意識と無意識



 『寄り道して考える』では、数学者の森氏と解剖学の養老氏が、互いの生い立ちから現代の諸問題まで、いろいろな問題について話し合っている。森氏は、かつては京大を代表する文化人の一人だった。見てくれからしてかなりアブナイおじさんで、いつぞやはテレビのCMにも出ていたはず。

 それでは、しばし養老氏の意見に耳を傾けてみよう。
・日本人は、明治以降「型(身体表現)」を喪失し、最後に型が残ったのが軍隊であり、その型が無意識に再生産されたのが、団塊の世代である。
・全共闘世代に対して「あいつら何で真面目なんだろう」、「どうしてそんなに信じ込んでいるのだろう」という感想を持った。しかし同じ全共闘世代でも橋本治の「宗教なんかこわくない」には共感できる。
・組織の中の人間は、意識できないものは存在しないという意識中心主義に陥りやすく、その根元にあるのは不安である。
・大学を定年を前にして辞めるときに、自分が我慢しているから、我慢しない奴がいると怒り出す人がいた。これは「非国民」の構図だ。
・戦後明るくなりすぎ、理解できないもの、暗がりの中の得体の知れないものがなくなり、そのことがかえってわれわれを追いつめている。このことをジャーナリストに話すと、たいがいは賛同の意を表明する。そこでこんなふうに改革したらどうだろうと言うと、「だけど、先生、そんなふうにしたら、僕はクビになっちゃいますよ」と言いだす。そこで僕が「お前さん、クビになるのが心配で、自分の思うようにできないでいるんだったら、それはまるで恐怖政治じゃないか」と言うと、彼らは何も答えられません。
 養老氏の本を読んでいると、どこまでが自分の意見でどこからが著者の意見か、ときどき区別がつかなくなって困る。

 彼の言葉が信頼できる一番の根拠は、身体(無意識)を真正面からとらえていることにある。だから立花隆のように臨死体験をオカルト的に扱ったりすることは絶対無い。たんなる脳の癖であるとそっけない。わたしはこれでしびれてしまうのだ。

  • 寄り道して考える 森毅、養老孟司 PHP研究所 1996 NDC914.6
     読みやすいので、森・養老の入門書として最適

(1999-09-27)
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