ナショナリズムと外国人労働者と戦争責任は関係があるか?



 ワールドカップでサッカー自体が疑似戦争の役割を果たしてしまう現実を見ると、民族意識とかナショナリズムというものは御しがたいと思う。理屈ではばかばかしいと分かっていても、体が反応してしまう部分があるからだ。そして敗戦記念日になるとやはり気になる問題でもある。

 現代は、物や情報ばかりでなく、人も移動する。日本にも外国人労働者はかなり多い。私でさえ、中国や台湾の人と一緒に仕事をしたことがあるくらいだ。将来は国家という単位が今のアメリカの州くらいの強さまで弱くなって、自由に人の行き来ができるたらいいと思う。しかし、現状で外国人労働者が急激に流入するとトラブルのもとになる。

 誰が考えたか知らないが、一般の外国人労働者を減らして、多くのブラジル日系人に永住権を与えた。その目的が労働力の確保というのだから動機が不純である。そして今日本の社会の縮図である学校になじめない日系ブラジル人の子供と、日本の暴走族の若者がバトルを始めている。これがまた日本人のナショナリズムをあおらないか心配である。やはりむやみに外国人を増やさないほうがいい。平和ボケした日本人、外国人に慣れていない日本人には、麻薬の売人をやっている外国人とまじめに働いている外国人の見分けはつかない。もっとも日本の賃金水準を下げてしまえば、少なくとも不法労働者の数は減ると思うが。

 最後に、ナショナリズムと戦争責任を考える上で参考になる名言を紹介する。敗戦の翌年(1946)に伊丹万作が述べたことばである。万作氏は、このまえ亡くなった伊丹十三のお父さんで、戦前の日本を代表する映画監督だ。

だますものだけでは
戦争は起こらない
だますものと
だまされるものが
そろわなければ
戦争は起こらない
ということになると
戦争の責任もまた
当然両方にあると
考えるほかはないのである
そしてだまされたものの罪は
ただ単にだまされたという事実
そのものの中にあるのではなく
あんなにも雑作なく
だまされるほど批判力を失い
思考力を失い
信念を失い
家畜的な盲従に自己の
いっさいをゆだねるよう
になってしまっていた
国民全体の文化的無気力
無自覚 無反省
無責任などが
悪の本体なのである
(1998-08-24)