラムを作る過程で、多くのことを考えた。その結論は、独仏語の学習者を減らして他の外国語を教えること、英語の学習を教育のすべての段階で選択制にすることである。そして学習者の総数を絞り、本当に英語のよくできる指導者を養成することを提案している。
私の言う指導者とは、大変な学問技術上の苦行を強いられる上、しかも報われることの少ない、しかも場合によっては一般大衆の不興を買うことを恐れず、憎まれても信念を曲げないような人々です。
 いま英語はほとんどの中学で実質的に必修科目であるし、しかも高校の受験科目になっている。これは早急に改めたほうがよい。それに英語を教えるのは、高校からでも遅くはないはずだ。

 鈴木氏は、日本人の精神構造を自己植民地化現象と呼び、日本製品やサッカーチームの名前のつけかたに異を唱えている。私は音楽を聴くと同じことを感じる。若い人の流行り歌は、アメリカンポップスの完全コピーが多い。そこに日本語をのせるからへんてこな曲ができあがる。発声法までまねしているから心に響かない。そしてメロディーが消えてしまった。今の音楽は、30年近く前の井上陽水の水準を超えているのだろうか。
(2001-01-05)