普通の人々



 関川夏央『司馬遼太郎の「かたち」』は、変わった作家論である。「この国のかたち」の連載をはじめ、小説を書くのをやめてからの10年にスポットを当てている。しかも文芸春秋の歴代の編集長にあてた手紙を再構成しつつ。
欧米の少年教育、およびおとなが、問題があると、鷺をカラスと言いくるめる debate というやつ、ギリシャ以来のコトバの重視というものかもしれませんが、小生などは欧米文明の最弱点だと思います。(p43)
 たぶん、そうなのだろう。しかし司馬さんのしゃべりは明晰ではない。
バブルは人々の心に数世紀かけても癒しがたい没倫理的なキズをのこしました。バブルは、日本史上、遠い未来には、一エポックとして書かれると思います。すくなくとも十三世紀以来の日本人の心を、変えたのです。バケモノにしてしまいました。(p153)
 関川は、「司馬遼太郎は、おそらく読者に深く失望した。裏切られたと思ったかもしれない。そしてまたおそらく、自分の作家としての責任を痛感した」と述べている。司馬の読者は、村の和尚であり、村長であり、郵便局長であった。彼らは「普通の、立派な人々」だった。
関川:日露戦争後の大衆は「勝ちに乗じた」のである。それはやがて大正政変をもたらす第一次護憲運動の暴動につながり、その後の第一次大戦バブル経済もまた「普通の、立派な人々」に担われたのである。また、世界経済の巨波に翻弄されて不況下にあえぐとき、満州事変を待望したのもその「普通の、立派な人々」だったのである。(p226)
 そんな普通の人々がバブルに踊り、平成不況を嘆いている。
(2004-07-19)

追記:

 山折哲雄いわく、
(司馬さんに一貫して流れている筋は)義侠心なんですよね。それは非常に勇気づけられるもので、庶民レベルまでインパクトをもつものだと思うんです。(p135)
 中村哲は、もともとマッチョな人だ。これまでアフガンで活動を続けてきたのは、「ここで引き下がっては日本男児がすたる」という気概からだ。

 義侠心といい、気概といい、むかしの人が持っていたプラスのメンタリティだ。こういう美徳を100年かけて失ったのが、日本の近代史だったのではないか。そう思えてならない。

(2006-07-19)